自室に戻るなり、黒のドレスを脱ぎ捨てて、ルキアはそのままベッドに倒れこんだ。
ぐったりとした身体と起き上がる気力のない心に、自分がどれだけ無理をしているのかがわかる。元々人付き合いは得手ではないし、自分に群がる者たちは皆一様に何かしらの下心を持っているのは明らかだ。それは例えば白哉への橋渡しを期待するものだったり、また己を売り込む算段だったり、ルキアの心を射止めようとする者、白哉の心を射止めるためにルキアを利用しようとする者。それらの者たちは皆、笑顔の裏の打算をこちらが気付いていないと思っているのだろうか、とルキアは思う。彼らの行為はあからさまで、それがルキアの心を酷く疲れさせた。
それでも、パーティが開催されるたびにルキアは笑顔でその会場に向かった。年配者の多い重厚な会場、同年代の者が多い華やかな会場、老若男女入り混じった賑やかな会場。そのどれもルキアは魅惑的な笑みを浮かべ、その場にいる者たちを魅了する。例え朽木家やルキア個人に対して悪感情を持っている者でも、ルキアの美しさは否定できなかっただろう。
容姿だけではなく、仕草や眼差し、ほんの些細な動きでさえ、ルキアは息を呑むほど美しかった。
華奢な身体つきは、成熟した大人の女性の身体には程遠かったが、それが逆に少女と大人の境界線の、ルキアの美しさを際立たせていた。
少女の清純さと女の蟲惑。
どちらも兼ね備えた―――麗しく妖しい華。
けれど今は……ベッドの上に倒れこんだルキアには、その華やかな名残は見つけられない。
小さな子供のような頼り無さで、ルキアは無防備に横になっている。
仰向いた顔を右腕で隠し、左手は身体の横に投げ出して、ルキアはぐったりと横たわっていた。
「…………今日も、…………」
それ以上は言わず、ルキアは両手で顔を覆った。
―――今日も逢えなかった。
初めて逢った日から時は過ぎ、あれから既に三月が経つ。
あの日以来、開催されるパーティには欠かさず出席した。朽木家の者が招待されるほどの規模のパーティは頻繁にあることではないが、それでもこの三月で両手の指ほどの数の会場に出席していた。
それでも―――あの紅い男はいない。
必ず同行する花太郎の注意を引かぬよう、さり気なく出席者の中に紅い色を探す……けれど求める色は見つからない。同年代の者にさり気なく水を向けても、あの男に繋がるような情報は何一つ手に入らなかった。
あの日だけの幻。
その幻を必死で追い続けている。
如何してこんなに心惹かれるのか、何故こんなにも胸が苦しいのか、逢えばきっと全てがわかるとそう信じて。
どんな男なのだろう。
どんな声をしているのだろう。
名前はなんと言うのだろう。
知りたいことは全てだった。あの男の全てが知りたい。あの男の声が聞きたい。姿を見たい。名前を知りたい。
そう想い続けて―――三月。
想いは薄れる事無く、一層深く鮮やかに色付いてゆく。
一目見ただけの、視線を合わせた僅か数秒―――たったそれだけで世界は変わってしまった。
「逢いたいんだ……お前に」
声を聞かせて。
姿を見せて。
そう願い続けて、三月―――。
―――そして今日もルキアは華やかな場に一人、その色を探している。
周囲を取り巻く人の間から、さり気なく四方に視線を向ける。人の波、煌びやかな色の群れの中に、あの紅はなかった。
内心の落胆は隠し、ルキアは人を逸らさぬ笑みを浮かべて艶やかにその場の華となる。
逢えなければ意味はない。
この空虚な空間に意味は無い。
周囲を取り囲み追従する男たちの話に楽しむ振りをして、ルキアはただ時の過ぎるのを待つ―――その目の前の人垣が、突然崩れた。
特に大きな音を立てた訳でもなく、誰かが声を上げた訳でもない。
強いて言えば空気が―――他者とは明らかに違う空気が、人々の視線を集め、圧するのか。
会場中の視線を全て集め、その数多の視線に怯む事無く、真直ぐに歩く優美な姿。
長い髪が、目映い光の下で闇のように黒く輝く。
他の者は視界に入っていないのが明白な足取りで、その地上の主はルキアへと向かう。
「ルキア」
「兄様!」
驚きと嬉しさとが同時に込み上げルキアは微笑んだ。たった今までその面に浮かべていた淑女然とした笑顔が明らかに作り物だったとわかるほど、その笑顔は生気に満ち、喜びに溢れ、歳相応の幼さと無邪気さが表面に現れる。
「如何なさったのです、今日は?」
「時間が出来た。約束していただろう、空いた時間はお前と過ごすと」
「良いのですか?本当に?」
「勿論」
微かに微笑みながら、白哉はさり気なくルキアの腰に腕を回す。周囲の男達からルキアを切り離すように、ルキアの所有権を誇示するように、白哉は当たり前のようにルキアを傍へと引き寄せる。その腕の中で、ルキアは久しぶりに見る兄の正装に目を奪われていた。
「兄様、……綺麗です」
「それは男に使う言葉ではないだろう」
「でも、それしか思いつきません……」
「では、礼を言うべきだろうか?しかし私にはお前の方がその言葉に相応しいと思うが」
「嫌味にしか聞こえません。兄様の美しさに私が勝るなんて、いくら物知らずの私でもそこまで無知ではありません」
頬を赤らめて上目遣いに抗議するルキアの手を取り、白哉は周囲の視線も気にせずにルキアの耳に唇を寄せる。
「貴重なお前との時間を、私はこのような無粋な場所で潰すつもりはない。出るぞ」
「でも、主催者の方にご挨拶は……」
「お前が私といたくないと言うのならば私はこのまま一人で帰るが」
「そんな訳ないと、知っていていつも兄様は意地悪を仰る」
怒った振りでふいと視線を白哉から逸らしたルキアの視線が、大きな樫の扉を開けて出て行く男の背中を見つけて止まった。
―――紅い色。
紅玉を溶かした―――紅。
「―――……!!」
一瞬―――全てを忘れた。あんなにもその美しさに目を奪われた兄の白哉の存在さえ。
既に閉ざされた扉に向かって一歩を踏み出した。追いかけなくては消えてしまう……幻、幻影、そんなものにはさせない―――!
「ルキア?」
「………!」
白哉の声が、ルキアの正気を取りもどす。
今ここであの男を追いかけたら―――兄はどう思うだろう。
兄は―――あの男を調べるだろう。先日話した、自分に近付く不振な者として。
実際にはルキアの一方的な想いだ。お互いに名前も知らず、声すら聞いた事もなく、素性も過去も何も知らない。
ルキアがただ一目見て心を奪われただけの。
二人には何の接点もない。
男はルキアの存在すら知らないだろう。ただ一度目が合っただけの存在―――それも僅か数秒。
その時以来、初めて会ったのだ。あの男がルキアを知る由もない。それは間違いなく。
追いかけたい―――名前を知りたい。声を聞きたい。あの瞳をもう一度見つめたい。
けれど―――兄が。
普段から過保護な白哉が、こうまでルキアがあの男に執着しているのを知ったら―――如何するか、解らない。
詰問するかもしれない。冷たい視線で見ることは間違いないだろう。
そしてこのように人の多い場所で……「朽木白哉」の不興を買ったと周囲に知られれば、あの男の今後の成功は、ない。
あの男がどのような立場にいるか解らないが―――「朽木白哉」に睨まれた、それだけで周囲の人間はその男を排除する。
だから―――声を、かけることは出来ない。
立ち尽くすルキアの目の前で、―――男の姿は、樫の扉の向こうに消えた。
幻は。
幻のまま。
今日も―――。
「如何した」
「……いえ。何も―――」
泣きそうになるのを堪え、ルキアは俯く。
「何でも、ないです……」
待っていたのに―――再び逢える日をずっと。
何故今日なのか。
何故、今日に現れるのか。
追いかけたかった。
声を聞きたかった。
名前を知りたかった。
全てを―――知りたかった。
「すまぬ、泣かせるつもりはなかった―――泣くな、ルキア」
「兄様……兄様」
「私が悪かった。泣かないでくれ、お前が泣くのを見るのは辛い」
白哉の腕に抱き寄せられ、その胸の中でルキアは涙を零す。
逢えたのに。
やっと逢えたのに。
「兄様……」
自分を愛してくれる兄の腕の中で、ルキアは子供のようにただ、泣き続けていた。
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