青年がこの店に来て、今日で丁度1ヶ月になる。
元々はこの店のただの客だった。いや、「ただの」ではなく「熱烈な」客、この店の服は勿論、店内、スタッフ、インテリア、全てに執着とも言えるほどの愛情を持っていた。何がそんなに青年を惹きつけるのか、確たる理由も本人にはわからなかったが、その理由はわからなくても店を愛していることは紛れもない事実なので、青年は深く考えずにいる。
その熱烈な客だった青年は、何度も店に足を運ぶ内に自然スタッフに顔を覚えられ、言葉を交わしていくうちに「そんなに好きならばいっそ働いてみるか」と声を掛けられ、喜んでスタッフの一員となった。それが1年前。
最初は青年が客として通っていた支店のフロア担当だったが、彼の店への愛情、服への愛情は、来店する客が一番似合うものを勧めるという行為に繋がり、そしてそれは見事に来客者にぴったりと合うものだったので、青年の評価は徐々に、そして確実に上がっていった。その店に来て青年に選んでもらえば、それは間違いなく己を数段魅力的にしてくれる、という噂が口コミで広がり、青年の働くその支店は、全店舗の中で売り上げは最高になっていた。
そして、本店が青年を引き抜いたのが丁度1ヶ月前になる。
本店でも変わりなく青年は良く働いた。元々この店は品質とデザインの優良さと高価なことで名の知れたブランド店で、来店する客もそれに相応する客が多い。勿論この店への憧れ、商品を間近で見たいという気持ちから来店する客も多かったが、実際その店で買い物をするとなると、まず普通の階層の人間には無理だったろう。
今日も服や装飾品のレイアウトを確認しながら店内を歩いていると、扉の開く気配がして青年は顔を上げた。扉が開く音はしない。故に青年は気配でいつも察している。
その青年の目に映ったのは、扉を開けている青年―――いや、まだ少年と言って良いだろう、小柄な体躯の少年だった。髪は長めで、グレイの制服を着ている。ボタンのない詰襟のその制服は、確か有名私立の高校の制服だったな、と青年は思い出した。この店の近くにある、ということは都内有数の高級地―――その真中に贅沢なほどの敷地を持つ、私立高校。ミッション系のその高校は、偏差値と共に掛かる学費も相当なものだと聞いている。つまりは資産家、そして現在は存在しないが過去で言う貴族、華族―――その血を引く由緒正しき家柄の子息の通う場所。
その制服を着た少年が、恭しく大きな硝子の扉を開いて、背後の人物を店内へと導いた。
―――入ってきたのは、一人の少女だった。
年の頃は少年と同じほどだろう、まだ15、6歳だと思われた。少年と同じグレイの生地の、ブレザータイプの制服。少年と同じほどに小柄な身体、けれどその雰囲気は明らかに少年のものとは違う。
支配者のオーラ。
支配することが当然の者のみが持つ、その独特の気配。
幼い頃から人に命じることが当たり前となっている、その環境が身に纏わせた空気。
その空気を、少女は持っていた。
それは決して威圧感とは違う―――例えて言うならば、王者の風格。頂点に立つのが当然の、当たり前に思うその物腰。
そしてそれは少女にとって、気品となって表面に現れている。
この歳にしてこの気品―――この空気。
そして―――美しさ。
青年は感心しながらその少女を見つめたが、それは一瞬の事。すぐに青年は頭を下げて客である少女を迎い入れる。
「ドレスが欲しいのだが」
そう発した声は、一般の少女に比べてやや低めだった。それは落ち着いた印象を聞く者に与えて、耳に心地好い。
「作る暇がない故、既成のもので構わない。靴と鞄も一緒に。―――店長は?」
「生憎、ただいま席を外しております。―――よろしければ私が」
「お前が?」
自分よりも明らかに年上の青年に向かって、少女は目下に対する言葉使いをする。けれどそれが当然のような印象を受け手が持ってしまうほど、それは自然だった。
しばらく青年をじっと見つめた後、少女は微かに笑みを浮かべた。そして「任せよう」と鷹揚に頷く。その瞳に試すような色が浮かんでいて、青年は僅かに緊張した。
「いつ、着られるのでしょうか」
「明日、夕刻」
「着用の場所はどちらでしょう」
「ホテル、………」
その名はあまりにも有名な高級ホテルだ。青年は改めて気を引き締める。
「ご出席されるのはどのような目的でしょうか?」
「………の完成披露パーティだ」
その名もあまりにも有名だ。つまり明日のそのパーティは、財界、政界からも多数参加されることが予想されるし、貴族階級―――勿論現在はその階級はないが、過去華族だった者達とその子孫である者たちも出席するだろう。そして各業界の名士たちも。青年が耳にした話によると、そのパーティは限られた、ほんの僅かの人物、つまりは各分野でトップかそれに近い立場に居るものしか招待状は配られないはずだ。一体この少女はどのような立場の人間なんだろうかと、青年は興味を持った。
しかしそんなことは顔には出さず、青年は少女の小さな顔を見つめる。素材を見極めなければ、材料は提供できない。
幼く見られそうなその小柄な身体、けれど白い秀麗な顔に輝く大きな瞳を見れば、誰も少女を子供とは思わないだろう。
強い意志を感じる、夜明け前の清廉な紫色の瞳。
す、と通った鼻筋、口紅はつけていないにもかかわらず、珊瑚色の、濡れたように煌めく唇。
黒い肩までの髪を一度揺らして、少女は右手で前髪をかき上げた。その指も白く細い。髪もまるで絹糸のように滑らかで光沢を持って、少女の指を愛撫するように絡みつきすぐに解けた。
暫くして青年は歩き出すと、数ある服の中から黒いミディアムドレスを手にして現れた。
それはベロア生地を使用したトップスと、サテン地のスカートのドレスだった。ベロアの胸元はアンダーバストに細やかなタックを取って美しいバストラインを作り出している。胸下には、レースの中にサテンテープを通し、レースの縁取りのついたリボンがアンダーバストを囲っている。そこから高い位置で切り替えられたスカートは、光沢の美しいサテンにネットアンブレプリーツを重ね、持ち上げればかなり拡がるほどの量を使用している。サテンの上に重ねられた繊細なプリーツは、歩く度に揺れて、下のサテンの光沢を透かして見せる。肩紐はベルベットの黒いリボンで、少女の白い肌を引き立たせ、肩を通り背中へと辿っていくだろう。
それは、完全な大人でなく、そして子供でもない、少女の微妙な年代を最大限に引き立たせるデザインだった。肩と背中の露出した扇情的なデザインであるにもかかわらず、重ねたレースは可愛らしさも醸し出す。黒のベロアとサテンという大人びた雰囲気の生地だが、高い位置で切り替えられているウエストと、膝丈のスカートが少女らしさを現していた。
「いかがでしょう?」
青年はドレスを少女の前で、よく見えるように広げて見せた。前、後ろ、二度繰り返してふと目を上げると少女が首を横に振っている。
「すまないがこれ以外のものを」
「お気に召しませんか?よろしければ一度着ていただければ」
この服が少女に合うと、絶対の自信を持っていた青年は、控えめに、けれど揺ぎ無い自信を持って少女にそう告げた。すると、横に今まで何も言わずについていた少年が、憤ったように何かを言おうと口を開きかけ、それを制するように少女が少年に向かって手を振った。
「いや、お前の選んでくれたものは確かに私に合うのだろう。着てみたいと私も思う。しかし、私には着られないのだ」
少女は苦笑を浮かべて青年の手にしたドレスを身体に当て、一度名残惜しそうに鏡を見てから青年へと手渡した。
「私の背中には無数の傷がある。子供の頃に出来た傷で、かなりはっきりとした傷跡が残っているのだ……こんなに背中の開いたドレスは着られぬのだ、残念だが」
他の、背中の隠れる服を選んでくれないか、と少女は言う。お前の選ぶ服なら間違いないようだ、と笑った。
青年は何も言わずに一礼すると、少女の注文に合うよう、再び数多の服の中へと歩いて行った。
「……無礼です、あの店員」
店の傍に止めてあった車に乗り込んで、すぐに少年は耐えかねたように呟いた。店から車まで少年が運んだ服と靴の包みはトランクに載せたので、今は何も手にしていない。
「仕方ないだろう、あの店員は私の背中の傷の事など知らなかったのだから」
対して少女の方は、特に気にした様子もない。逆に、余程今の店が……青年が気に入ったのか、滅多にない上機嫌だ。広い後部座席にゆったりと身体を落ち着け、流れる窓の外の景色を見ている。
「しかし、店長は知ってる筈です。教育がなってない。顧客、しかも上得意の情報は、きちんと告げるべきです」
憤る少年を横目で見つめ少女は笑った。普段からこの少年は、少女の周りに対して不満を洩らす。それが自分への憧れ、思慕からきていることは充分承知している少女は、崇拝者に対する女王の態度で少年に微笑んだ。
「別に私は気にしてないのだから、そんなに怒ることはないだろう、花太郎」
「ルキアさまはそう仰いますが……」
憤然としながら目を上げると、目の前にルキアの瞳があって花太郎はうろたえた。途端に顔が赤くなる。
「あの青年、気に入った。また来よう」
「気に入った……のですか?」
憧れの、女神のように想う存在が、異性に気を向けたと知って花太郎は項垂れた。確かにあの青年は背も高く、対応する客が身分の高いせいもあるだろう、上品でもあった。顔も整っていたことは間違いなく……自分を省みて花太郎は内心溜息をつく。
「気に入ったよ、あの服の選び方。私に一番合うものをすぐに出してきた」
花太郎の心の動きは判るのだろう、からかうようにそう言って、ルキアは再び声を出して笑った。ほっと安堵する花太郎を眺め、ルキアは笑いながら言う。
「今まで好きになった男など居ないよ。きっとこれから先も。困ったことだが―――仕方ない」
完璧な兄を持った私の身の不幸だな、と、ルキアは溜息をつく。
「兄様以上の男など、この世に居る筈もない。つまり私は一生男性を愛することのないまま、兄様の選んだ男の下に嫁ぐのだろうな」
「白哉さまがルキアさまを手放すはずはないですよ!」
「そうだといいな。私も兄様のそばから離れたくないよ」
目を瞑ったルキアの顔に、うっとりとした表情が浮かぶ。今考えているのが兄である白哉であることは間違いなく、そしてその表情は、ルキアが白哉の話をするたびに目にする表情だったので、花太郎には見慣れたものだった。
美しい兄妹。
花太郎はルキアの兄である、そして朽木財閥の当主である朽木白哉の部下だった。いや、部下と言っていいのかはわからない。
元は、父親が朽木家に使えていただけの、ただの使用人の子供でしかなかった。それが、花太郎が十歳の時、朽木家の本宅に連れられ白哉の前に通された。その時の緊張を、今でも花太郎は覚えている。
「―――花太郎、と言うのか」
男にしてはあまりにも美しい、そしてその美しさとは裏腹に、全身から発している支配者というオーラの前に、僅か十歳の子供は何も言うことができずただ頷いた。
広い部屋の奥に、白哉は座っていた。革のソファに足を組んでゆったりと寛いでいる。その横にまるで白哉を護る立つ顔に傷のある男の存在も、花太郎の緊張を倍増させる。
「お前のことは全て調べた。その上でお前に命じる。―――今後、お前はその存在すべてを持って、私の妹を護れ」
妹に害するものの盾となれ。
その言葉を投げる相手は僅か十歳―――そんなことには躊躇せず、白哉は事も無げにそう言った。
片時もルキアの傍を離れず、ルキアへ及ぶ害にその身をもって対処せよ。
つまり―――ルキアが何者かに襲われた場合、その盾となってお前が殺されよ、と、若き支配者は子供に命じる。
震えながら、花太郎は頷いた。頷く以外に何ができるというのだろう。ここで泣き出せば、ここで断る素振りを見せたら自分の家族の運命もそこで終わりだと、幼くとも聡明な花太郎にはわかっていた。
「―――兄様?」
そんな震える花太郎の前に現れた一人の少女―――白い服に身を包んだ少女は、「お呼びですか?」と可愛らしい声でそう言った。
「ああ。―――ルキア、お前付きの使用人が決まった。名を花太郎という」
白哉の言葉に、ようやくルキアは花太郎に意識が向いたようだった。それまで、ただひたすら白哉の顔を見つめていたルキアは、不思議そうに花太郎へと顔を向ける。
「使用人?」
「お前も来週から学校へ通うだろう。そこでは私の目も届かない。私の知らぬ場所にお前一人送るのは心配なのだ」
膝の上へとルキアを抱き上げて、白哉は微笑む。それへ無邪気な微笑を返して、ルキアは「兄様は心配性なのですね」と可愛らしく笑った。
「兄様がお決めになることは、すべてルキアの為を想って下さることですもの。私は構いません、兄様」
白哉の首に手を回し、ルキアはぎゅっと抱きついた。その姿勢のまま、ルキアの視線が花太郎に向けられ、「よろしく、花太郎」と微笑んだ。
同じ十歳にして、あまりにも違う少女。
可憐で、そして―――妖艶。
支配者の一族。
同じ歳とは思えなかった。何よりその雰囲気―――人を従えるその空気。
「よろしく―――お願い致します」
多分その時既に―――花太郎は、ルキアに心を奪われていた。
対等の存在として愛するのではなく、従者として―――崇拝者として。
「花太郎?」
あの時から花太郎を支配する少女の声に、花太郎は自分の過去から現在へと意識を戻した。
目の前に、自分を覗き込む美しい顔がある。
「申し訳ございません」
「疲れているのか?」
「いえ、何でもありません……失礼致しました」
車は朽木邸の大きな門をくぐった所だ。セキュリティの完璧に整った入口から中へ入る。振動のほとんど無い車は静かに玄関の前で止まると、運転手はルキアのために後部扉を開いて頭を下げる。
荷物は花太郎に任せ、ルキアは大きな玄関へ歩いていく。絶妙のタイミングで開かれた扉の内側に、出迎えのために同じ服を着た使用人たちが整然と並び、一様に頭を下げている。まるで視線を合わせてはならないと教えられているように、何時までも顔を上げない使用人たちの中で、一人頭を上げ微笑みながら歩み寄る長身の男の顔を見て、ルキアは「檜佐木!」と声を上げた。
「お久し振りです、ルキアさま」
「本当に久しぶりだ……十日振りか?最後に兄様とお会いしてからだから」
物事の基準はすべて白哉に関係するそのルキアの物言いに、修兵は暖かく微笑んだ。
「はい、ルキアさま」
「兄様は如何お過ごしだ?相変わらずお忙しいのだろうな……」
淋しそうに呟くルキアは、目の前の檜佐木の表情を見て一変する。
「兄様……戻っていらしゃるのか!?」
「はい、先程からルキアさまのお帰りをお待ちです」
「最初に言え、莫迦者!」
先程までの淑女然とした様子をかなぐり捨てて、ルキアは広い屋敷に飛び込んだ。そのまま、ホールを突っ切り、螺旋状の階段を駆け上り、最上階の一番奥の部屋の前へと走る。
ノックをするのももどかしく、ルキアは「兄様!」と声を上げ扉を開いた。
「はしたないぞ、ルキア」
言葉は諌めるものだが、声は笑っている。奥の机の前に立つ兄の姿を認めて、ルキアは走りより抱きついた。
「兄様がお戻りにならないのが悪いのです。ずっと待っていたのに」
「そろそろお前が怒り出す頃と思い、帰ってきた」
「もう9日前から怒っています」
きっと強い顔を見せたルキアは、すぐに耐えかねて笑い出す。
「お帰りなさいませ、兄様!」
嬉しそうに抱きついたままのルキアの頭を撫で、白哉は頷く。その優しい手のぬくもりを感じながら、ルキアはうっとりと尋ねた。
「何時までここにいらっしゃれるのですか?」
「今日の夜にはまた出かけねばならない」
その言葉に、途端にしゅんとするルキアを抱きしめ、白哉は「すまぬ」と耳元に囁いた。
「夕食は共に出来る……それで許してくれないか」
「……ふたりだけで、シスレーの部屋で、でしたら」
「承知した」
抱きしめていた腕を解き、白哉はルキアの身体を離した。素直にルキアは白哉から離れる。
「お前にプレゼントも用意した。気に入るといいのだが」
「なんですか?」
興味を引かれてルキアは白哉を見上げる。ルキアの意識が、白哉がすぐに家を出てしまうということから離れて、プレゼントへと移ったことに白哉は微笑み、「まだ秘密だ」と囁く。
「夕食時に」
そんな白哉の言葉に、ルキアは不満そうな顔をする。元々、焦らされることなど普段の生活に無いのだ。ルキアにそんなことが出来る人間は、白哉意外に存在しない。
「兄様は意地悪です」
「そうだな、ではこれからもそのお前の期待に沿うようにしよう」
「嘘です、兄様は意地悪ではないです」
これ以上の意地悪は叶わないと思ったのか、ルキアは慌ててそう言い直し、「では、後ほど必ず教えてくださいね」と、ルキアは制服から部屋着に着替えるために部屋を出て行く。
その後姿を見送って、白哉は夕食の場所の変更を告げるために、机の上の電話を取り上げた。
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お待たせ(待っていてくれる人が少しでもいるのならば)しました!STAY第U章、ルキアの始まりですー!
この章から段々裏的になってまいります、ほら、大人だからもう!(笑)
兄様がごっつ優しいんですけど。いちゃつく兄様とルキアも書いてて楽しいです。
さてさて、今回1話しかアップ出来ずにごめんなさい。本当は3話くらいまで行く予定でしたが、ルキ恋祭りのページ作ってたら時間なくなった!
近いうちにまたアップしたいと思います。
それではv
2006.11.21 司城さくら