「―――でね、ホントすごくかっこいいんだって……」
やや高めの、後ろの席の女生徒の声がいつもルキアは嫌いだった。
この学院は名家の子息子女の通う有名校だ。入学金も授業料も相当な額で、その金額を払える者しか通うことは許されず、故にこの学院の在籍者の親は各分野で名を馳せた者たちで、そしてこの学院に自分の子供が通っているということ自体が彼らのステイタスにもなっている。
この学院は、社交場も兼ねている……実際、同級生同士が結婚することは儘あるし、同じ学院内に婚約者がいることも珍しくない。
家柄というものに縛られている子供たちには、付き合う仲間達も限られている。同じ立場の者達としか話は合わないのだ。召使がいるのが当たり前の世界に住んでいる彼らが、一般世界の同年代の者達と相容れるはずもなかった。
それは彼ら特有の自尊心、地位名誉資産のない者への見下した態度、それらも充分な理由になっている。まだ16歳の彼らの中にも特権意識が根付いていた。
そして同じ学院の中でも、はっきりとグループが分かれている。
昔からの貴族階級の者たち。
代々続く大企業の子息達。
最近財を成した新興の者たち。
彼らは自分たちの派閥を敏感に感じ取り、同じグループの者たちと付き合い、他の階級の者たちとは滅多に交流することはない。
その中で、ルキアは常に一人だった。
その立ち位置も微妙だった―――朽木家は、元を辿れば貴族の家系でもある。けれど、現在は財閥としてその名を知らしめている。
それ以上に―――その、突出した力。
この学院に在席する者たちの中で、ルキアの力は、つまり白哉の力は―――最も強大だろう。
表世界も……そしてルキアが知る由もないが、裏の世界でも。
故にルキアはいつも一人だった。花太郎が必ず従ってはいたが、それはあくまでも「従者」に過ぎない。
ルキアには「友人」と呼べる存在はいなかった。そしてルキアは特にそれに悩む様子もない。子供の頃から、記憶の始まりの6歳の頃からそれが当たり前の事だったからだ。その朽木の家の力のあまりの強大さに、同級生達は必ず一歩置いた距離でルキアに接する。
「だから貴女も一緒に行こうよ?ホントに今まで見たこともないタイプの人なのよ、あんなかっこいい人見たことない……」
背後の女生徒は、グループ分けで言うならば「最近財をなした新興の者たち」に属していた。
彼女の父親が事業に成功し、言わば一代で立身出世を果たした家だった。彼女自身はある程度の教育は受けているが、彼女の両親は普通の家庭に育った。やはりそういった事柄はふとした拍子に表面に出、そしてそれはこういった場所では色濃く映る。代々裕福な家庭で躾けられ生活してきた他の生徒たちと比べれば、やはり彼女……彼女の属するグループは何処か違う。彼らはあからさまに言葉にすることはなかったが、つまり「あの方達とわたくし達は育ちが違うから」と言うことだった。
その女生徒は、ルキアの後ろで同じ立ち位置の友人と話をしている。そういった家庭の事情で、彼女は他の同級生たち、そしてその親ならば眉を顰めるようなこと―――夜に出歩くことや繁華街をうろつくこと、それをしても特に咎められるようなことはないらしい。もとより小遣いは充分にあり、咎める両親は仕事で忙しく家に帰ることも滅多にないと来れば、女生徒のその行動も当然といえば当然のことだった。
今もその女生徒は、どこかで見かけた男の話をしているようだ。彼女の話はいつもこんな内容で、ルキアはその度に内心「莫迦か」と呟いていた。男にしか興味がないというこの女生徒の精神構造がわからない。なぜ次から次へと新しい男を見つけては、こうして友人達にその顛末を話して聞かせるのか、その思考回路が良くわからない。
「大人な人よ。あんまり喋らないんだけど、そこがまたセクシーで……」
「ルキアさま」
花太郎の呼びかけに、ルキアは顔を上げた。花太郎がこうして、教室でルキアに声をかけることは珍しい。いつも影のように付き従っているだけで、表立ってルキアに話しかけることはしないのだが、今日はルキアが朝に命じた事柄の結果を伝えに来たのだろう。
「どうだ?」
「はい、今日学校が終わってから、ということでした。16時に、・・ホテルのラウンジで」
「そうか」
「……如何されたのですか。……今まで白哉さまにルキアさまから会いに行くことなど……なかったのに」
会いたい気持ちを抑え、常に白哉が家に帰ってくることを待っていたルキアが、初めて自ら白哉に「会う時間を作って欲しい」と懇願した。その「いつもと違う」事柄に、花太郎はやはり不安を隠せない。
一週間前のパーティに参加して以来、ルキアの様子がおかしいと……花太郎は感じている。
その変化は些細なもので、恐らく花太郎にしか気付いてはいないだろう。花太郎自身も、それが「変化」だとは自信を持って言えない。普段は全くいつも通りのルキアで、言動にもおかしなところはない。
けれど。
ふ、と考え込む時間が増えたようにも思う。
考え込む、それ自体は別に奇異でも何でもない。花太郎にはわからない何か悩みがあるのかもしれないし、そこまで踏み込むつもりもない。自分は従者に過ぎないのだから。支配者階級にあるルキアに、自分の窺い知れない世界があるのは当然のことだ。
けれど―――あの日、ルキアが車の中で尋ねた「過去」。
花太郎はルキアの過去を知らない。初めて会ったのは白哉に呼ばれ、ルキアの盾になることを命じられたあの日が初めてのことだ。花太郎の父が運転手をしていたことは本当だが、葉山の別荘に居たことはない。それに、ルキアの母というものも知らなかった。その存在も。ただ以前……大分昔、そう、花太郎がルキアに付き従うようになって直ぐ―――檜佐木修兵が花太郎に告げた。ルキアの過去の「設定」を。
『ルキアさまがご自身の過去を尋ねられた時には―――こう、お答えするんだ』
事細かに、まるで物語のように詳細に綴られた文書の内容を、花太郎は完全に頭に叩き込んでいた。故に、突然の質問にも動揺せずに答えることができたのだが―――ルキアが自分の「過去」を口にしたのは、この10年で初めての事だった。
何がルキアの意識を「過去」に向けさせたのか。
紅い髪の男―――その存在なのか。
けれど花太郎には、そんな男が居た事に全く気が付かなかった。長身の、紅玉を溶かしたような紅い髪の男―――そんな目立つ男はあの会場に居なかったし、その後花太郎が気になって調べた来客名簿の中にも、そんな風貌の男は居なかった。そして、あの会場にいられるほどの身分を持つ者に、紅い髪の若い男などいないことも調べは付いていた。
あとは花太郎と同じ誰かの従者、ということになるのだが―――そんな従者という身分のものに、ルキアが意識を留めるはずがない。従者はその存在を目立たせることはない―――あくまでも目立たぬよう、そう命じられている。特にあの場に居た者たちは各界でもトップの者たちなのだから、その従者が不文律を犯すはずもない。
―――まるで幻のような。
そんな不確かな存在。
その不確かさ故に、花太郎はこの件を檜佐木に報告すべきか悩んでいる。ルキアの口止めの所為もあり、もう暫く様子を見よう、と思っていたのだが。
今までになかった、ルキアから白哉への面会の申し出に、花太郎の思考は揺れる。
「お前は先日から『如何したんですか』ばかりだな?そんなに私の様子がおかしいか?」
苦笑するルキアに、花太郎は赤面する。
「申し訳ございません」
「まあ仕方がないな。それがお前の仕事なのだから」
そのルキアの言葉が、花太郎には辛かった。仕事ではありません、と―――喉元まで言葉がせり上がる。
寸でのところで言葉を飲み込み、花太郎は無言で頭を下げた。
「心配することはない。私はただ、兄様のお役に立てればと思っているだけだ。お前の心配していることは判るが―――多分、あの時私が口にした男の事だろう?」
悪戯っぽく笑うルキアのそのコケティッシュさに、花太郎の頬は再び赤く染まる。
「あれは偶々……目に付いた故に口にしただけだ。一度見ただけの者をいつまでも気にすることなどある筈がないだろう?この私が」
「はい、ルキアさま」
「私がここ暫く考えていたことは、私が出来る兄様の手助けのことだよ。先日初めて一人でああいったものに参加してみたが、思ったよりも如才なく振舞えたのではないかと自分でも思う。あの程度の事ならば、兄様の代理で出席できるのではないか、と思ったのだが……そうしたら兄様の負担も減ると思うし。そうしたら、兄様ももっと私に会う時間を増やしてくださるかもしれないし」
ああ、と花太郎は内心嘆息した。
杞憂だったと―――安堵した。
やはりルキアは、白哉を一番に愛している。
「そうお伝えしたら、きっと白哉さまもお喜びになると思いますよ」
「そうかな?」
嬉しそうに微笑むルキアに、花太郎は「ええ、きっと」と頷いた。
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