知らなければよかった―――あの男の名前なんて。
 出逢わなければよかった―――あの男という存在に。
 そうすればこんな想いに苦しむことはなかったのに。



 




「これを」
 細かい彫刻の施されたテーブルの上に、ことりと置かれたそれは―――その軽い音とは対照的に、あまりにも重いものだった。
「……兄様」
「随分と迷った。お前にこんなものを持たせるのは―――」
 ルキアは無言で机の上のそれを眺める。
 小さな―――ルキアの小さな手でも扱えるほどの、小さな黒い銃。
 男の持つものではなく、初めから女性用にと作られたものだろう、小さなその銃はエナメルのような光沢で、その銃身にルキアの無表情な顔を映していた。
 それは、人の生命を奪うものにしてはあまりに華奢なものにルキアの目に映る。
「だが―――万一にでも、お前に何かあるよりは」
「…………」
「無論、お前がこんなものを使用するような事態には決してならない。今まで以上にお前への警備は厚くする」
 ルキアは変わらず無感動にその黒い銃身を見つめている。
「お前をこんな事に巻き込みたくなかった……」
 普段の白哉らしからぬその呟きに、ようやくルキアの視線が銃身から離れた。黒い銃とは対照的な、白磁のような肌の白哉へと視線を移す。
「―――私よりも、兄様の方が危険なのでは……私など、あの男の―――意識には無いでしょう」
 微かにルキアの声が震えた。
 一顧だにされなかった。
 あの男は、完全に自分の存在を無視していた。
「私のことなら大丈夫です。私の警備の者は、兄様の警備へ回してください」
「―――何度も言うように、私が一番大切なのはお前だ―――ルキア」
「…………」
「使う必要は無い。そんな事態には決してならない。ただ」
「―――御守りのようなものですね。わかりました、兄様」
「ルキア」
「……そうですね。それで兄様がご安心なさるのでしたら。―――使い方を、教えてくださいませんか」
「使う事態には決してならない」
「ええ、存じております。けれど念の為―――使い方を、教えてくださいませ」
 目の前の黒い銃に手を伸ばし、ルキアはそれを手に取った。
 人の生命を奪う危険な凶器は、思った以上に軽く―――手に馴染む。
「如何したら?」
「弾は入っている―――8発」
 ルキアの背後に白哉が立ち、ルキアの手から銃を受け取った。ルキアは無言で頷く。
「スライドを一杯に引いて、引く手を離す。それで自動的に弾は薬室に送り込まれる。スライド動作は弾の装填と同時に撃鉄が引き起こされている。そして引き金を引く―――これで発射だ」
「―――簡単、ですね」
 スライドを引いて引き金を引く―――たったそれだけ。
 白哉の手から拳銃を受け取り、ルキアはぽつりと呟いた。
 たったそれだけで、人が殺せる。
 たったそれだけの動作で―――あの男は人を、兄を殺すことが出来るのだ。きっと表情を変えることなく。
 物想いに沈むルキアの身体が背後から抱きしめられた。白哉の手が、背後からルキアを抱きしめる―――びくっと身体を震わせ、ルキアは背後の白哉を仰ぎ見た。
 いつもと変わらぬ美しい顔。
「お前を傷付けることは決して無い」
「―――はい」
「お前は私が護る」
「はい、兄様」
「愛している―――私のルキア」
 髪に受ける白哉の口付けも、いつもと変わらない―――兄の、妹への愛情。
 愛されているとわかる。
 自分も愛していた。
 この人以上に大切なものなどなかったはずなのに。
 そう、それは既に「過去形」―――兄以上に愛する人などなかったはずなのに。
「私も―――愛してます、兄様」
 愛している、それは変わらない事実。
「兄様だけが、私を愛してくださる方」
 何処か虚ろに―――ルキアは応えた。








 声を聞かなければよかった。
 触れなければよかった。
 そうすれば、こんなに焦がれることもなかったのに。








 今日も後ろの席で交わされている同級生のくだらない会話に、ルキアは苛々と唇を咬む。
 ただでさえ甲高い声が癇に障るというのに、その内容が例の如く男の話だというのにも無性に腹が立った。
 極力話を聞かないように、ルキアは自分の思考に沈み込もうとするが、それすらも上手く行かない―――今、心を占めるのはたった一つのことだけで、それは何の解決の道もない陰惨なものでしかない。
 自分の気持ちと―――現実。
 朽木と、阿散井。
 兄と、あの男。
 相容れない双方―――解決法など無い現状。
 そう、あの男が阿散井と知っても尚……ルキアはあの男に惹かれる自分を止めることが出来なかった。
 目を閉じれば容易に浮かぶ紅。
 耳を塞いでも鮮やかに甦る低い声。
 鮮明に、あの男の細部までも、ルキアは思い出すことが出来る―――「ルキア」と名前を呼んだ声の優しさ、抱きしめられた幸福感、腕の中の安心感、熱い体温、触れた唇の甘さ。
 そして、一瞥もくれることのなかったあの冷たさ、「ルキア」という己の存在を完全に無視したあの態度、高慢で冷徹な声、氷のような視線。
 それも―――はっきりと覚えている。
 どちらが本当のあの男の姿なのか、それもはっきりとわかっている。
 あの氷の焔のような男が、あの男の本当の姿―――利用しようとした私という駒が役に立たないと知った途端、私に何の意識も向けることのなかったあの冷酷さがあの男の本性。
 それなのに―――何故。
 引き寄せられる、想いが暴走する―――理性は感情の暴走を止められない。何度「あの男は阿散井だ」と呟いてみても意味を為さない。何度「あの男は駄目だ」と否定しても抑えられない。
 ―――この想いは、禁忌。
 あの男を愛するということは、紛れもない、父への、母への、朽木家の、そして誰よりも何よりも自分を愛してくれている兄への―――裏切り行為だ。
 自分の父を、母を殺した「阿散井」。そして―――兄の生命を狙う「阿散井」。
 その家の跡取り、時期当主に心を奪われるなど―――あってはならないことだ。朽木の者として、それは、それだけは決して許されない。
 それを理解していて、そしてあれ程冷酷な仕打ちを受けて、それでも何故自分はこんなにもあの男に心惹かれるのか―――正気に返れと何度自分に言い聞かせても、気付けばあの男のことを考えている。考えまいと考えることが既に、心が捕らわれている証拠なのだろう。
「それでね、その時初めて隣に座れたんだけどぉ……」
 後ろの席に座る岩崎の声が耳触りで、ルキアは堪らず席を立った。何処へ行くという目的もなく、ルキアはその苛々とする声を聞かなくて済むように教室から離れようと席を立ち扉に向かうため歩き出そうと一歩を踏み出したそのとき、―――岩崎の陶然としたその声がルキアの足を止めさせた。
「やっぱり素敵!大人って感じ?すごいクールでカッコイイの―――声も低くて、黒いスーツに紅い髪がよく映えてね……何ていうか……セクシー?うん、男でセクシーなんて言葉が似合う人初めて見たわ私!」
 ――― 紅 い 髪 。
「名前は聞いても笑うだけで教えてくれないの……でもね、絶対普通の人じゃないわよ。だって着てるスーツは………のスーツだったし、腕時計だって………のよ?ネクタイは多分………だし、車は………よ?それになんていってもあの雰囲気……絶対普通の人じゃないわ」
「雰囲気って……そんな曖昧なコト言われてもわかんないわよ」
 岩崎の取巻き連の一人がそう言って笑う。その言葉に、話を聞いていた他の二人もくすくすと笑って頷いた。
「だから一緒に行きましょうよ、一目見れば絶対わかるわ、あの人が普通の人とは違うって!すごくカッコイイし、だからいつも女に囲まれててね、でもそれがすごい似合うのよねえ……え?」
 うっとりと目を閉じていた岩崎は、突然腕を引っ張られて不機嫌そうに目を開けた。幼い頃から我儘放題に育てられた彼女の周りに、自分の言葉を遮るような無礼を働く者はいない。
「何よ」
 腕を引いた側にいた取巻きの一人を睨みつけると、その少女の顔は幾分顔色が悪いように見えた。「……あの……」と戸惑ったように小さな声を出し、視線を前へと向ける。
「何だって言うのよ」
 少女の視線を追い、顔を前へと向け―――岩崎は息を呑んだ。
 目の前に、岩崎を凝視する朽木ルキアの姿があった。
 その視線の鋭さに岩崎は硬直した。自分の前に座る「朽木」ルキアの存在は勿論知ってはいたが、新興の岩崎―――他のクラスメイトの言葉で言うならば「成り上がり」に過ぎない岩崎と、朽木ルキアのステージはあまりにも違う。故に、今まで席は前後しているが、岩崎は朽木ルキアと言葉を交わしたことは一切なかった。視線さえ合わせたことは無い。
 その朽木ルキアが―――真正面から、岩崎を見つめている。睨みつけるように、と言ってもいい程の強さで。
「く、朽木さん……?」
「今の話―――詳しく聞きたい」
「今?今の話?」
「その男―――貴女が会ったその男の話だ」
 朽木ルキアの視線の鋭さが己に向けられたものではないと知って、岩崎は身体の緊張を解いた。まだ16の岩崎にさえ、「朽木」に睨まれた者の末路は解っている。
 そして恐怖が消えたのと同時に、岩崎の頭に考えが浮かぶ―――何故だか知らないが、あの「朽木」ルキアが、自分の話を聞きたがっている。どうやら自分にしか話せない、そしてどうしても欲しい情報のようだと―――ルキアの無表情な顔を見て一瞬で算段した岩崎は、「それじゃあ」と笑みを浮かべる。
「今日、学校が終わったらお話しましょうか―――私の知ってることでよければ。そうね、―――朽木さんの家で」
 朽木、という巨大な名前―――それ故にルキアに友人はいない。今までこのクラスで―――この学園で、朽木家に招かれた者など存在したことはない。
「朽木さんがよろしければ、ご自宅に招待してくださらないかしら?」
 その朽木家に招かれた初めての存在に自分がなれば―――少なくともこのクラス、この学園―――もしかしたら社交界ですら―――自分は一目置かれる存在になるだろう。あの「朽木」ルキアの友人として。
 期待に胸を膨らませる岩崎の前で、ルキアはあっさりと「構わない」と告げ―――岩崎は会心の笑みを浮かべ、教室内がざわめいた。






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