「ルキアさま!?」
 凍りついた空間を切り裂いたその声と乱暴に開けられた扉の音、その音に反射的に背後を振り返り、次の瞬間、見知らぬ存在に対して作ってしまった自身の隙に蒼褪め、再び男へと視線を戻した時には―――ルキアの視界には、紅の色は既になかった。
 打たれたように立ち尽くすルキアの傍らを、花太郎が「待て貴様!」と叫び、奥へと追いかけて行く―――懐から拳銃を取り出して。
「待て―――花太郎!」
「ルキアさまは此処に!」
「違うんだ、待て!花太郎―――」
 ルキアの叫び声を無視し、花太郎は紅の影を追って奥へと走る。小柄な身体が敏捷に奥の扉へと消えていく。
「やめて―――止めてくれ!」
 悲鳴のような自分の声に、ルキアは息を呑む。
 自分は誰の身を案じているのか―――正体不明の、恐らく兄の生命を狙う男に一人向かった花太郎か。
 ……否。
 自分が案じているのは―――あの、男の方だ。
 震えるほど、泣きそうなほど、悲鳴を上げるほど―――あの男の身が心配で……花太郎の手にした拳銃に我を忘れ、震えるほど、泣きそうなほど、悲鳴を上げるほど。
 理性と感情が真逆に走る。
 そしていつも勝るのは―――感情、なのだ。
 恐怖に、銃声が響くのではないかという恐怖に動けず、ただの子供のように立ち尽くすことしかできなかったルキアの目の前で、扉が開く―――。拳銃をしまいながら、悔しそうな顔で現れた花太郎に、ルキアはようやく呪縛が解けた。
「すみません、取り逃がしました」
 言葉もでずに首を力なく左右に振るルキアの腕を、花太郎は強く掴む。興奮したまま、「大丈夫ですか、何をされましたか、お怪我は、一体何が」と矢継ぎ早に質問する花太郎は、ルキアの瞳からぽろぽろと透明な雫が落ちるのを見て狼狽し我に返った。慌てて掴んでいた腕を放す。
「申し訳ございません……!無礼を致しました、本当に申し訳……え?」
「何も……されてない。ただ、私が、興味本位で、教会を見ていたら……あの、男が現れ……て」
 俯いて泣きながら、ルキアは切れ切れに言葉を続ける。花太郎は初めて見るルキアの涙にうろたえて、どうしたらいいのかわからない。
「信者でもないのに、面白半分でこの教会に来るな、と……私が、マリア像に触れていたのが、気に、入らなかったみたい、で……私は、吃驚して、た、他人に、あんな風に、怒鳴られたことなどなかっ……た、から……怖くなって、でも、私は朽木だから……見知らぬ男に怒鳴られて、それで引くことなど、出来ないから……言い返して、でも、もう一回……怒鳴られて、怖くて……」
 ようやく見つけたと思ったのに。
 ようやく出逢えたと思ったのに。
 なじる自分の言葉に何一つ言い返そうとしなかったあの男に、自分の想像は、兄の生命を狙い自分に近付いたのだという自分の想像は正しかったのだと、幸福の絶頂から絶望の底へと叩き落され。
 なのに、心の底ではまだ―――信じている。縋りついている。
 あの時感じた、見つけた、という想い。
 細胞の全てが歓喜の声を上げたあの瞬間を。
 そんな自分が憐れで―――滑稽だ。
「ルキアさま……」
「だ、誰にも……兄様にも、檜佐木にも、誰にも言わないでくれ。こんなことで泣いたなんて知られたら……恥ずかしくて、兄様に顔を合わせることが出来ない。お願いだ、花太郎……」
 涙に濡れた瞳でそう見上げるルキアの顔は、本当に幼い子供のようで……普段から女王然とした威厳と気品は影を潜め、今のルキアは頼り無く無力な幼子のそれで……花太郎は、考える間もなく瞬間的に頷いていた。
「本当か?」
「はい、ルキアさま」
「約束だぞ?お前の一番大事なものに誓えるか?」
「私の一番大切な、ルキアさまにかけて誓います」
 足元に跪き、花太郎はルキアの手を取ってその手に口付ける。意表を衝かれたルキアは、涙に濡れた瞳のまま、動くことも出来ずに足元の花太郎を無言で見つめる。
「どうか泣かないでください、貴女がそのような顔をされるのを見るのは辛い。貴女が望むのでしたら、私はどんなことでも致します。貴女のためならば、私の生命さえ惜しくはありません。ですから、どうか―――貴女自身が、貴女自身を危険に晒すようなことは―――お願いですから、どうかお止めください」
「―――花太郎」
「先程、中で貴女の叫び声がして―――飛び込んだ瞬間、貴女の前に見知らぬ男が居て―――血の気が引きました。貴女にもしもの事があったら、と」
「花太郎……」
「どうか、どうか……貴女の価値を、貴女自身がお知りください。貴女は―――朽木ルキア、他に比するものの無い、唯一無二の―――至宝」
 もう一度、花太郎はルキアの手に口付ける。
「貴女のためならばどんなことでも致しましょう。ただそれが、貴女自身を傷付けること以外のものならば」
 花太郎の言葉に、ルキアは目を伏せた。
 ―――心の底の自分の想いを、花太郎に見透かされることを恐れて。











 暗闇で、小さな女の子が蹲っている。
 膝に埋めているのでその顔を見ることは出来ない。粗末な、けれど綺麗に洗濯された衣服を着て、その6歳くらいの少女は背中を震わせて泣いている。
 その泣き声が酷く癇に障った。苛々する。泣きたいのはお前だけじゃないと言うのに、如何してこの子供は『私』を責めるように泣いているのか。
 ―――如何シテアンナ酷いコトヲ・・ニ言ウノ。
 初めて少女が、泣き声以外の言葉を発した。相変わらず顔は膝に埋めたまま、『私』を責めるように―――否、『私』を責める。
 ―――ズットズット待ッテイタノニ。ズットズット信ジテ待ッテイタノニ。
 糾弾する。
 ―――ヨウヤク逢エタノニ……・・ハ私トノ約束ヲ護ッテクレタノニ。私ヲ迎エニ来テクレタノニ。
 “お前を?”
 『私』の声が暗闇に響く。『私』の姿はこの闇には存在しない。『私』は今、声だけの存在だ。
 ―――・・ハ私ノ傍ニイテクレル。約束シタモノ。イツダッデ、イツマデダッテ私ノ傍ニイルカラッテ。
 少女の声に、甘い響きが混じる……『・・』を想い出しているのだろう。泣き声は止み、少女の声は甘く囁くような声へと変わる。
 ―――酷く、不快だ。
 何故なら―――『・・』は『私』のモノである筈だからだ。
 一目見て心を奪われた。
 一目見て全て奪われた。 
 世界は姿を変えてしまった。今まで世界の中心だったあの人から、世界の中心は『・・』に変わってしまった。
 パラダイム・シフト。
 『私』の世界は全て『・・』に変わってしまった。
 たった一目、『私』が『・・』を見ただけで。
 ―――ホラ。
 少女の声が、今度は怒りを帯びる。
 ―――貴女ハ知ッテル筈ナノニ。
 “何をだ?”
 ―――・・ニ心惹カレタノハ……『私』ダッテコトヲ。
 私は黙り込む。
 そんな事、とうにわかっていた。あの時、あの男に叫んだその直ぐ後に、はっきりわかっていた。
 あの男の思惑など関係ない。
 初めて目にした瞬間、恋に堕ちたのは―――『私』の方なのだから。
 あの男が何かをする猶予など無い状態で、勝手に私の心はあの男に惹きつけられた。
 それは間違いない事実なのに。
 あの男は私を知っていた。私を調べたのだ―――そしてどんな思惑があったのか、私に近付いてきた。それも間違いない。
 けれど、それ以前に。
 私の心はあの男に縛られていた。
 あの男の思惑に関係なく。
 ―――本当ハ、知ッテル筈ナノニ。
 “何をだ?”
 同じ問いを『私』は繰り返す。
 ああ、でも『私』はその答えを知っている。
 ―――・・ノ名前ヲ。ソシテ―――
 小さな矮躯が立ち上がる。立ち上がって、振り向いて―――『私』を、真正面から射るように、真直ぐに、睨むように哀れむように懐かしむように―――


 ―――私ガ誰カッテイウコトモ。


 その小さな顔は、間違いなく私の―――












「――――っ!!」
 大きく喘いで飛び起きた。心臓の鼓動が激しく響き、身体中汗にまみれている。
「……夢……如何して」
 こんなに激しく身体が反応しているのか―――酷く頭が痛い。割れるように、という言葉が決して比喩では無いほど。今までも、何かを思い出しそうな時、失った記憶をふとした拍子に……例えば夜明けの赤い色を見た時や、ドレスに付けられた赤い天鵞絨を見た時……想い出しそうになったとき、決まって自分を襲った頭痛と同じ痛みだったけれど、その痛みの度合いは桁外れに大きかった。
 しばらく頭を抱えてベッドの上で倒れ付す―――ようやく痛みが治まり、呼吸も治まり、鼓動も収まり身体を起こしたとき―――ルキアの記憶からは、夢の内容が消えていた。
「―――何かを……想い出したように思うのだが」
 大切な何かを、想い出したような気がする。もう一度夢の記憶を辿ろうと目を瞑った途端、突き刺すような痛みがルキアを襲い、再びルキアは頭を押さえて蹲った。
「痛ぅ……っ!」
 荒くなった呼吸を、再び静まるように念じる。
 まるで思い出すことを拒まれているような―――外部からの力に捻じ伏せられているような、激しい痛み。動くことすら儘ならない程の、痛み。
「―――何だというのだ、全く……」
 忌々しげに呟いて、ルキアは気怠るげに身体を起こした。汗にまみれた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。そのべた付きに舌打ちし、視線を机の上の時計へと走らせた。
 まだ時間に余裕はある。
 溜息を吐きつつ、ルキアはベッドから降り立った。今日の夜会の準備をしなくてはならない。
 自室に設けられたシャワー室に向かいながら、汗を吸った部屋着を脱ぎ捨てていく。何となく腹立たしくて、歩きながら着ていたものを放り投げていったルキアは、シャワー室の前で全裸になっていた。
 鏡に映る自分の姿。
 鏡の中の、同年代の者に比べるとやや子供染みたその身体を、ルキアはちらりと目にして直ぐに視線をそらした。
 背中に残る無数の傷―――この傷を見て、怯まぬものがいるだろうか。
 両親を狙った、賊の爆発物で数多に傷付いた背中。
 自分が『朽木ルキア』である証。
 決して普通の女ではない証。
 ―――自分が普通の女であれば、どれだけよかっただろう。
 自分に近付く男の思惑など考えずに済むような、そんな普通の女で在れたなら、どんなに……。
 熱いシャワーを頭から浴びながら、ルキアは小さく笑う。
 ―――詮無いことだな。
 自分が生まれたときから朽木ルキアであることは間違いないし、この先朽木ルキアであり続けることも間違いないだろう。
 けれど―――今迄、ずっと、一瞬たりとも忘れたことなどなかった、その事実を―――あの男はいとも簡単に忘れさせた。
 まるでただの小娘のように、あの男のことだけを考え、あの男を追い、あの男を求め―――「朽木ルキア」であることを忘れた。
 それが私の選択したこと。
 誰に指図されたものでもなく、私の心が、そう……あの男に恋焦がれた。
 思惑とか。
 謀とか。
 そんなものが這入り込む余地はなかった。
 だったら―――私の取るべき道はただひとつ。
 もう一度……見つけて。
 もう一度……真意を。
 あの男の真意を―――何故私の名を知ったのか、男の目的は何か……問い詰めて、そして……その目的が兄様の生命でなかったのならば。
 騙されても、いい。
 あの男に利用されても、いい。
 惹かれたのは私だ―――今でもずっと、縛られている。
 あの男の存在に。
 心も身体も―――縛られている。
 





 薄く化粧を施し、先日来の気に入りの店で新しく作ったドレスに身を包み、夜会の支度を整えたルキアは、花太郎の迎えを待っていた。
 いつになく車の準備が遅い。不審に思って立ち上がったルキアの耳に、小さな扉を叩く音がした。
「何だ?」
「花太郎です、ルキアさま」
「準備が出来たか。今行く」
「いえ―――そうではなく」
 訝しげに扉を開けたルキアの耳に、「お帰りなさいませ」と静かに、けれど口にする物の数の多さに大きなうねりとなって耳を打つその言葉が入り、ルキアは花太郎を見上げた。
 そんなルキアに頷いて、花太郎は「白哉さまがお帰りです」と告げる。
「ですので、今日の夜会は欠席なさるよう、白哉さまが」
「そ―――うか」
 ここで失意の顔を見せてしまえば、花太郎に再び疑念を抱かせてしまう。ルキアは咄嗟に笑みを浮かべ、「ではこの後、兄様は私といてくださるのだな?」と喜びを表して見せる。
「お迎えに行く」
「はい、只今玄関に入られたところです」
 花太郎の言葉を待たずに走り出す。これ以上失意を隠すことが出来なくなりそうで、ルキアは部屋から走り出して螺旋階段へと向かった。
 螺旋階段に辿り着く。玄関ホールの正面にある大きくゆったりとした螺旋階段は、ルキアの部屋のある3階まで続いている。その一番上から下を覗き込むと、白哉が背後の修兵にコートを渡している所だった。
「お帰りなさいませ、兄様」
 声をかけると、白哉が微笑んで頷いた。いつもと同じ優美で美しい白哉の動きに、相対する修兵の動きも無駄なく苛烈で美しい。
 小走りに階段を駆け下りるルキアに向かって、白哉は「危ないから走らなくて良い」と苦笑交じりにそう告げる。
 ドレスに反した己の行為に赤面し、ルキアは淑女らしく優雅に階段を降り始める。一段一段、時間をかけゆっくりと白哉を迎えるために玄関ホールへと向かう―――その足が、不意に止まった。
 驚きに目を見開くルキアの視線を追い、白哉が背後を振り返る。次いで修兵が―――そしてルキアの後に従った花太郎が、白哉を迎えるために集った従者たちが。
 玄関の扉を振り返る。
 広い、大きな木製の扉―――荘厳な木の造りのその扉、見かけでは想像の出来ぬ、扉自身に厳重に施されているセキュリティを無視し―――その扉が、開いていた。
 その先―――暗い夜の闇を従えるように、圧するように。
 紅い焔のような―――激しさで。
 ルキアが焦がれた、ルキアの心を支配する、名前も素性も知らない、紅の存在。


 
 その男が―――立って、いた。






 



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