高みへと上りつめ堕ちていく、その感覚を何度も繰り返し深い眠りについていたはずのルキアの目が覚めたのは、隣にあるはずの気配がなかった所為だろう。
まどろみから一瞬で覚醒した意識は、居間に灯る小さな明かりに気付いて強張った身体を安堵に緩ませる。
無意識に詰めていた息を、ルキアはほっと吐き出した。
部屋の中は、快適な温度を保つエアコンディショナーの静かな振動音が僅かに聞こえるだけだった。今の季節は何だったか、とルキアは少し考える。
この部屋に初めて足を踏み入れたその日の空に浮かんでいた月は満月。
それから月は欠けていき、再び円い姿をルキアの目に映し、そして今はその姿を隠している。
その月のない闇夜に白い裸身が淡く浮かび上がった。
デジタル時計に視線を走らせると、あと僅かで真夜中の三時。
手探りで数時間前に脱ぎ捨てた黒いシルクのスリップドレスを見つけ出す。音を立てずに、できる限りの速さでドレスを身に着けると、ルキアはキングサイズのベッドから降りて、足音を忍ばせ居間へと向かう。
「起こしちまったか」
気を散らせないようにと音を立てないで部屋へ入ったというのに、すぐに恋次は気付いて背後のルキアを振り返った。白いシャツはボタンを留めずに袖を通しただけで、その前を肌蹴た恋次の姿にルキアの視線は引き寄せられる。その引き寄せられる美しさは「色気」というのかな、と口にすればきっと恋次は「何言ってんだ」と笑うだろう。
小さなスタンドの灯りに照らされた恋次の手には書類の束があった。机の上には既に目を通した分なのか、手にした書類の倍ほどの厚さの紙の束がある。
「私こそ……邪魔してしまった」
一人を淋しがるルキアのために、家で出来る仕事は持ち帰り、こうしてルキアが寝入った深夜に一人、恋次は仕事を片付けている。そうと知ったのはつい先日で、ルキアは自分の身勝手さに気付き、なるべく恋次の負担にならないようにと考えていたの―――だが。
恋次が傍にいると、その気遣いも忘れてしまう。全身で甘え、共にいられる幸福に酔いしれる。触れ合える喜びに我を忘れる。そうして太陽の世界の中でひとり、後悔を繰り返すのだ。
「すまない。向こうにいるから」
「何言ってやがる。ほら」
手招きされて、ルキアは淋しそうな顔から一転、嬉しそうに恋次の元へ小走りに駆け寄った。革のソファに背を預ける恋次の横に腰を下ろすと、そのまま恋次の膝へ頭を乗せる。
「こうしてていい?」
「勿論」
手にした書類を硝子のテーブルの上に放り投げて、恋次はルキアの髪を撫でた。しばらくの間、仔猫のようにうっとりと恋次の撫でるままに任せていたルキアは、ようやく恋次の仕事を中断させている自分に気付く。
「仕事、続けて」
「いいんだよ」
「でも」
「大丈夫」
こうなっては、恋次はもう仕事をする気はないとルキアにも解っていた。小さく、ごめんなさいと呟いて目を伏せる。
「何で謝るんだよ?」
「私は……恋次の邪魔をしてばかりだ」
己を責めているのか、ルキアの表情は暗い。そんなルキアの髪を、恋次は笑いながらくしゃくしゃとかき乱した。
「いいんだよ、その方が」
「邪魔をするのが?」
「そう。お前は俺の仕事にまで嫉妬するんだな、と思うと嬉しい」
冗談めかしてそう言う恋次の言葉は、ルキアにとって全くの真実だったので、微かに頬を染めて視線を逸らせた。
全く何てことだとルキアは自分の在りように溜息を吐く。
自分が子供に戻ってしまったようだ。
恋次の全てを独り占めしたくて、恋次の気を惹くどんな些細なことにも嫉妬する。
「まあ、人のことは言えねえな、俺も」
お前をこうして閉じ込めてるんだしな、と、恋次にしては珍しく自嘲気味に笑った。
「私は、自分の意思で此処にいるんだぞ」
自分の恋次への想いを否定されたような気がして、ルキアは険のある声で言い返した。それへ、恋次は苦笑交じりに「ああ……そうだな。悪かった」と頭を撫でる。
「外の世界なんて要らない。お前がいればいいんだから」
そう、世界に二人きりだったらどれだけ幸せだろう。例えば、小さな無人島。二人しかいない世界で、何に気兼ねすることもなく、二人で外を歩けたら。
手をつなぎ、歩く。
風に吹かれて、朝陽をみつめ。
星に照らされて、月を眺め。
美しい景色を、二人きりで独占して。
綺麗な紅を、私だけが独占して。
「……外に、出たいか?」
「それが元の世界に戻りたいのかという問いならば、答えは否だ」
一瞬、元の「朽木ルキア」の片鱗を見せて、ルキアははっきりと言い切った。
「だが、今の恋次の問いが、『俺と一緒に外に出たいか?』という意味だったのならば……」
朽木ルキアからすぐに恋次だけのルキアに戻って、ルキアは言う。
「……ちょっと、出てみたい。……かな」
視線を避けるように、ルキアは恋次の膝に顔を押し付ける。うっすらと赤くなった耳だけが、恋次の目に映った。
「手を、繋いで、歩いたり。疲れたらベンチで休んで。つまらないこと話しながら、道端の花を見たり、樹の緑を眺めたり。喉が渇いたら、自動販売機というものでお茶を買ってみたいな。知ってるか?自動販売機。お金を入れてボタンを押すとお茶が出てくるんだぞ!それで、歩きながらお茶を飲んで、同じお茶を恋次も飲んで、二人でただゆっくり歩くだけ。……私、デートなんてしたことないから……」
言葉の途中で、自分たちの置かれている状況を思い出してルキアは言葉を切った。そんなことが気軽に出来る状態で無いことは、誰より知ってるはずなのに。
人が集まる場所に、出られるはずがないことは承知しているはずなのに。
人の集まる場所は、それだけ危険が伴うことを、見つかったら引き離されてしまうことを、胸が痛むほど不安に思っているくせに。
「しようぜ、それ」
「え?」
「手を繋いで歩こうぜ。疲れたらベンチで休んで、なんでもないこと話ながら、花を見て樹を見て、喉が渇いたら自販機でお茶買って二人で飲もうな」
「でも、私たちは……」
「今なら誰もいないだろ。そうだな、花は見られねえけど、他の事なら出来る。どうする?」
時刻は午前三時。
草も木も人も何もかもが眠る時間。
「……行く!」
目を輝かせ飛び起きるルキアに、恋次は笑ってその頬に口付けた。
スリップドレスの上に黒い上着を羽織って、ルキアは恋次と腕を組み、一月半ぶりに外の世界に足を踏み出した。
二人の部屋があるのは都心の高級住宅地だ。店などは周りに無いから、午前三時という時間に人の姿は全くない。車さえ通らない、聞こえる音も無い、別世界のような不思議な空間。
時間が止まってしまったかのような、―――世界が死に絶えてしまったような。
この世に二人きり―――そんな錯覚さえ真実味を帯びるほどの。
ふたりはゆっくりと、手を繋いで歩きながら、他愛の無い話を装って―――今後の夢を口にする。
いつか二人で遠い場所へ行こう。
「南の小さな島へ行って、そこに小さな家を建てて」
「仕事は?」
「させない。恋次は私とずっと一緒にいるのが仕事」
「そりゃ魅力的な仕事だな」
「朝は一緒に起きて、二人で朝食を作る。私はサラダを作ってパンを焼く。恋次はプレーンオムレツを焼いて、付け合せに茹でたアスパラガスと人参。ハッシュポテトも作って紅茶を淹れて、ヨーグルトにジャムを乗せて」
「俺の方が分担多くねえか?」
「私は朝は弱いんだ」
「はいはいお姫さま」
「二人で向き合って食べる。音楽はクラシック、曲は気分で決める」
「それで?」
「朝の散歩。ああ、家は海の近くに建てて欲しいな。朝の海辺を散歩して、貝を拾って……ん、小さな犬を飼うのもいいな。子犬が私たちの後を付いてくる」
「ああ、いいな。犬は好きだ」
「じゃ、犬は無し」
「ああ?」
「お前は私だけ構ってればいいんだ。子犬を構うなんて時間、あげない」
「…………」
「笑うな!」
「はいはい。で?」
「散歩が終わったら、二人で部屋の掃除。二人で洗濯して、二人で干して。それが終わったら昼食だ。私はサラダと飲み物を用意しよう。軽いアルコールがいいかな。お前はメインのパスタとスープを」
「俺の方が分担多くねえか?」
「恋次の方が料理が上手いから仕方ない」
「お前の料理だって上手いよ」
「……そうか?」
「ああ、昨日の海老のも、一昨日のかじきのソテーも」
「……じゃあ、私が作ろうかな?」
「ああ、それは嬉しいな。お前の手料理食えないのはつまんねえから」
「そこまでいうなら作ってあげてもいいぞ」
「お願いいたします」
「うん」
「それで、昼が終わったら?」
「二人でお昼寝。窓を開け放して、カーテンは風で揺れてる。同じベッドで二人で寝るんだ。恋次は私を抱きしめたまま寝てなくちゃ駄目だぞ?」
「いつもの通りにな」
「そう、いつもみたいに。それで、三時に起きて、紅茶とスコーン。ジャムか生クリームを添えて」
「……食べてばっかりだな」
「それから洗濯物を取り込んで二人で畳んで。夕方になったら市場に行ってお買い物。荷物持ちは任せた」
「ああ。二人分だからな、大した量じゃねえだろう」
「それで、家に帰って二人で夕食の準備。メニューはその時の買い物の内容によって。アルコールと音楽。時々庭で食べて」
「それから?」
「それから……」
「ん?」
「それから、お風呂に入って」
「一緒に?」
「うん」
「それで?」
「それで……いつも通り」
「いつも通りってなんだよ」
「……今みたいな」
「今?こんな風に散歩?」
「違う!」
「じゃ、何だよ」
「いつもみたいに、一緒に……寝る」
「寝るだけでいいんだな」
「―――ああ、そうだな。一緒に寝るだけだ。何かしたら許さないぞ」
「そう来たか、へぇ」
「お前が意地悪だからだ!」
「わかったよ。いつもみたいに愛し合って、と」
「……そうだ」
「毎日、お前が気を失うまで」
「そこまではしなくていいけどっ」
「いいのか?しなくて」
「……時々でいい」
「時々か」
「……一日おきくらい」
「わかった、一日おきだな」
「……別に、……でも、いいけど」
「何?」
「別にお前がそうしたいのなら毎日でもいいけどっ!」
「じゃあ毎日」
「やっぱり朝食はお前が全部用意してくれ」
「そうだな、そうなりそうだ」
他愛無い話、他愛無い夢。
手を繋いで二人は誰もいない夜の街を歩く。
途中目に付いた自動販売機で、ルキアは念願のお茶を買った。小銭を入れてボタンを押し、取り出し口からペットボトルを取り出す、そんな当たり前のことを面白そうに、恋次の説明を聞きながら体験したルキアは、蓋を開けたペットボトルを恋次から渡されて、そのまま口へと運び喉を潤す。
「こんなことしたの初めてだ」
無邪気に喜ぶルキアから恋次はペットボトルを受け取って、同じように口をつけてお茶を飲む。
「いつか、電車に乗ってみたいな。自動改札というのがあるんだろう?……それにしても何故みんな自動なんだろう」
膝ほどの高さの段に飛び乗って、平均台の上を歩くように両手を広げて歩くルキアを、笑いながら見つめる恋次の瞳は穏やかで優しい。
その目が、一瞬にして険しくなった。
何も言わずにルキアの身体を抱き上げ、そのまま走り出そうとした恋次の目の前に―――黒い影が音もなく現れて、恋次の行く手を遮った。
両手を前に突き出した姿勢のまま、その影は動かない。
その右手に握られた―――その独特なシルエット。
その影から庇うように、恋次は抱き上げていたルキアをそっと地面に下ろし、自分の背後にかくまった。全身から緊迫したオーラを発している。
氷のような視線で目の前の影を睨みつける恋次の背中で、ルキアは小刻みに震えていた。
「恋次……」
「大丈夫だ、お前は俺が護る」
安心させるように、恋次はルキアの手を握り締める。
「私がルキアを傷付けるはずが無いだろう」
二人の前に、新たな影。
夜の闇が集まり人の形を取ったような―――漆黒の闇の具現のような。
静かな声。
感情のこもらない、冷たい声。
その声が一変し、穏やかに優しく話しかける―――ルキアに向かい。
「もう大丈夫だ」
以前と変わらぬ優しい声で、恋次と同じ言葉を口にする―――その、美しい存在。
秀麗なその顔、それは―――今、決して見つめてはいけない存在。
見つめてしまえば、世界が終わる。
恋次と二人きりの、硝子の世界の―――終焉。
「助けに来た。―――怖かっただろう」
優しい、声。
見たく無いと目を閉じても、言葉は容赦なくルキアの耳へと這入り込む。
その優しい声は、ルキアの望んだ世界を壊していく。
無数の亀裂が放射状に広がる。
悲鳴のような音がする。
軋んだ世界の絶叫が。
「―――ルキア」
硝子の世界が―――粉々に砕け散った。
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