教室の扉の前で岩崎は足を止めると、重い溜息を吐いた。
 ここまで来るのも気は進まなかった。重い心で、重い足を引き摺り、嫌々この学校へと来た。
 恐らく今日から自分の居場所はこの教室には―――この学校には無いだろう。
 この扉を入った途端向けられる冷たい視線を思い岩崎は震え上がる……否、もしかしたら誰一人自分に視線を向けるものは無いかもしれない。糾弾よりも尚辛いその仕打ちに、岩崎は昨日の自分の浅はかさを呪った。
 昨日―――朽木ルキアの目の前で岩崎がしたこと。
 岩崎がした、というのは厳密には違うかもしれない。岩崎から「した」ことではなく、岩崎は「された」、というのが本当の所だが―――そんな言い訳は誰にも通用しないだろうことも、岩崎にはよくわかっていた。
 岩崎は紛れもなく、朽木ルキアを忘れあの男に溺れていたのだから。
 朽木ルキアが恐らく好意を寄せている相手と、よりによってその朽木ルキアの目の前で。
 岩崎にはそんなつもりはなかった。だが男の顔を間近で見、その瞳に射抜かれて―――岩崎は陶然となった。次いで重ねられた唇、その「口付け」等と言うには生易しすぎる強烈な快感、愛撫に、スカートの中を這い回る手に、その指が与える刺激に、舌が煽る感覚に―――岩崎は全てを忘れた。
 舌と指、それだけで達した。人の大勢いる前で、朽木ルキアのいる前で―――。
 ―――最悪だ。
 岩崎は唇を咬む。
 恐ろしくて、教室の扉を開けることができない。
 行為の余韻に茫然とした後、我に返った時には朽木ルキアの姿はなかった。岩崎が隣へ視線を移すと、男は携帯電話で何かを話している。その通話は直ぐに終り、男は岩崎に向き直り、言った。
「車呼んだから、それに乗って帰れ」
 あまりにもあっさりしたその物言いに、戸惑うように岩崎は男を見上げた。先程までの態度と違う―――目の前の自分には既に興味が無いような……。
 そこでようやく岩崎は気がついた。
 ような、ではなく―――男は自分に、興味が無いのだ。
 自分は何かしてしまったのだろうか、と青くなる。気に障るようなこと、致命的なことを何か。
「ん?どうした?」
 煙草に火をつけて、男は岩崎に視線を送る。―――何の感情も見取れない、紅い瞳。
「いえ……あの」
「気をつけて帰れよ」
 それははっきりとした、この場を去れという命令だった。よろめきながら立ち上がった岩崎は、ふらつきながら入口へと向かう。その途中ですれ違った、最初に男の横に座っていた女たちに鼻で笑われ、岩崎は蒼白になった。
 逃げ出すように店を飛び出し、車を待たずに走り出す―――背後に女達の笑い声が聞こえたような気がして、岩崎はただ店から離れるために、必死に走り続けた。
 そしてようやく自分の部屋へと辿り着き、制服を脱ぎ捨て布団に潜り込み―――自分の仕出かした事に蒼褪める。
 朽木ルキアの怒りを買った。
 それは―――破滅と同じこと。
 自分ひとりで事は収まらないかもしれない。もし朽木ルキアが一言、兄の朽木白哉に岩崎の不満を告げたのならば―――父親の会社は一瞬で消えることだろう。
 そうなった場合―――自分の生活、我儘に贅沢に過ごしてきたこの生活も一瞬で消える。
 がくがくと震える身体を抱きしめて、岩崎は眠れぬ夜を過ごし―――そして今、重い心と身体で教室の前に立っている。
 出来れば来たくはなかった。朽木ルキアの不興を買ったと知られれば、もう自分に話しかける者もないだろう。教室で、学校で孤立し……自分の居場所は無い。
 来たくはなかったが、それでも僅かの望みに賭け―――朽木ルキアの謝罪し、許しを請い、何でもするからと土下座をしてでも―――
 不意に扉が開いた。
 硬直する岩崎に、取巻きの一人が「如何したの、岩崎さん」と不思議そうな顔をして話しかけた。
「入らないの?」
「あ―――あ、入るわよ」
「おはよう、岩崎さん」
「お……おはよう」
「……如何したの?」
「え?いえ、別に」
 普段と変わりない教室―――普段と変わり無い級友の態度。
 ぎこちなく自分の席へと歩き始めた岩崎は、凍りついたように足を止める。
 朽木ルキアが、真直ぐに見ていた。
 表情はなく、冷たい瞳で―――岩崎を見据えている。
「く、……朽木、さん」
 震える唇から発した震える声、震える岩崎の前で―――ルキアは微笑んだ。
 凍てつく空気はもう何処にもない。美しく微笑みながら、ルキアは岩崎に声をかける。
「昨日は色々すまなかったな」
「―――あの、私……」
 戸惑い言葉を詰まらせる岩崎を無視し、ルキアは笑顔で言葉を続ける。とても有意義な時間だった、家に招待してよかった。とても身になるものの多い時間を過ごすことができた、とにこやかにルキアは岩崎に友好的な態度をとる。
「お陰で―――私が何をすべきかもはっきりとした」
「……え?」
「礼を言う―――ありがとう」
 にこやかに岩崎へ頭を下げるルキアに、周囲の級友たちは驚きと、岩崎の今後の学校での地位の向上―――朽木ルキアがバックに付いたのだ、これ以上の幸運は無い―――に嫉妬と羨みの視線を向ける。
 その周囲の視線の中、目の前の美しく穏やかな笑みを浮かべるルキアの心がわからずに蒼褪めながら、ひとり岩崎は立ち尽くしていた。








「お願いがございます―――兄様」
 甘えるように、ソファに座る白哉の背後から腕を絡め、ルキアは耳元に囁いた。
 あれ以来―――阿散井恋次がこの屋敷に現れて以来、白哉は以前に比べ頻繁に屋敷へと帰ってきている。万全の体制を布いていたセキュリティがあまりにも簡単に突破された事実に、白哉はいくら多数の者が警備をしているとはいえ、ルキアを一人残しているのが心配なのだろう。
「聞いていただけますか?」
「願いの内容によるな」
 振り返り笑いながらそう言うと、ルキアは絡めた腕を外し、羽のようにふわりと白哉の横に座った。もう一度「お願いがございます」と白哉の腕に自分の腕を絡める。
「銃の訓練を受けたいのです。その時に躊躇わずに撃てるよう」
 何処かへ一緒に出かけましょう、というような気軽さで、ルキアはその言葉を口にした。
「出来れば充分に―――完全に。何気なくさり気なく扱えるように」
「―――ルキア」
「そうすれば兄様も安心でしょう?それに銃の扱いに長ければ、私が兄様をお護り出来ますもの」
「私は―――お前にそれを求めてはいない。……あれをお前に渡したのは間違いだった」
「私は―――怖いのです、兄様」
 ふ、と視線を下へと逸らし、ルキアは小さく呟いた。白哉に絡めた腕を解き、両手を、震える身体を隠すように自分自身を抱きしめる。
「学校にいても―――教室にいても。誰かが見ている気がいたします。気の所為だと自分に言い聞かせてみても、その感覚は消えない―――怖いのです、兄様。学校には兄様はいない。私は自分で身を護るしかないのです―――でも私には自分で自分を護る術はございません。ですから―――銃の訓練を。そうすれば、この気弱さも駆逐できるでしょう―――なんと情け無い妹だと思われることでしょう、朽木の名に相応しく無い惰弱者と。ですから私は―――」
「ルキア」
「ですから私は―――お願いです兄様。私が私に自信を持つためにも。その時が来たならば、怯まず引き金を引けるように。どうか、兄様」
 ひたむきに懇願するルキアの瞳を真直ぐに見つめ、白哉は暫く無言だった。ルキアの瞳を受け止める白哉の瞳は僅かに哀しみの色に揺れている。
「お前の手は美しい」
 己の身体を抱きしめたままのルキアの手に白哉は触れ、そっと縛めを解き、ルキアの手をそのまま自分の口元に近づけた。
 手の甲に唇で触れ、次いで指と指を絡ませる。
「この手を血で汚す必要は無い。お前はいつまでもそのままで―――穢れなく美しいままのお前でいて欲しい」
 ルキアを引き寄せ抱きしめる。その髪に顔を埋め、白哉は「私の手は幾人もの他人の血で汚れている」と囁いた。ルキアは白哉に身を委ね、頬を白哉の胸に押し当て、白哉の触れるままに無防備に寄り添っている。
「……いや」
 突然言葉を切った白哉は、小さく声に出して笑った。「……他人どころか」そう苦笑し呟いた声はルキアの耳には届かず、白哉はサイドテーブルへと手を伸ばすと卓上の受話器を取り上げた。
「花太郎を此処へ」
 程なく現れた花太郎は、抱擁しているとしか見えない白哉とルキアの二人に、一瞬驚きを見せたものの直ぐに行儀良く何も見えていない体で頭を垂れた。花太郎の前でも二人は特に気にする様子もなく、白哉はルキアを抱きしめルキアは白哉の腕に抱かれている。
「お呼びですか、白哉さま」
「明日、お前はセンターに行け」
「畏まりました、白哉さま」
 異を唱えず命じられるままに花太郎は白哉に従う。
『センター』は、朽木家専属のSPたちの訓練場の通称だった。花太郎は年に一度はそこに通い、ルキアを護るための技術や体術、そして射撃訓練を受けている。
 一日がかりの訓練はかなりハードなものとなる。相応の準備も必要だったが、花太郎は何も言わずに許諾の意を伝えた。
 一方ルキアはその言葉を聞き、白哉の胸にもたれていた頭を上げ、「兄様」と抗議の声を上げた。
「兄様、センターは私がとお願いしましたのに。お願いを聞いていただけると、約束したではないですか」
 白哉の腕の中で首を傾げ、見上げるルキアの甘えるような声に、白哉の口元に苦笑が浮かぶ。
「お前自ら銃を扱う必要は無い。その為の花太郎だ」
 その白哉の言葉に頷くように、花太郎は無言で頭を下げる。
「有事には花太郎がお前の替わりに引き金を引く。間に合わぬ時は花太郎がお前の盾になる。その為に花太郎はいるのだ。お前は何も気にしなくて良い」
 見上げるルキアの瞳を受け止め、優雅に手を伸ばし腕の中のルキアの前髪をかき上げ、白哉はその額に唇で触れる。
 それを目を閉じ受け入れるルキアと、美しい兄妹を見つめる自分、「盾になれ」という命令―――まるで幼い頃に戻ったようだ、と花太郎はふと思った。
 あの時から変わらずこの兄妹はあまりにも美しく―――あの時から変わらず、この兄妹は愛し合っている。
 そして自分も。
 あの時と変わらず、この美しい女性を崇めている。
「―――花太郎」
 白哉の腕に抱かれたまま、ルキアは言う―――幼い頃に花太郎を魅了したその強い瞳で。
「私の盾―――私の為に死ぬのも構わぬと?」
 ああ、と花太郎は感嘆する。
 ぞくぞくするほどの美しさ。全ての者を従える紫の瞳。支配する瞳、冷たく美しい氷の炎。
 妖しい笑みを浮かべ、試すように自分を真直ぐに見つめる氷の瞳。
「はい―――はい、ルキアさま」
「そうか―――では、任せた。私の代わりに、明日は頼むぞ」
 白哉の腕に抱かれたまま、小さく微笑んでルキアは手を差し伸べる。その手を恭しく押し抱き、花太郎は白い手に己の唇を触れさせ、服従の証とする。
「この御手が傷付くことが無いように、全て私が引き受けます―――ルキアさま。ルキアさまの代わりは、全て私が」
「期待している。―――花太郎」
 退室を命じられ、扉が二人を隠す最後の瞬間まで、花太郎は崇拝する女神の姿をひたすら見つめ続けていた。









「結局、お願いは聞いてくれませんでしたのね」
 再び二人きりの部屋の中で、ルキアは甘えるように白哉の首へ両手を回す。
「兄様は昔からいつもそう。本当にお願いしたいことは決して聞いてくださらない」
「お前の言う『本当にお願いしたいこと』は、大抵お前の我儘だから仕方ない」
「違いますわ、兄様が意地悪なだけ―――兄様?」
 浮かべた微笑を消し、白哉は目の前のルキアを見つめる。目の前の、訝るように首を傾げるルキアを暫く見つめ、再び安心したような笑みを白哉は浮かべた。
「如何なさいましたか、兄様」
「いや、―――此処暫く、お前の表情が曇っているような気がしていた。それが今日は―――以前のままのお前だ。それに安心している。お前の表情が暗くなったのは、あの日―――阿散井が現れたあの日以来だった故―――不安にさせたな、ルキア」
 阿散井。
 その名前を耳にしても、ルキアは何一つ、微かにも表情を変えることなく微笑を浮かべたままだった。その名前を知らぬように、ただ微笑んでいる。
「心惑いもしましたが―――それも今はございません。私は朽木ルキア―――兄様の妹。それだけを心に刻み付けていれば良いことですもの。不安になる必要はなかったのですわ―――私には兄様がいらっしゃる。それに」


 惑いの元凶は、消してしまうことに決めたのです。


「―――どうした、ルキア?」
「いえ、何も―――紅茶を如何ですか、兄様?兄様のお好きなメティスを取り寄せましたから。勿論私手づから淹れてさしあげますわ」
「それはとても魅力的な申し出だが―――私としてはもう少しこのままでいたいのだが」
「構いませんわ。私は兄様と違って、兄様の願いは全て叶えてさしあげますから」
 くすくすと笑って、ルキアは白哉の胸に頬を寄せた。
 白哉の腕と香りに包まれ、その埋めた顔に浮かぶルキアの笑みは、以前は浮かべることの無かった凄惨な美しさに溢れていた。






 

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