周囲のざわめきも、微かに聞こえていた音楽も、グラスの触れ合う音も豪奢な服の衣連れの音も、既にルキアの耳には僅かも入ってはいなかった。
紫紺の瞳に映るのはただ、―――紅い色。
黒の礼服に身を包み、壁際に一人立つ長身の男。
白と黒に纏められたその服の男の印象が「紅」だったのは―――その、髪の色だった。
焔のような紅い色。
紅玉を溶かしたような純粋な紅。
まるで女性のように長く背中に流れるその紅の髪は、けれど欠片も女性らしさを見るものに与えることはない。
その瞳―――その、意思。
真直ぐにルキアを見つめるその瞳。
激しく強く、射抜くように見透かすように、ただルキアに向けられたその視線。
その視線を受け止めた途端、ルキアの視線も固定された。
まるで視線それ自体に強烈な磁場を持っているように、ルキアの視線を捉えて離さない。
捉えて離さない―――それは視線、だけではなく。
心が囚われる。
想いが乱れる。
感情が溢れる。
――― 見 ツ ケ タ。
細胞が、身体中が、生命が歓喜の声を上げる。
心が、「自分」という存在の全てが、喜びの涙を流している。
信ジテタ。
キット迎エニ来テクレルッテ、信ジテタ。
ズット、ズット待ッテイタンダヨ―――
――― 恋 次 。
「―――朽木様?」
掛けられた声に、ルキアははっと我に返った。途端、世界は動き出す―――人々の声、流れる音楽、失った色は鮮やかな色を取り戻す。
「如何致しました?―――お身体の具合でも?」
「い……いえ」
覗き込む男が誰だかも思い出せず、ルキアはぼうっとした頭を覚醒させるために小さく頭を振った。それで完全に、最後まで纏いついていた朧気な感覚は消え失せ、ルキアは美しい、けれど全く心の籠っていない儀礼上の笑顔で男に向き直った。
「失礼致しましたわ、篠澤様。少し人の多さに酔ってしまったようです」
「貴女は普段、こういった席にいらっしゃいませんから……よろしければ外に出ませんか?」
さり気ない誘いを笑顔でかわし、ルキアは視線を戻した。目の前の男など如何でも良く、先程感じた心の高揚の原因を探ろうともう一度ルキアは振り返る。
(…………あ)
先程まで確かにいた紅の存在は、跡形もなく消えていた。
慌てて四方を見回しても、あの長身の男の姿は見えない。
ルキアの心を乱し惑わした男の姿は、忽然と会場からその姿を消して―――いた。
「如何なされました?ルキアさま」
「別に如何もしないが?私の方が聞きたいぞ、花太郎。如何したんだお前は、さっきから同じ質問しかしないではないか」
くすくすと笑うルキアに、花太郎は胸の内で「それはルキアさまの様子がおかしいからですよ」と呟いた。
あのパーティの会場で、人々の輪の中心で艶やかな笑顔を浮かべていたルキアは、突然その輪から抜け出して会場内を何かを探すように歩き始めた。
近付いた花太郎が「お探し物ですか」と尋ねると、ルキアは曖昧に言葉を濁し、それでも視線は何かを求めて彷徨っている。そうしてまた暫く会場内を、掛けられる言葉と笑顔に如才なく笑顔で返しながら、ルキアは何か、若しくは誰かを探し続けていた。
「どなたかをお探しですか?」
重ねて尋ねた花太郎にルキアは暫く逡巡した後、「紅い髪の男を見なかったか」と躊躇いながら言葉を口にした。
「長身の男だ。歳は……20歳前後の。髪は長くて……紅い。見なかったか?」
ルキアの真剣な瞳に気圧されながらも、花太郎は自分の記憶を辿る……ずっと壁際に下がり、ルキアの周囲を見張っていた花太郎の記憶には、そんな男の姿はなかった。ルキアの言うとおりの長身で紅い髪という目立つ特徴を持つ男ならば、視界に入れば必ず意識に留まるだろう。けれど細かく記憶を辿ってもそんな男の姿を眼にした覚えはない。
「申し訳ございません……見かけませんでした」
「そうか」
微かに声に落胆の響きが混じる。その声に、花太郎は「その男が何か?」と再び尋ねる。
ルキアが見ず知らずの男に興味を持つのは珍しい。そして「珍しい」ということは「常と違う」ということだ。その状態を見極める役目も花太郎は担っている。
「いや……何でもない」
首を小さく左右に振って、ルキアは俯いていた顔を上げた。そしてまだ物問いた気な花太郎へ「この件は誰にも言うな、いいか?」と念を押す。
「兄様の耳に入ればご心配されるかも知れぬ。本当に何でもないのだ、少し……気になっただけで。あまりにも……見事な紅、だった、から」
自分に言い聞かすようにそう言うと、ルキアは再び、自分の仕事へと……周囲の人々の「朽木」への挨拶を受けに、会場の中心へと戻っていった。
そして、それ以降、ルキアは何も言うことはなかった。そのかわり―――考え込むように、自分の思考に集中している、今この瞬間のように。
屋敷へと向かう車の中、黒革のシートに背中を預け、ルキアは窓の外の流れる景色を見る振りをしながら、考えていることは先程の男の事だった。
あの男を見た瞬間、自分が自分ではなくなってしまったように感じた。否、あれは確かに自分―――ただ、常の自分とは違う自分。あの時自分は何かを感じた。劇的な何か。言葉では表せないほどの幸福感と哀しみともどかしさ。
そして―――自分はあの男の名前を知ってはいなかったか。
あの瞬間、自分は誰かの名前を呼びはしなかったか。
先程から何度も思い出そうとしても、その名前が思い出せない。いやそれ以前に、あの男と会ったことさえ思い出せない。
自分はあの男を知っている?
けれどその記憶は全くない。
そこでルキアは、あの男は自分の記憶を失う前に出会った男ではないかとようやく思い至った。
ホテルでの爆発事故―――事故ではなく事件。両親が目の前で生命を落としたあの惨劇。その時に失ってしまった記憶、その中にあの男が居る―――のだろうか?
「私の過去を……花太郎は知っているか?」
「ルキアさまの過去……ですか?」
「私の失った記憶の……その時の。私はどんな生活をしてきたのだろう。兄様は、私はずっと葉山の別荘に、母様と二人きりで、生命の危険から殆ど外に出ることもなく過ごしていたと仰られていたけれど」
「……白哉さまの仰るとおりですよ。私はその時、葉山の別荘に居りましたから。当時は私も子供で、まだルキアさまと直接お目にかかることは出来ませんでしたけれども。私の両親がルキアさまとルキアさまのお母様のお世話をしておりました……いえ、お世話等とはおこがましいです、私の父は運転手、母は厨房の下処理をしていただけでございますから」
「そうか、……私は他に子供と会ったりしていたか?」
「いいえ、ルキアさまは……お母様と使用人、それと時々お見えになられた旦那様以外の人と会うことはなかったと断言できます」
「……そうか」
「……如何なさいましたか」
「如何もしないよ。……お母様はどんな方だったのかと思っただけだ……その記憶も私には全くないからな。教えてくれないか、母様はどんな人だった?」
「美しい方でした。子供の私から見ても、比類なく美しい方だと思うほど。たおやかで優しくて……今の、ルキアさまのように」
最後の一言は、花太郎は囁くように呟いたので、ルキアの耳には届かなかった。
「今日は疲れたな。……しばらく休む故、話しかけるな」
瞼を閉じ、恐らく眠るのではなく自分の想いに沈みこむルキアを、隣の花太郎はただ無言で見守っていた。
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