車は都内の道路を複雑に辿った後、辿り着いたそこは最初の店にそう遠くない場所のようだった。1時間弱車で走ったにしては、周囲の景色は都会のそれだ。その走行の仕方から、ルキアは阿散井恋次が尾行の有無を調べているのだろうと考える。
 車は何の変哲も無いマンションの入口から地下駐車場へと入っていった。あの「阿散井」の御曹司が住むにしてはあまりにも一般的な、ありふれたマンションの外観にルキアは違和感を覚えたが、口には何も出さずに助手席から無表情に前を見据えていた。
 地下駐車場に並ぶ車の車種も、一般人の持つセダンやワゴンが多い。その中でルキアが今乗車しているこのフェラーリF430スパイダーはあまりにも異質だった。
 コンクリートが剥き出しの、ぼんやりとした照明がどこか心寂しい駐車場に、エンジンの音が反響する。その奥に乗り入れた恋次は、駐車位置でもない壁の前で車を止めた。
 今度は不審そうに横の恋次に視線を送るルキアを気にする様子もなく、ドアポケットから小さなリモコンを取り出した恋次は、ルキアの見守る前で壁に向かってそのスイッチを押す。
「!」
 息を呑むルキアの前で、ただの壁だと思っていたものが、機械制御されたひとつの大きな扉である本来の姿を現した。軋む音も無く、静かに滑らかに灰色のコンクリートはスライドしていく。充分に開ききった後、先に広がる暗い空間に向かって恋次は車を乗り入れた。ライトに浮かび上がるのはただの灰色の壁が真直ぐに続いている景色でしかない。その暗闇に車が入ったと同時に、背後の壁は再び静かにスライドして扉の役目を終えただの壁へと姿を戻した。
「これであんたは閉じ込められた訳だ」
 からかうようにルキアを横目で見、皮肉な笑いを浮かべる恋次に向かって、ルキアは動じる様子もなく冷たい視線を向ける。くくく、と喉を鳴らして恋次は前へと視線を向けなおした。
 何も無い地下道を車は進んでいく。時折道が分かれている場所があるが、恋次は迷う様子もなくハンドルをきり―――やがて行き止まりの場所に辿り着いた。
 無言で車を降りる恋次から数秒置いて、ルキアもドアを開いて車から降りる。淡い照明の下で、壁につけられたパネルの上を恋次の指がピアノを弾くように軽やかに踊る。程なくピピッという電子音と共に、先と同じように目の前の壁が静かにスライドし始める。
 開いた扉の先に現れたのは、エレベーターの扉だった。ボタンを押すと直ぐに開いたエレベーターは普通のものよりも小さく、三人も乗れば一杯になるだろうと思われる。そのエレベーターに乗るよう恋次に視線で促され、ルキアはそれに無言で従う。
 乗り込んだエレベーターにはボタンがひとつしかなかった。そのボタンを押し、するするとエレベーターは上昇を始める。その時間を計りながら、ルキアはおおよその建物の高さを測る―――3、6、9、12、……20?
 軽い揺れと同時にピ、という電子音が狭いエレベーターに響き、扉が開いた。
 そこを一歩踏み出したルキアの目に映ったのは、エレベーターホールではなく、大きな広い部屋の内部だった。
 敷き詰められた足の長い絨毯、白と黒で纏められた家具。生活の香りの殆どない、どこか殺伐としたこの部屋の一番の特色は―――壁に窓が一切無いということだろう。
 そしてもうひとつ、同じほどに奇異な―――稀有な、それ。
 白い壁は切れ目なく延々と続いている。窓の無いその壁から頭上に目を移せば―――一面に硝子が張られていた。
 思わず息を呑み見上げるルキアの頭上に広がる夜の闇―――そして、ルキアを見下ろす白い月。
 驚くルキアを無視して、恋次は明かりをつけないまま部屋の中央へ歩いていく。月の光で部屋の中は微かに明るい。その月光の下、恋次は歩きながら上着を脱ぎ、どさっと腰を下ろし上着をソファの背に放り投げた。
「で?」
 ネクタイを外し上着の上に重ねると、恋次はソファの前のテーブルに足を乗せルキアを値踏みするように目を細めた。その不躾な視線を無視し、頭上の景色から視線を恋次へと戻すと、ルキアは歩を進めその前に立つ。
「取引だ、阿散井恋次」
 感情の読み取れない、冷たい声がルキアの紅い唇から発せられた。
「何と何を?」
「兄の生命と私」
 間髪入れずに返されたルキアのその言葉に、恋次は面白そうに笑った。嘲る視線を隠さずにルキアを見つめ笑う。
「何のメリットも俺にはねえじゃねえか」
 取引とは呼べねえな、と嘲笑う恋次に、ルキアは「お前のメリットは効果的に兄を傷付けるということだ、兄の生命を奪うよりも深く」と無表情に告げた。
「兄は私を自分の生命よりも大切にしている。恐らく兄は私が傷付けられることを、己の生命を奪われることよりも恐れている」
 細めた目でルキアを眺める恋次に向かい、ルキアは更に淡々と言葉を続ける。
「そしてこの取引による私のメリットは―――勿論兄の生命を護ることができるということ。そのためならば私の身などどうなっても構わない。私も兄と同じように―――私自身の生命よりも、兄の生命を大事に思っているのだから」
「麗しい兄妹愛だな」
 莫迦にしたようにそう言うと、恋次は氷のような視線でルキアを見つめた。その視線に曝されても、ルキアは眉ひとつ動かさない。
「で、あんたは俺に殺されに来たって訳か」
「お前がそうしたいのならば」
「つまり?」
「お前の好きなように。殺すも自由。傷付けるも自由。その代わり―――兄の生命を奪うことは諦めてもらう」
 ルキアを見つめる恋次の瞳に、紛れもない憎悪が―――激しい怒りが、深い絶望が、燃え上がる。
「そこまで―――お前は」
 ゆらり、と―――焔が、恋次の身体が燃え上がるような錯覚。
「お前は―――あの男を」
 怒りの、憎しみの焔は、突然かき消すように消えた。
 変わって現れたのは―――突き刺す視線はそのままに、口元だけで酷薄に哂う―――危険な笑み。
「殺すのも自由、傷付けるのも自由―――そう言ったな?」
 無言で頷くルキアに、恋次は。
「脱げよ」
 微かに、ルキアの顔が蒼褪めた。
 今まで無表情を保っていた顔が初めて動揺を見せる。
「ご希望通り傷付けてやるって言ってんだ。―――脱げよ、そこで。手前で、俺の見ている前で」
 凍りついたように動かないルキアに、恋次は「手前の覚悟はその程度かよ?」と蔑みの目を向ける―――今度はその視線を受け止めることが出来ずに、ルキアは唇を噛んでうつむいた。手が、無意識に小さな鞄を握り締める。微かに震える手で、鞄の中の物を確かめるように、縋るように黒いバッグを抱きしめた。
「お兄様の助けを呼ぶか?生憎、この部屋は全ての電波を遮断してるんだよ」
 携帯電話は使えねえぞ、と恋次は笑う。
「言っとくがこの部屋の存在は誰も知らねえ。最初に入ったマンションの地下駐車場、あそこからここまで通る地下道を知ってるのは誰もいない。マンションの最上階にこの部屋があることは、このマンションに住んでる奴らすら知らねえだろうよ。外から見てもこの部屋の存在は気付かれねえ。お前の大事な兄様ですらこの部屋を見つけることは出来ねえよ。つまりお前は此処から出て行けない。俺の許しなくは、な」
 あの最初に車が入ったマンション、そこは恐らく、数ある入口の内のひとつなのだろう。そこからこのマンションに着くまでの距離、それを考えると、この周囲一体は阿散井家の所有するものということか。自身の土地の地下に何を作ろうと勝手―――誰も知らない無数の通路。誰も存在を知らないこの部屋。つまりそれだけ―――この男にも生命の危険がある、と―――。
「如何するんだよお嬢様?あんたのお兄様の生命と引き換えに、何でもするんじゃなかったのか?」
 その嘲笑に、ルキアの手が、恋次が足を乗せる机の上にバッグを置いた。
 震える手で背中のホックを外し、震える指でファスナーを下ろす。
 ワンピースがするりと足元に落ちた。
 月明かりの下に、ルキアの白い肌が淡く浮かび上がる―――下着だけの姿で、ルキアは小さく息を吸うと恋次の顔を真正面に見据えた。
「上出来だよ」
 残酷に笑う―――恋次はソファから立ち上がった。
 ルキアの前に立ち、真上から見下ろすその瞳に浮かぶのは、熱ではなく―――冷気。
「お前の望む通りにしてやるよ」
 手首を掴まれ、勢いよく引き寄せられる―――バランスを崩し倒れ掛かる頭を支えられ、そのまま否応なく唇を奪われた。
 教会で初めて触れた唇とは違う―――攻撃的なその口付けに、反射的に腕を挙げ顔を背けようとしたルキアの動きを封じ、更に深く舌を絡め、手首を押さえ、呼吸を奪い―――ようやく唇を離し、けれど手首の縛めは解かずに、恋次はルキアの間近に顔を寄せ。
「―――傷付けてやるよ。身体も、―――心も」
 悪魔のように残酷に、悪魔のように美しく―――恋次は、笑った。






  

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