右腕にはめた時計の針をちらりと見てから、檜佐木は次の仕事の予定の時間と移動時間を頭の中で計算し、あまり時間に余裕の無い事に苦笑しつつ、己の車に向かって歩き始めた。
 檜佐木の後に、一斉に黒服の男達が続く。檜佐木の専属SPだが、檜佐木自身が相当の訓練を受けているので―――はっきり言ってしまえばこのSPたちの誰よりも檜佐木は強く、勘も鋭く、注意力も集中力も群を抜いている。故に、檜佐木は主である朽木白哉に「自分にはSPは必要ない」と言っているのだが、主は「弾除け程度の役には立つだろう」と微かに笑ってそう言った。それ以上主に意見する事も無く、檜佐木は常に自分よりも能力の劣るものたち、主曰く「防弾」の役にしかならない彼らに囲まれて、忙しく日々を過ごしている。
 一週間ほど前から、檜佐木の仕事は倍に増えていた。
 それは、主の仕事を代わって檜佐木がこなしている事に起因する。
 檜佐木の主の心は今、仕事などという瑣末な事に関わっている余裕は無いのだ。
 事が落ち着くまで、全てが主の希望通りになったとわかるまで、主は「それ」の側を離れないだろう。
 朽木コンツェルンの総裁、という立場の白哉の仕事は膨大で、それを代わって引き受けている檜佐木の、睡眠時間も限られるほどの多忙な日々も、檜佐木には苦ではなかった。
 二年前から、感情というものを一切失ってしまった己の主が、一週間前に「それ」を見たときに浮かべた表情を、檜佐木は誇らしく思い出す。
 主の感情を取り戻すことが出来たのは、今までの自分の仕事の中で、最大の功績だ。
 あの、冷ややかな無表情しか浮かべることの出来なくなった主の、「それ」を見た時の驚きから歓喜へと移り変わったその表情。
 そして、暫くの後、檜佐木に向かって「感謝する」と微笑んだ―――その主の言葉だけで、檜佐木は今現在のこの多忙さも全く苦にならない。
 自分の車に近付くと、SPたちは檜佐木の後ろから散開して、周囲の様子を伺う。不審なものは無いか、不審な人物はいないか。このビル自体のセキュリティは完全だ、だが何事にも完璧というものは在り得ない。
 SPたちは周囲の安全を確認し、檜佐木を後部座席に導くために一人がドアを開いた。恭しく下げられる頭を全く意に介さず、檜佐木は車内に入るために視線を動かした―――その瞬間。
 檜佐木の車の横に止められた、キャデラックのトランクが突然開き、中から黒い風が吹き上げる。
 檜佐木はトランクの蓋が跳ね上がった瞬間に、何者かが飛び出してくるのを驚異的な動体視力で視認していた。1秒前ならば、余裕でその襲撃を避けきれただろう、けれどその時、檜佐木は車内に入るために、体重を左足一本にかけていた。襲撃者は故意か偶然か、正に絶妙のタイミングで飛び出したということになる。
 弾除けになるはずのSPも、檜佐木の為にドアを開いていた―――つまり、SPと襲撃者の間には、ドアと檜佐木がいる。
 襲撃者は何の邪魔も無く、檜佐木一人に狙いを付けることが出来たのだ。それも、故意か偶然か。
 恐らく故意、完全に計算されたものだろう、と檜佐木は自分の目の前に在るナイフを見ながら確信していた。
「動くなよ」
 ぴたり、と檜佐木の喉元に光る銀の刃を突きつけて、恋次は檜佐木を睨みつける。
 一瞬にして殺気立つSPたちとは対照的に、檜佐木の顔には笑みが浮かんだ。面白くてたまらない、とでも言うように、完全なそれは笑顔だった。
「随分早い到着だ、少年。恋次と言ったか?いつか私に辿り着くとは思っていたが、まさかこんなに早いとは思わなかった」
「うるせえよ」
 周りのSPを牽制しながら、恋次はゆっくりと檜佐木を他のSPから引き離す。檜佐木は己に向けられた凶器に何の恐怖も感じないのか、楽しそうに―――岩崎の屋敷で初めて会った時と同じように、にこやかに話し続けている。
「あれから一週間―――今日、岩崎の家に行ったのだろう?そこで事実を知り、その足で此処を見つけたのか―――私を襲う手段も見事だ、こいつらよりも余程優秀。感心する」
「黙れっつってんだろ」
「その小柄な身体を利用して、隣の車に隠れたか―――確かに盲点だ、子供にしか出来ないな。以後、気をつけるとしよう」
「以後、ってものがあったらな」
 本気だと知らしめるために、恋次はその手に力を込める。切先が檜佐木の喉に食い込んだ。一筋の赤い血が流れ落ちる。
 途端、恋次に飛び掛ろうとするSPたちを「動くな」と静かに、強く怒鳴りつけたのは、恋次ではなく檜佐木だった。ぎろりと周囲の無能なSPたちを睨みつける。
「私が少年と話をしているのだ、邪魔をするな」
 そして檜佐木は、SPを完全に無視して「さて、何が望みだ、少年」と話しかける。
「ルキアは何処だ」
 強い瞳を正面から受け止めて、檜佐木はその瞳をどこかで見たことがあるとふと考え込んだ。
 ただ一つのものだけを想う、目の前の赤い瞳。
 その時は赤い色ではなかった。浮かべる思いの強さは同じ色、けれどその瞳の色は―――濃紫の、それ。
 
『私のあの方への想いは―――この程度で揺れるものではございません』

 檜佐木を睨みつけた、紫色の瞳。
 
『一度は諦めようと致しました―――けれど、如何する事もできなかった。想いが、魂が、私の存在全てが、あの方を想って、あの方を慕ってしまうのです。あの方がいなくては、私は生きている意味がない』

 その紫色の瞳と―――同じなのだ、この赤い瞳は。
 感慨深く見つめる檜佐木の視線に、苛立ったように恋次は刃を再び食い込ませた。ちりっと走った熱さに、檜佐木は過去から現在へと舞い戻る。
「ああ、ルキア……君の言う彼女はもう、何処にも居ない」
 事も無げに言われた言葉に、僅か、恋次の手にしたナイフの切先が揺れた。
 けれど直ぐに恋次は己を取り戻す。
「何処にもいない、だと?どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だ、少年。君の知る『ルキア』という少女は、この世の何処を探しても居ない」
「ルキアは死んじゃいない。ルキアが死んだら、俺にはわかる。何処に居たって絶対感じることが出来る、だからルキアは死んじゃいない」
 当然のように言われたその言葉は、恋次とルキアの絆の強さ、それを檜佐木に知らしめた。何の気負いも無くそう言える、その絆、その魂の繋がりは本物なのだろう。
 ならば、仕方がない。
 この少年は危険だ。
 危険は排除しなければならない―――主の幸せの為に。
「肉体的には死んでいない。けれど、精神的には―――如何かな?」
 少しずつ、檜佐木は身体の向きを変えていく。恋次に気付かれる事のないよう、時間をかけ、僅かに、少しずつ。
「精神的―――?」
「君の言う『ルキア』はもう居ない。何故なら―――その『ルキア』の記憶は、何もないのだから」
 恋次の赤い瞳が見開かれた。
 微かに、本当に微かに、恋次の手が震えているのを檜佐木の目は捉える。
「『ルキア』の過去は必要ない。有害なだけだ。だから消した、それだけの事。だから今居るのは―――いらっしゃるのは、『ルキア様』―――『朽木ルキア様』だけだ。お前の言う『ルキア』は消滅した、だから『ルキアはいない』と言った」
 恋次の呼吸が、速くなっているのが檜佐木の耳にははっきり聞こえる。そう、冷静に聞けるはずがないのだ。自分の愛する者が、自分を忘れたという事など。
「ルキア様は現在、朽木家の長女、白哉さまの異母兄妹として正式に朽木家の一員となっている。そんな彼女に、過去の記憶など最も不要なものだろう?確かにそれは『ルキア』の意思ではなかったが、我が主の意思だったものでね。主の意思は絶対だ」
 檜佐木は恋次を見つめながら、静かに、低い声で、はっきりと告げる。
「あの日、岩崎の家の窓から『ルキア』を見つけた時、私は神の存在を感じたよ。あれ程あの方に似ている少女がこの世に存在するとは思わなかった―――完璧だ。髪の色、瞳の色、仕草、声、何もかも。身体つきさえ、恐らくあと少し時が経てばあの方と同じになるだろう。完璧な、完全な『あの方』の複写。生まれ変わりというには計算が合わないが、そんな事はどうでもいい。重要なのは『ルキア』が『あの方』に酷似していた事―――それこそ、神の意志が働いているとしか思えぬほど。だから尚更、過去の記憶は必要ない―――だから、消した。執拗に、何度も。繰り返し。そして『ルキア』は今では何も覚えていない。赤子と同じだ、言葉さえわからない。けれど心配するな―――今、主が付きっ切りで『ルキア様』を見ている。言葉を教え、『ルキア様』の記憶を教え、そして全てを教えるだろう」
 もう少しだ、と檜佐木は思う。もう少し。
「最後の『ルキア』を、君は知る権利があるな―――いや、知らなければならない。『ルキア』は最後まで泣いて抵抗したよ。そして君の名前を呼んでいた。何度も、何度も。君の名前だけを。泣きながら」

 ―――恋次、恋次、助けて。

「恋次、と。助けて、助けに来て。此処から連れ出して、と泣いていた。怖い、早く迎えに来て、恋次。助けて、怖い、恋次、恋次、恋次……」
 驚愕に見開かれた恋次の瞳を真正面から見据えて、檜佐木はその言葉を口にした。
「―――君は現れなかったな」
 恋次の身体が、ふらりと―――常人ならば気付かないほど、微かに揺れた。
 けれど檜佐木にとって、その一瞬で充分だった。
 微かに揺れた恋次の手を掴むと同時に、その足を払い除けた。小さな子供の体はあっさりと回転し、恋次が気付いた時には、己の体は冷たいコンクリートの上で檜佐木に組み伏せられていた。
 何とか抜け出そうと激しく暴れる恋次の身体を、檜佐木は容赦なく押さえつけ、「残念だよ」と静かに語りかける。
「その年齢にして、その観察力、行動力、度胸、冷静さ、大胆さ、知識、知能。君は本当に有能だ。有能だからこそ―――生かしておけない」
 後ろ手に回された腕が、檜佐木の力で肘の関節に圧力がかかる。全身を駆け抜ける激痛に、それでも恋次は声ひとつ漏らさなかった。
「主とルキア様の幸せを邪魔する可能性が少しでもあるものは―――排除する」
 例の場所に連れて行け、と冷酷に檜佐木の声が暗い駐車場に響き渡り、恋次の身体はSPの手によって乱暴に引き起こされた。






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