「れんちゃん、こっち来てよ!」
 弾んだ幼い少年の声に、恋次は動かしていた手を止めて声の主の方へと歩み寄る。声のままに目を輝かせている少年の手元を覗き込んだ恋次は、少年が誇らしげに示したその箇所を見て感嘆の声を上げた。
「ん?……大分上手くなったじゃねえか!これなら大丈夫だな、ばっちりだぜ」
 恋次の言葉が余程嬉しかったのか、少年は頬を染めて照れたように笑った。更に細かい助言を与える恋次の一言一言に、頷いて見上げるその瞳には尊敬の色が浮かんでいる。
「ずるいよ、僕にも教えてよ」
 別の少年が恋次の元へと駆け寄って、更にもう一人が加わって、恋次を中心に少年たちは腰を下ろし、その場は恋次の講習を聞く場と化した。
 その様子を、少し離れた家の窓から眺めている少女がいる。
 小柄で目の大きなその少女は、笑うと場を和ませる可愛い顔立ちをしているが、今のその少女の顔に笑顔は影も形も無い。冬空の下、来週末開催されるバザーの為に家具や小物の補修をしている恋次たちを家の中から眺めながら、滑らかな肌の頬を膨らましていた。
「私だって出来るのに。一緒にやりたいって言ったのに、恋次の莫迦」
 家具の補修は大変だ。塗装が剥げた部分を塗り替えたり、ささくれ立った部分にやすりをかけて滑らかにしたり、ニスを塗って光沢を出したり、破損した部分を張り替えたり。まだ小さなルキアには出来る事は限られているが、それでも一緒に外にいれば、拭いたり磨いたりは問題なく出来る筈なのに。
「風邪引くから駄目だ。お前は中で先生の手伝いしてろ」
 そう恋次に一蹴されて、ルキアは一人、皆とは違う作業をする羽目になってしまった。
「恋次がここにいれば、いつもルキアと一緒にいられるって思ったのに、全然ルキアと一緒にいられないんだもん。ルキアつまんない」
 視線の先には、作業をする恋次と共に暮らす三人の少年達の、楽しそうな姿がある。最近恋次は少年達に請われて色々な事を教えている。器用な恋次は何でも上手で、それはルキアも自慢だったが、その所為で恋次がルキアと離れているのは大問題だ。
 そのルキアの膨れ顔を見てシスターは笑う。
「みんな恋次君が好きなのよ。仲が良くていいじゃない?」
「恋次はルキアだけのなのっ!」
 ムキになるルキアに、シスターは既に過去になった、2ヶ月前のあの日の事を思い出す。
 傷を負い、街で倒れていた少年を助け、この教会へと運び込んだ日。
 そして、少年が眠りから覚め、言葉を交わしたあの日。
 目覚めた少年は、暗く乾いた冷たい目をして、空虚な雰囲気をその身に纏っていた。その、まだ子供といえる年齢に不釣合いなまでの雰囲気に、シスターは内心不安を抱いた。
 更に、ルキアが今まで見たことが無い程その少年に心を寄せて行く様を見て、不安は増大し―――そしてそれはルキアを激しく拒絶した少年の言葉で現実となった。
 幼い頃から、酷い仕打ちを受け続けていたルキアが、ようやく見つけたと思ったその相手からの冷たい言葉に、シスターはルキアがもう二度と笑うことが出来なくなってしまうのではないかと―――そう危惧する程、ルキアの心の傷は深かった。
 その日の午後中ずっと、一人教会の椅子に座り俯いていたルキアに、シスターは声をかけることが出来なかった。迂闊に声をかければ、迂闊な事を口走ってしまえば、ルキアの心は更に傷付いてしまう。何も出来ない自分を歯痒く思いながら、シスターはルキアをそっとしておく以外なかった。
 そして、夕飯後、ふと気がつくとルキアの姿が無かった。
 教会中を探し回り、教会の外を探し、それでもルキアは見つからず、シスターは蒼ざめた。
 ルキアは今まで辛い目に会い過ぎている。そのルキアのようやく見つけた幸せが、自分を求めていないとルキア自身が知ったのなら。―――絶望して、全てを諦めてしまったとしたら……?
 動揺しながら見渡した部屋の隅の戸棚に、口の空いた白い袋を見つけて、シスターはそれが少年の薬が入っている袋だと気がついた。昼に薬を持って行った時には、きちんと閉めたはずの薬の袋の口が開いている。近づいて中の個数を確認すると、一つ足りなかった。
 ルキアの性格上、あそこまで拒絶された相手の元に一人で行くことはないだろうと、少年の部屋に探しに行ってはいなかったが……薬が一つない以上、少年の元へ運んだのはルキアと考えて間違いない。
 逸る胸を押さえ、シスターは少年が一人休むその部屋の扉をそっと開けた。
 明かりのついていないその部屋の中は暗かった。ただ窓から差し込む月の光が、ベッドの上を青く白く照らしている。
 ルキアの姿はない―――落胆しながら、それでも少年の傷の具合を確かめに、シスターは部屋の中にそっと入った。
 眠っているらしい少年を起こさないように、ベッドへと近づく。―――そのシスターの目に映ったのは、寄り添いあって眠る少年とルキアの姿だった。
 胸にしっかりとルキアを抱き締めた少年と、甘えるように身体を寄せるルキアの二人の表情はとても幸せそうで、穏やかで、あどけない。
 求めるものを手にした二人の姿に、シスターは微笑んで、恐らく同じ夢を見ている二人を起こさぬように、そっとベッドから離れて扉を閉めた。


 次の日、揃って目の前に現れた二人に、「歩いて平気?」と声をかけたシスターに、少年はバツが悪そうに頷く。その後も複雑な表情で、少年は昨日のルキアに対して自分がとった行動とは明らかに矛盾する今の自分の行動に、どう説明しようかと悩んでいるようだった。それに気付いたシスターは、その説明は必要ないと、小さく首を横に振って微笑む。
 僅かに頬を染めて視線を外す少年の姿に、シスターは初めて少年の歳相応の姿を見た。
「あのね、先生、れんじもここで一緒に暮らしてもいいよね?」
 弾むルキアの声が少年を「れんじ」と呼んだ事に気がついて、シスターは軽く目を見開き、
「れんじくんっていうの?」
「うん、ルキアがつけたんだよ!」
 そのルキアの言葉に、シスターは「まあ……」と言って笑みとも困惑とも言える微妙な表情を浮かべた。その表情から、少年がこの名前には何か意味がありそうだ、と気付いたのは、その観察眼の確かさ故だろう。
 そしてその微妙な表情の意味は、その場に現れた白い猫によってすぐに判明した。
「れんた!」
 ルキアが両手を広げて猫を呼ぶと、大分歳らしいその猫は、大きな身体をゆっくりと動かしてルキアの前に座った。その猫を抱き上げて、ルキアは、
「れんた、今日から家族になる『れんじ』だよ?ルキアの『うんめいの人』なんだよ、仲良くしてね」
「ちょっと待て……『れんた』?」
 嫌な予感がして少年がルキアにそう尋ねると、ルキアは「なあに?」と首をかしげて恋次を見上げる。
「真逆お前、俺の名前その猫から取ったんじゃねーだろうな?」
「どうして?そうだよ、れんたから貰ったんだよ?だってれんたの方がお兄ちゃんだもん。お兄ちゃんの次の男の子は『じ』って付けるんでしょ?」
 屈託なく笑うルキアに、れんじは「マジかよ……」と額を押さえた。自分の名前が猫から来ていたとは。そういえば名前を付けると言ってからやけに早くこの名前が出てきたんだったと思い出してれんじは溜息をつく。
「……いやなの?」
 不安そうに見上げるルキアに、「嫌じゃねーよ」と慌てて返して、ルキアの頭に手を置いてくしゃっと撫でてやると、ルキアはほっとしたように笑った。
 そんな二人を眺めて、シスターはくすくすと笑う。
「じゃあ、漢字も恋太と同じでいいかしらね?」
「漢字って?」
「そうね、なんて言えばいいかしらね……意味を表す文字、という事かしら」
「わかんない」
「ルキちゃんにはまだ難しいわね」
「……どんな漢字なんだ?」
 恐らく予感はしているのだろう、れんじはシスターが紙にさらさらと書いた、自分の名前になるその文字―――「恋次」の文字を見て唸り声を上げた。
「よりによってこれかよ……」
 学校には行ってなかったが、一通りの勉強は男の元で、独学とはいえしてはいたので、その文字がどんな意味を持っているかは知っていた。あの灰色の生活で、最も対極にあった世界の言葉だ。
「……変えてくれ、漣とか煉とかに」
 頭を抱える恋次を不思議そうに眺めて、ルキアはシスターへ「ねえ先生、これはどんな意味があるの?」と首をかしげた。
「これはね……そうね、『誰かを好きになる』っていう意味……『誰かを大切に想う』という事よ」
 そのシスターの言葉に、ルキアは目を輝かせる。
「これがいい!これにしよう?恋次」
 ね?とルキアに笑顔を向けられると、恋次にはもう否とは言えない。内心の溜息は押し隠して、恋次はルキアへ向かって頷いた。その表情が微妙に引き攣っているのにルキアは気付かず、気付いたのは幸いシスターだけだった。
「でもね、『誰か』じゃないよね?それはルキアのことだよね?」
 そう無邪気に甘えるルキアから、勢いよく視線を逸らした恋次のその行動の源は、昨日までの反発と冷たさからではなく、ただ照れているだけだと解ってシスターは横を向いて必死に笑いを堪える。少年が最初に見せたあの空虚な雰囲気は、既にもう何処にもなかった。
 恋次には幸いな事に、ルキアはそれ以上の追求はせずに、興味は自分の名前へと向いたようだ。「ルキアには漢字、ないの?」と、つまらなそうに呟くルキアに、シスターは「漢字は無いけどね、ルキちゃんの名前にも意味はあるわよ」と頭を撫でる。
「ルキちゃんの『ルキア』は、ラテン語の『Lux(ルクス)』……『光』から来てるのよ。他にもね、聖ルキアって女の人がいるから、その人から貰った名前かもしれないわね」
「光?」
「そう、光。ルキちゃんは誰にとっての光なのかしらね?」
 悪戯っぽくそう言ったシスターの言葉に、ルキアは物問いた気に恋次をじっと見詰め、その無言の「お願い」に気付き、けれどとてもそんな事を言える筈はなく、恋次は「傷が痛え」とその場を逃げ出した。
 けれど、ベッドに潜り込んだ恋次の傍らで、ルキアはにこにこと、
「ねえ、ルキアは誰の光?」
「恋次にとっての光って誰?」
 と散々尋ね続け、ついに降参して恋次がそれを口にしたのは、夜、再び同じ布団に入ってからのことだった。






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