安堵の笑みを浮かべる花太郎に笑顔で返す。 同時に鳴り響いた授業開始の本鈴の音に、席へと戻っていく花太郎の背中を見送りながら、ルキアは小さく溜息を吐いた。
花太郎が疑っていたこと、それを何とか晴らすことにとりあえず成功したことに、ルキアの方が安堵していた。
そう、「とりあえず」だ。
これ以上、花太郎に疑問を抱かせたら―――次こそ花太郎は檜佐木に報告するだろうということはルキアにもわかっていた。
それは避けたかった―――もしそうなれば、これから自分は自由に動くことが出来なくなる。
教室内に入ってきた、扱う内容と同じほどに古典的な古語の女教師の、教科書を読み上げる言葉を聞き流して、ルキアは窓の外の景色を見る。
『一度見ただけの者をいつまでも気にすることなどある筈がないだろう?この私が』
先程の自分の言葉に唇を咬む。
―――自分の心がわからない。
どうしてこれ程までに―――ただ一度視線を合わせただけの男が、心から離れないのか。
どうしてたったそれだけのことで―――全てが手に付かなくなるのか。
心が制御できない。想いが暴走する―――あの男に逢いたいと、それだけを叫んでいる。
ただ一度、目にしただけのあの男に。
名前も知らないあの男に。
素性も知らないあの男に。
―――支配されている。
あの日から考えることといえば、あの紅い、焔のような男の事ばかりだ。
胸が張り裂けそうで苦しい。
自分の心がわからない。
逢ってどうするのかもわからない。
逢ってどうなるのかもわからない。
ただ―――逢いたかった。
「お忙しい中、本当に申し訳ございません、兄様」
約束の時間ぴったりに現れた白哉を、ルキアは席を立って迎い入れる。
久しぶりに会う兄はやはり美しかった。その美しさは見目だけではなく、所作、雰囲気、自信や力、全てが美しさと密接に絡んでいる。
「いや。私もお前に会いたかった。お前は薄情だから、いつも私に会いに来てはくれぬ」
「我儘は言わぬよう、いつも自身を律しておりますのに」
「我儘を言っていいのだ、その方が私は嬉しい」
ウェイターに自分用のものにコーヒーとルキアには新しい紅茶をオーダーし、白哉は「さて」とルキアを見つめた。
「愛しい妹といつまでもゆっくり話をしていたいのだが、生憎檜佐木に30分以内に戻ってくるように言われているのだ。つまり企業のトップは私ではなく檜佐木だと常々思っているのだが―――」
くすくす笑うルキアに、余人が見たのならば目を疑うほどの笑顔を向け―――白哉がそんな優しい笑顔を浮かべることが出来ることを知っているのは、恐らくその笑顔を向けられる唯一の人物であるルキアの他には檜佐木だけだろう―――白哉は「如何したのだ、ルキア」と尋ねた。
「お前が私に会いたいなどと―――一体どんな話が飛び出すのか私は不安だ」
「不安だなんて……兄様の意地悪」
運ばれたコーヒーと紅茶が目の前に置かれるのを待ち、ルキアは―――切り出した。
「もしよろしければ―――今後のパーティ、兄様の代わりに私が出席することには―――出来ませんでしょうか」
「パーティに?」
白哉の形のいい眉が僅かに顰められた。それは怒りを表す表情ではなく、ただルキアに先を促すための動きだとルキアは知っている。
「はい。先日初めて兄様の代理で出席したパーティなのですが……如何でしょう、私、何か失敗はしておりませんでしょうか」
「お前は良くやってくれた。だが―――」
言葉を切って憂いた顔をする白哉に、ルキアは不安そうな表情になる。知らぬ間に何か失態をしてしまったのかと、そう不安が湧き上がったが、
「あれ以来会う者会う者、皆お前との婚約話を持ち出すのに困っている」
「社交辞令ですわ。それと―――皆、兄様のお力を欲して」
「私はお前を手放すつもりはない故、全て断っている。安心しろ」
「、……はい」
ほんの僅か―――返事が遅れたことに、幸い白哉に気付かれることは無かった。
「話の腰を折ってしまったな。それで?」
「あ、……はい。あの時、私でもこのくらいのことならば出来るのではないかと……兄様の代理で出席することで、兄様のお仕事のお手伝いが出来るのではないかと……」
「お前がそんなことを気にすることはない。私はお前に仕事をさせるつもりは全くないのだから」
「いえ……ぜひ、お手伝いさせてください。こんなことしか出来ませんけれど……お願いです」
「―――他に理由があるのか」
「え―――」
「何故そこまで固執する。他に何か理由があるのだろう。―――言いなさい」
真直ぐに自分を見据える黒い瞳―――夜のように深く暗い―――漆黒の瞳。
「ぁ……―――」
知らず、息を呑む。震えそうになる身体を、必至で押し留めた。
「わ、たしは……」
紅い、赤い、焔のような―――
心を捕らえて放さない深紅。
心が囚われて離れない真紅。
「兄様と―――一緒にいたいのです。私が兄様のお仕事の手伝いが出来たのならば―――兄様のお仕事が減るのならば―――その空いた時間、兄様と一緒に過ごせたら、と―――私は……」
小さな声で……なんとかそう言葉にしたルキアを、白哉は暫く無言で見つめ―――本当の理由を見透かされるのではないかと俯くルキアの前で、再び……優しい笑顔を向けた。
「すまぬな。では―――お前に甘えよう」
「兄様……」
「空いた時間、お前といればいいのだな?それこそ私の願いでもある」
「……兄様」
「お前の申し出、嬉しく思う」
「……お役に立ちたいのです。兄様の」
「ああ。しかし無理はしないように。お前の予定があるのならばそれを優先するのだぞ」
「はい、兄様」
「それに―――どんな甘い言葉をかける男にも気を許すな」
白哉のその言葉にルキアは「兄様は心配性ですのね」と微笑んだ。
「どんな甘い言葉も―――私には届きません。彼らの本心は私にはありませんもの。皆、兄様や朽木の名に惹かれて集まるだけですわ。私個人の事など―――如何でもいいのでしょう。そんな彼らの言葉に騙されるほどお人好しではございません。その点はご安心くださいませ」
「お前は自分をわかっていないようだな……私はその方が助かるが」
己の魅力に対して全く自覚のないルキアに苦笑し、白哉は「だが」と言葉を続ける。
「お前に必要以上に近付く者―――相手が男であれ女であれ、それには注意するように。決して心を許すな」
真剣味を帯びた白哉の声に、ルキアは普段と様子が違うのを感じ、小鳥のように首を傾げて白哉を見つめた。その視線の問いに応え、白哉は、
「最近、阿……いや、朽木に対抗しようなどと馬鹿げた事を考える者がいるのだ。ここ数ヶ月、それらの動きが活発化していると檜佐木が伝えてきた。―――標的は私、だが私の一番の弱さは―――お前だ」
真直ぐにルキアを見つめる白哉の瞳は、静かに、深い。
「私を攻撃するのに一番有効な事―――それはお前を傷付けることだ。ルキア、お前は私がこの世で唯一愛する者なのだから」
「兄様……」
「心配するな、お前は絶対に傷付けさせない。護衛は今まで以上に配置する。―――が、ああいった場所は……お前の身体に直接危害を加えることは皆無だろう、だが」
甘い言葉でルキアに取り入り、ルキアに気を許させ―――ルキアの信頼を得、傍にいるのが自然になれば、護衛など役には立たない。
「お前に近付くどんな者にも気を許すな。それが約束できねば、この話はなかったことにする」
白哉の、自分への愛情を感じてルキアの胸は熱くなる。
血の半分しか繋がらない妾腹の妹に、ここまで愛情を寄せてくれる兄に、ルキアは嬉しさを感じ―――同時に、申し訳なさも感じている。
「そんなこと……兄様以上の存在が、この世にいる筈もないですもの」
自らに言い聞かせるように、ルキアは言う。
そう、兄様以上の男性がこの世にいるはずはない。
―――兄様以上に心を占める男が居る筈はないのに。
今この瞬間も、自分の心を占めるのは……紅の色。
自分に近付く所か、決して姿を見せようとしない男を求めている。
「そうだな―――お前以上の存在がこの世にいないように」
す、と立ち上がり白哉はルキアの顎に手を添え上向かせる。
抵抗なく白哉の望む通りに顔を上げたルキアの額に、白哉の唇が触れた。
「―――次に会える日を楽しみにしている」
「……はい、兄様」
席を立ち、仕事へと帰る白哉の背中を見送る。
初めてついた兄への嘘に後ろめたさを感じながら―――今後のパーティの出席の許可が下りたことに、ルキアは安堵した。
これで―――あの男を探すことが出来る。
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