岩崎さんを家に招待した、というルキアの言葉に花太郎は訝しげに眉を顰めて、同じクラスである岩崎を眺めたが、岩崎は全く気にした様子もなくルキアの背後で笑みを浮かべている。
「如何なさったのですか、突然」
「別に意味など無い。招待したいから招待しただけだ」
「そうゆうこと。私と朽木さん、お友達なんだから」
くすくすと笑う岩崎に、花太郎があからさまに不審な顔を向ける。今までルキアと岩崎の接点は無い。花太郎の普段の観察からいえば、どちらかと言うとルキアは岩崎の事を嫌っていたはずだ。
それが、何故。
強い視線を向ける花太郎に気付き、岩崎の表情が一変した。お嬢様然とした表情が一瞬で消え、その顔に浮かぶ表情が険しいものになる。
「何よ?……さっさとドアを開けなさいよ、使用人」
岩崎も花太郎の出自は知っている。同じクラスに在席しているとはいえ、花太郎は自分たちとは違う。ただの使用人、岩崎から見れば、本来ならば自分と口を聞くことすら許されない下等な人種だ。
虫けらを見るような岩崎のその視線に、花太郎の頬が屈辱に赤く染まる。
その腕に静かに触れられたルキアの手が無ければ、花太郎は言い返していただろう。自分の仕えるのはただ一人。他の人間の命令に従うつもりは無い。そう喉元まで出掛かっていた言葉は、ひんやりとしたルキアの手で止められた。
無言のルキアの依頼に、花太郎は平静を取り戻す。
そう、花太郎の従うべき人はただ一人。
「……はい、ルキアさま」
何事もなかったように、花太郎は普段通りに車の扉を開ける。目の前の岩崎へと視線を向け、「どうぞ」と恭しく頭を下げた。
真先に後部座席へと招き入れられ、岩崎は有頂天になった。あの朽木ルキアに自分は「賓客」として扱われている。下校の為に門へと向かうほかの生徒達の注目を浴びて、岩崎は我知らず笑みがこぼれた。
岩崎の後から車に乗り込んだルキアは、助手席に座った花太郎に頷いた。それを受け、花太郎が運転手に合図を送る。
車は驚くほど滑らかに走り出し―――その振動の少なさに岩崎は内心舌を巻きながら、朽木家の車に乗る自分を見つめる、窓の向こうの生徒達の驚きの表情を満足げに眺めていた。
車内では誰一人口を開く者はなく、乗り心地とは全く正反対な居心地の悪さに、岩崎は隣に座るルキアにそっと視線を向けたが、ルキアは無表情のまま前方を見据えている。
そのルキアをサイドミラーで眺めながら、花太郎は幾分顔色が白いな、と唇を噛んだ。
今までその名前を口にしたこともない、恐らく意識したことさえないだろうこの岩崎を、何故突然家へと招待したのか、そのルキアの意図が花太郎にはわからない。
友達、と言った岩崎の言葉を花太郎は全く信じていなかった。あまりにも岩崎とルキアでは違いすぎる―――住む世界も、価値観も、性格も。
何がこの二人を結びつけたのかわからないまま、言葉を交わすものもなく、車は30分ほどで朽木邸の門へと辿り着いた。
内部を伺うことの出来ない高い壁に囲まれた敷地、その高い壁の一部が途切れ、そこには西洋風の門扉がある。
その扉が開かれ―――車は敷地内へと滑り込んだ。
門から屋敷までの距離―――そして、その広大さ。
大きな扉から中へ入ると、目の前に広がる吹き抜けの玄関ホール……そして一斉に頭を下げ出迎える大勢の使用人達。
本当に自分とは住む世界が違うのだと、岩崎は出迎えの者たちにただ頷くルキアを後ろから眺めて思う。
だからこそ―――この機会を逃すわけにはいかない。
朽木ルキアと親しくなるこの機会を、決して逃すわけにはいかない。
情報を与え、恩を与え、……朽木ルキアに感謝される。そう、上手く物事を運んでいかなくてはならない。
ホール中央に位置する螺旋階段を上り、三階のルキアの自室に通されると同時に、紅茶とスコーンが部屋に運ばれてきた。黒い服を着た絵に描いたような老執事が、紅茶をポットからカップへと注ぐと、広い部屋中に豊かな香りが広がる。焼き立てらしいスコーンに添えられたジャムは数種類。それらを全てセットして、老執事は一礼し部屋から辞していった。
広い部屋に、岩崎とルキアの二人きりになった。
しんとした沈黙に耐えかね、岩崎が「そういえば」と軽く声を張る。
「今日はお兄様は?」
「兄は滅多に家には居ない」
「そう……」
落胆を隠さずに岩崎は溜息を吐いた。この家に招かれたかった目的のもうひとつ、美しいと評判の朽木白哉を見るということ。
そしてあわよくば、白哉に知己を得……それをきっかけに、と思っていた岩崎は無念そうに指を噛んだ。自分の容姿には自信がある。その容姿を武器に、今以上の生活を得るために。だからその武器となる容姿を磨く努力は惜しんでいないつもりだ。
けれど、と岩崎は気を取り直す。この朽木ルキアと懇意になれば、またこの家に招かれることもあるだろう。そうすればいつか、朽木白哉と会う機会もあるに違いない。
「それで……朽木さん、私に何を?」
勧められるままにカップに口を付け、岩崎は微笑んだ。
ルキアが聞きたい話は勿論「あの人」のことだろう。それはわかっていたが、岩崎は自ら率先して話すのではなく、ルキアから依頼されて話したかった。そうすれば二人の立場は明確になる。
それに、あの朽木ルキアが……学園に並ぶものの無いあの朽木ルキアが自分に頭を下げる、そう考えただけでとても楽しい。
「あの時教室で話していた……男の話だ。紅い髪の」
僅か躊躇って、ルキアはそう口にした。
「どうしてその男の事が知りたいのかしら?」
焦らすように、一口紅茶を口に含んで岩崎は尋ねる。
再び僅かに躊躇して、ルキアは「……捜している男かもしれない」と小さな声で呟いた。
「探している?」
それに対するルキアの言葉はなかった。それ以上を話す気は無いのだろう。ただ、暫く後に「写真は……ないだろうか」と呟いた。
「そうすれば、捜している男かどうかすぐにわかるのだが」
「写真はね、嫌いみたいなの……あの人」
微笑んで紅茶を口にする。岩崎すら口にしたことのない、芳醇な深い味が口の中に広がる。
「内緒で撮った女がいたけど……直ぐに気付かれて。それ以来、その女、あの人に完全に無視されてたわ……視線すら合わせてもらえないの。それまではずっとあの人の隣で、あの人の一番近くにいたのにね……憐れだったわ」
くすくすと楽しそうに岩崎は笑う。
完全に無視されて、視線すら合わせずに。
その覚えある仕打ちに、ルキアの胸はぎり、と痛む。
「だから、写真はないの。ごめんなさい」
「名前は?」
「それも、教えてくれないの。聞いても笑うだけで教えてくれない」
「……その男の外見的なことを教えてくれ」
「そうね……身長は190近いかしら?かなり背が高くて……言葉使いは結構乱暴ね。粗野、っていうわけじゃないけれど……そうね、野生的、って言うのかしら……身に着けているものは全て高級品なのだけれど、あまり『お坊ちゃん』って感じはしないわ。歳は二十歳くらい……でもものすごく大人。雰囲気がね、なんていうか……最初はね、近付き難かったの。私が初めてその人を見たのは、そうね……五ヶ月くらい前かしら。いつも何か考えながら、ひとりでお酒飲んでたわ。素敵だから、声をかける女はたくさんいたし、気を引こうと下品なことする女もいたけど、全部無視してね……だから皆、周りで見ているだけだったわ」
ルキアは無言で耳を傾けている。その真剣な眼差しに、岩崎はルキアの探しているという男が、自分の知っている「あの人」だと確信した。
「けれど、急に……10日くらい前だったかしら、いつものお店に現れて……その時、あの人に声かけた女がいて……いつもなら無視するあの人が、その日は」
小さく肩を竦めて、岩崎は「こんな事、朽木家のお嬢様に言っていいのかしら」と首を傾げた。
「言ってくれ。構わない」
硬い表情で促され、岩崎は「そう?」と微笑んだ。
「その日は―――なんと言うか、積極的で。ちょっと見てられないくらい、かなりその女と絡んでたわ……まあ、色々、ね。かなり濃厚なキスシーンも見せていただいたし」
「…………」
「まあ私も、他のお上品な同級生の方々が眉を顰めるようなことは経験してるけれど―――流石に私も赤面したわね」
ちらりとルキアに視線を向けると、明らかにその顔が蒼褪めている。自分の遥か上に位置するルキアのその血の気の引いた顔を見て、岩崎の中に嗜虐的な気持ちが湧き上がる―――普段取り澄ましたお嬢様の歪む顔をもっと見たい。
「あの人、いつも奥のボックス席にいるのだけど―――それ以来、なんか来る者拒まず、って感じなのよ。いつ行っても周りに女がたくさんいるわ。行く度に違う女に囲まれてるの……しかも美人ばかり。かなり際どいこと、してるわね。女も全然拒まないし」
制服から派手な服に着替え、化粧を施して未成年であることを隠し、岩崎はよくその店に行く。大人びた顔立ちの岩崎は今まで誰にも16歳だとばれたことは無い。そこで声を掛けられ、気に入った男とホテルに入ったこともある。
けれど、この朽木ルキアは―――勿論、そんな経験は無いだろう。
この、厳重に大切に護られた朽木家の令嬢と、あの、女の扱いに恐ろしく慣れたあの男との接点は掴めないが、どうやら朽木ルキアはどこかで会ったあの人に心を奪われたらしい。
岩崎があの店にここ数ヶ月通い続ける理由、それはひとえに「あの人」に会いたいからだ。
自分の知らない「あの人」の情報を持っているかもしれないとルキアに水を向けてみたが、ルキアは首を横に振るだけで何も答えない。
「その店は―――何処にある?」
だから、その問いをルキアの口から聞いた時に―――岩崎は思った。
見せてやろう、と。
「あの人」に魅せられているらしいこのお嬢様に、あの人を。
「六本木の―――『…………』って店。なんだったら―――」
見せてあげよう。
朽木ルキアにあの人は似合わない、と。
それは確かに、岩崎の嫉妬心だったのだろう。
岩崎の憧れる世界を持つルキアに対しての―――歪んだ感情。
「行ってみる?もしかしたら、会えるかもしれないわよ……?」
車の用意を、と言われ花太郎はほっとした。
同じクラスの岩崎がこの屋敷に招かれて、もう2時間になる。そろそろ夕食の時間になるというのに、一向に帰る気配の無い岩崎に苛々としていた花太郎は、ようやく車を用意するようルキアから命じられ直ぐに実行した。
扉を叩き、「ご用意できました」と告げる。待ちかねていたように、扉は直ぐに開いた。
制服姿のままのルキアの前に立ち、玄関へと二人を導いていく。何故かルキアの顔は緊張しているようにも見える―――岩崎の方は逆に随分とリラックスした表情で、余裕すら感じさせる笑みを浮かべている。
一体二人はこの2時間、何を話していたのだろうと、花太郎は首を捻った。
玄関の扉を開けると、目の前に黒い車が止まっている。その後部座席のドアを開いて、花太郎は再び頭を下げた。何も言わずに岩崎が乗り込み、閉めようと力を入れた手を白い手に押さえられ、驚いて花太郎は顔を上げる。
「私も乗る」
「え?」
「岩崎さんを自宅までお送りする」
言葉と共に、花太郎の横からするりと車内に滑り込んだルキアに一瞬茫然とし、すぐに我に返り花太郎は「では、私も」と助手席のドアに手をかける。
「私一人で大丈夫だ。お前は家にいろ」
「しかし……」
「別にただ送って帰ってくるだけだ。直ぐに戻る」
「女の子同士の話は、男の子は聞いちゃ駄目なのよ?」
笑いながら岩崎はそう言うと、「じゃあね、花ちゃん」とひらひらと手を振って見せた。その小馬鹿にした岩崎の態度に腹を立て、突然のルキアの行動に戸惑い、「ルキアさま」と言いかけた花太郎を振り切るように、ルキアは運転手に向かい「出せ」と命じた。
ルキアの言葉は、使用人にとって絶対―――直ぐに車は動き出す。
「ルキアさま……!」
追いかける花太郎に、車内から「大丈夫だ」と手を振って見せ、ルキアは前へと視線を向けた。
バックミラーに映る花太郎の姿は直ぐに見えなくなり、心の中で花太郎に詫びながら、ルキアはシートに身を沈めた。時刻はもう直ぐ7時。
どちらへ、と尋ねる運転手に答える岩崎の「外苑東通りを使って六本木へ」と言う言葉を聞きながら、ルキアは自分の心に自問する。
―――もし、逢えたら―――如何するつもりなのか。
何を言ったらいいのか―――逢えたとしても、かける言葉が見つからない。
「多分、今の時間なら店にいると思うわ……ここ最近、以前よりも頻繁に店にいるようになったから。結構早い時間からいるのよ」
楽しげに岩崎はそう言って、窓の外の景色を眺めた。前から後ろへと流れていく景色は、見慣れたものに変わっていく。空気は夜の湿り気を帯び始め、街灯に明かりが灯り街は派手なイルミネーションに飾られていく時間。―――岩崎が一番好きな時間へと移動していく。
「ああ―――あそこ。見える?」
煉瓦で出来た重厚な雰囲気の、その古めかしい店の看板には確かに「…………」と岩崎の先程口にした店の名前の看板が小さく掲げられていた。蔦の絡まった意匠のその看板の上にぽつんと金色の光が灯っている。その灯りは小さくて、他の派手な電飾の店と一線を画し、若者には中々入りづらい雰囲気を醸し出していた。その店の常連の誰かに連れられて、初めて足を踏み入れることの出来る場所―――他者を拒むような雰囲気。
「あの店にいるの、あの人。今日はどうかしら―――でも、よく考えたら私たち制服なのよね。流石にこのままじゃ入れない……」
岩崎の言葉の途中でルキアは既に車を降りていた。他のことは何も目に入らないのか、真直ぐに店に向かって歩いていく。
突然車を降りたルキアにうろたえる運転手へ向かい、岩崎は「ちょっと店の中を覗いてすぐに帰ってきますから」と慌てて告げた。この運転手から朽木家の誰か―――特に、妹を殊更大事にしているという過保護な朽木白哉に、この件が伝わり自分が朽木家の出入り禁止になってしまっては元も子もない。
「直ぐに戻ります、何も危険なことはありませんから。普通の店ですし」
ルキアを追いかけるために車を降り店へと向かう。既にルキアの姿はない。
「朽木さん……!」
店に入った途端、店内の視線が一斉に自分へ向けられたのがわかった。夜の始まりの時間に制服、しかもこの制服は目立つ―――良家の子女が通うことで有名な私立の制服なのだ。あまりにもこの場所にそぐわない。
ルキアを探して店の奥へと向かう。一歩ごとに客達の視線が向けられるのがわかった。好奇と、探るような視線。学校に連絡されるだろうか、と不安になりながら奥へと進み、岩崎は何とか人を掻き分けルキアの腕を掴まえた。
「まずいわ、私たち制服……」
小柄なルキアを覗き込む形で引き止めると、ルキアは真直ぐに前を―――見つめていた。
強い視線、睨むように、燃えるように、凍るように。
その視線の先。
「―――何処かで見た顔だな」
最奥のボックス席の中央、派手な女たちを両脇にはべらせて、紅い髪の男が―――哂った。
男の手にしたグラスの中の氷が揺れて澄んだ音を響かせる。
奥の席には、表の喧騒は嘘のように人がいなかった。喧騒が波のように遠くに聞こえる―――その静けさを、棘のある声が破った。
「誰―――?何、あなたたち。まだ子供じゃない、何故この店にいるの」
「子供は家に帰りなさい。夕ご飯の時間でしょう」
男の両脇に座り、一人は男の首に両手を回し、もう一人はその肩にもたれ右手で男の足に触れている。男に絡みつくようにそれぞれが男に触れ、その女たちがかわるがわるにルキアと岩崎へ声をかけた。男から興味を示した女が珍しいのだろう、険のある瞳でじろじろと上から下まで眺め、制服姿の二人に向かいあからさまに勝ち誇った顔をしてから。ふんと鼻で笑った。
「そんな子供相手にしなくたっていいじゃない、私たちがいるのに」
「ねえ、はやくここ出ましょうよ。大人は大人同士、やることがあるでしょう」
首に、頬に、胸に足に這う女たちの細い手を、男は「うるせーな」と振り払う。
「邪魔だお前ら」
向こうに行ってろ、と邪険に手で払われて、女たちは不満そうな表情を浮かべ、それでも直ぐに席を立った。この男の機嫌を損ねたらもう二度と相手にされないことを知っているのだろう。男の言葉に逆らえない鬱憤を叩きつけるように、二人の女はすれ違いざまに鋭い視線でルキアと岩崎を睨みつけ、そのあからさまな敵意の視線に思わず岩崎は身を竦めた。そんな自分に腹立たしさを覚えつつ横目でルキアを伺ってみたが、ルキアは全く動じておらず―――というよりも、紅い髪の男以外、全くその意識に無いように見えた。
ルキアの視線の真正面に男がいる。その緊迫した空気に声をかけることが出来ず、岩崎はただ二人の後ろで二人を見ているしかない。
突然、男の手の中のグラスの氷がからんと音を立てた。
「何処かで見た顔だ―――つい最近」
笑いながら男はグラスを傾ける。琥珀色の液体を全て飲み干して、男は「ああ」と頷いた。
「昨日―――か一昨日、この店で俺の横に座っただろう、お嬢ちゃん」
「え―――?」
目の前のルキアを通り越し、自分を真直ぐに見つめる男の視線に、岩崎は虚を突かれた。岩崎の視界の中のルキアの顔から血の気が引いていく―――ただでさえ白い顔が、血の通わない人形のような、透き通るような硬質の肌に変わった。
「制服だから一瞬わかんなかったぜ。……へえ、あんたまだ学生だったのか」
「え、あ……」
「来いよ。なんだ、制服だと随分大人しいじゃねえか」
僅か一回、招くように宙で曲げられた男の人差し指に引き寄せられるように、岩崎はふらふらと男の隣に腰を下ろした。その顔を覗き込むように男は顔を近づける。初めて間近に見たその精悍な顔に、岩崎は一瞬で目を奪われ―――まるで催眠術にかかったように、ひたすら男の顔を見つめていた。頬が上気して赤く染まる―――瞳は熱に浮かされたように潤み、明るさを落とした照明の光を受けて揺れている。
「覚えていて、くれたんですか……?」
「ああ、俺は可愛い女は忘れねえんだ」
「可愛い?……わ、私が、ですか?」
「ああ。―――可愛いぜ、お前」
つい、と顎を持ち上げられ、茫然としている内に自分の唇に重なった男のそれに、岩崎は一瞬目を見開いて、直ぐに身体の力を抜いた。否―――岩崎の身体中の力が抜けた。
口付け、それならば岩崎も何度も経験している。複数の男と、数限りない様々な口付けを交わしてきた。けれど、今岩崎が受けているそれは―――その男の与える「口付け」は、岩崎が今まで経験したものとは全く別種のものだった。
今どんな状況にいるのか、ここが何処なのか、何もかもわからなくなるほど、理性が溶けるほど―――官能的な。
ソファの背に押し付けるように覆い被さる男の下で、岩崎の声が―――艶めいた喘ぎ声が聞こえる。舌を絡ませる水の音、制服のスカートの中に差し入れられる……男の手。男の手に触れられ、岩崎の白い足が、暗い照明の下、別の生き物のようにぬめぬめと光り、生々しく蠢いている。
ああ、と耐えかねたような岩崎の熱い吐息が洩れる。
くく、と喉で笑う男の声。
それを、ルキアは見ていた。
目の前で、自分に見せ付けるように行われるその淫靡な行為。
そう―――この男はルキアに見せるためだけにこの行為をしている。
自分という存在を完璧に無視して。
ルキアという存在は無い者として。
自分という存在を完璧に無視していることを伝えるために。
ルキアという存在を無い者としていることを知らしめるために。
「や、あ……ん!」
男の手の動きに翻弄された岩崎の嬌声がルキアの耳を打つ。
目の前の男女の痴態を見下ろしながら―――ルキアは。
笑っていた。
血の気の無い青白い肌で、闇に白く浮かび上がる花のように、ルキアは声をたてずに―――笑っていた。
見る者全てを凍りつかせるような、憎悪に満ちた笑み―――それでも美しさは損なわれず、まるで死の国の女王のような凄惨な美しさで―――ルキアは笑う。
そして目の前の饗宴に背を向けると、真直ぐに前を向き、周囲の視線を悉く無視し、ゆっくりと歩き出す。
その背中に当たる岩崎の甘い声、軋むソファの音、それらに表情を動かすことは二度となく。
店を出て行くまで、店を出てからも―――ルキアは後ろを振り返ることは無かった。
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