シスレーの部屋、というのはアルフレッド・シスレーの絵画の掛けられた部屋の事を指していた。
 その部屋は普段使用する食堂とは違い、数ある部屋の内のひとつ、特に使用目的のある部屋ではなかった。勿論、使う機会は滅多にないとは言え、その部屋はいつどんな瞬間でも使用できるように完璧に整えられていた所為で、ルキアがこの部屋で食事をと言った後すぐにテーブルが運び込まれ、食器が揃えられ、夕食の準備は整えられた。
 いつもならば―――否、白哉がルキアと食事を摂ることが出来る時は、広い部屋の広い机で向かい合って食事をするのが常だったが、久々に大好きな兄に会えたルキアは、広い机の両端で食事をする気にはなれなかった。故に「シスレーの部屋で」と白哉に願い出たのだ。
 その、小さな部屋の真中に置かれた比較的小さなテーブルに向かい合い、ルキアは目の前の兄を憧憬の眼差しで見つめる。
 ルキアは、こんなに美しい男性を他に見たことはない。
 顔かたちだけではなく、その所作も優美で……まだ若いながらも、この巨大な「朽木」という組織を纏め動かすその手腕。他の誰とも違う、その雰囲気。
 なぜこの人が自分の兄なんだろうかと考える。
 自分とはあまりにも違う、とルキアは思う。
 ルキアは白哉とは半分しか血が繋がっていなかった。―――父は同じ、けれどルキアの母と白哉の母は違う。
 ルキアの母親は、朽木家に仕えていた使用人だったという。
 だから、本来ならばこんな風に白哉と同じ席について、同じ扱いを受ける身分ではないはずだ。あくまでもルキアは庶子であって、嫡子である白哉とは同じ場所にはいない。
 それでも、ルキアがこうしているのは―――ひとえに白哉の力だった。
 生母を失い、ひとりになったルキアを引き取ってくれたのは、やはり父と母を同時に亡くした白哉だった―――そうだ。
 ―――ルキアには、幼い頃……6歳以前の記憶はなかった。






「すまなかったな」
 食後の紅茶を口にしながら、白哉はルキアに向かってそう言った。
「突然こんな頼みをして―――明日、予定はなかったか」
「私の毎日は、兄様がいつ帰っていらっしゃるか、それをただ待つだけの日々ですから」
 悪戯っぽく笑って、ルキアは同じように紅茶を口元へと運ぶ。
「それに、私はいつもお兄様のお仕事のお手伝いが出来たら、と願ってましたから……そうすれば兄様の負担も軽くなるでしょう?」
 ルキアは、白哉の動かす世界の大きさ、重さ、苛烈さを知らない。白哉はそういった、仕事に伴う暗い部分は決してルキアの前に見せる事はなかったし、他の誰かがその片鱗をルキアに見せる事すら許さなかった。
 無邪気なルキアの言葉を笑みでかわし、白哉は極自然に話を逸らす。
「明日、着ていく服は決まったのか?」
「はい、今日、学校帰りに決めて参りました。ご覧になります?」
「ああ、ぜひ見せてもらいたい」
 給仕係の執事に、ルキアは「花太郎に、今日の服を持ってくるよう伝えて」と命じ、「兄様」と白哉に視線を戻す。
「先程仰っていたプレゼント……そろそろ教えてください。気になって仕方ないんです」
「お前の服を見てからだな」
「……もう」
 笑う白哉に、ルキアは可愛らしく膨れて見せた。その二人の会話に、執事が控えめに「お話中、大変申し訳ございません……山田が参りました、入室させてよろしいですか?」と頭を垂れる。
「ああ」
 短く白哉が応えると、扉が開き、幾分緊張した面持ちの花太郎が紙袋を手に入ってきた。この家の主、そして自分の仕える令嬢を前に深々と頭を下げる。
「お持ちいたしました、ルキアさま」
「そこに置いて、下がって良い」
「はい」
 白哉と共にいるルキアは、普段以上に手の届かない場所にいると花太郎は感じる。白哉を前にすると、ルキアは他の何も見えなくなる。今も、二人の時間を邪魔されたくないというルキアの意図は明白だった。
 失礼のない範囲で出来る限り迅速に退出した花太郎を、ルキアも白哉も意識する事無く、二人の意識は既にルキアが取り出した明日のパーティに来て行く服に向いていた。
「如何、兄様」
 身体にそのドレスを当て、ルキアは踊るようにその場でターンをして見せる。その回転にあわせて、スカートの上に重ねられたプリーツがふわりと拡がった。
「店員が選んでくれたのですけれども。この上に、黒いショールを羽織ります。……どう思います?」
 あの後、店員が選んだのは新たな服ではなく、最初に選んだ服にプラスする黒いショールだった。肩から羽織るそれは、服本来のイメージを損なう事無く、大きく開いた背中を完全に隠していた。
「……その店員、いい眼を持っているようだ」
「ええ、私もそう思います。暫くはこの店で服を作ろうかと」
 もう一度、今度は逆周りにルキアは回って見せる。再びスカートがふわりと浮かぶ。
「……これならば用意したものと合いそうだ」
「え?」
「檜佐木、あれを」
 懐から取り出した携帯電話にそう告げると、程なく修兵が小さな包みを持って現れた。美しくラッピングされたそれを受け取ると、白哉はルキアに手渡す。
「開けてよろしいですか?」
 頷く白哉を確認してから、ルキアはその白く細い指でリボンを解いた。丁寧に包装紙をめくっていく。
「…………!」
「明日、付けていきなさい」
「でも、こんな……高価なもの……」
 ルキアでさえ息を呑む、あまりにも高価な首飾りだった。
 小さな、けれど最高級のダイヤが、細い白金に連なっている。そして一際大きな紫水晶が真中に。それを大きなダイヤが取り囲んでいる。
 紫水晶自体はそんなに高価な宝石ではない。けれども、白哉がそれを選んだのは勿論その紫がルキアの瞳と同じ色だからだ。
「お前のために創らせたものだ。お前が付けないと言うのならば、処分するしかないな」
「……兄様」
「喜ぶ顔が見たかったのだが。気に入らぬか」
 白哉の言葉に、ようやくルキアは笑顔を浮かべた。遠慮が先にたっていただけで、一目見てそのプレゼントは気に入っていたのだ。
「嬉しいです、ありがとうございます兄様!」
「最初から素直にそう言えばいいものを」
「私にも遠慮はございますもの……」
「お前の望みは全て叶える。遠慮などするな……お前だけが私を支配するのだから」
「本当にそうだったらよろしいのですけれど」
 楽しそうに笑いながら、ルキアはドレスを手にしたまま白哉の席へと近付く。
「ありがとうございます、兄様」
 感謝の気持ちを込めて、ルキアはそっと白哉の頬に口付けた。






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