平穏な時よりも不穏な時の方が、己の仕事が繁盛するという時点でもう真っ当ではないという事は明白だが、それが自分の身を置く世界の常識で、経緯は如何あれ最終的にこの世界に身を置きこの仕事をしていくと決めたのは自分だったから、男は己が太陽の下で堂々と胸を張れる人間ではないという事に自嘲の笑みを浮かべることは間々あっても、悔いる事は無かった。
男の仕事の評判は上々で―――男と同じ世界に身を置く者たちは、こぞって彼の元へとやってくる。男の扱うものは危険を伴うものだったが、この長い年月の間に築き上げた裏の社会の様々な繋がりが、彼の身を強固に護っていた。
男が売るものは形のある物ではなく、「情報」という価値を付けにくいものだ。ある者にとっては屑同然な情報も、別のある者にとっては自分の背丈と同じほどの札束を積んでも惜しくないものであったりする。そしてその商品は男以外にも扱っているものは多いが、男ほど正確な商品を売っているところは無く、男ほど豊富な商品を揃えている場所もまた無かった。
彼のその名と共に彼の性格も裏の世界では有名で、男は自分が気に入らないものには、どれほどの金を積まれても彼の情報を売ることは無かったし、逆に自分が気に入った者には、会話の中でさり気なくその情報を口にして、決して金を受け取ろうとはしなかった。
そして今、彼の目の前にいる赤い髪の少年は、彼にとって気に入っている者、否、それ以上に、まだ今よりももっと小さな頃から―――小さな、と言っても当時から少年の雰囲気は明らかに他の子供とは違っていたのだが―――見知っていたが故に、男は少年をことのほか可愛がっていたのだが。
「お前にそれを教える気はねえよ」
その言葉に、恋次はぎっと目の前の男を睨みつける。
「ふざけんな。金なら払うっつってんだろ」
「金の問題じゃねえんだよ、小僧」
岩崎を震え上がらせた恋次の視線も、恋次の7倍は生きている、その人生の長さと同じほどの時間をこの裏の世界で生きている男の表情を、僅かも変えることは出来ない。
「俺はお前を気に入ってんだ。教えたら死ぬとわかっている情報は、どんなに金を積まれたって教える気はねえよ」
一度は死んだと諦めていたのだ―――少年を拾った男が、自ら作った赤い血溜まりの中で滅多刺しにされて息絶えているのが見つかったのは、去年の12月24日。その日以降、少年の姿を見かけた者は誰もいなかった。故に男は、少年も共に殺されたのだろうと思っていた。少年の死体が見つからず、その情報も自分の元に入らないことは気になったが―――少年を拾った男の死体が打ち捨てられていたのは明白だ、それは「忠告」「見せしめ」という意味を持つ―――少年を拾った男が最後に関わっていた相手を思えば、それも当然の事だと諦めた。
それが、少年は今日突然男の元へと現れた。以前と姿は変わらず、以前よりも鬼気迫る雰囲気、まるで手負いの獣のような危険な雰囲気を身に纏って。そして開口一番、男に向かって言った言葉が「檜佐木修兵について知ってる事を全部教えろ」というものだった。
檜佐木修兵。
男には、確かに充分すぎるほどその情報がある。
だから男は、少年にそれを教える事は出来なかった。
「折角助かった生命だ、無駄にすんな。長谷川の仇討ちなんぞ考えるんじゃねえ」
男の言葉に、恋次の眉が顰められた。長谷川、という名前が何の意味を持つかわからず、数秒してから、自分を拾い育てていた男の名前を恋次はここでようやく知った。
「別にあのおっさんの仇を討つためじゃねーよ。別件だ。もっと……」
恋次の手がぐっと握り締められる。その拳が小さく震えている事に男は気付いた。その理由が、恐怖からではなく怒りからだと知って、男は深く溜息を吐く。
ここで自分が檜佐木修兵について何も話さなかったら、少年は誰彼構わず片っ端から檜佐木修兵について聞き回るだろう。そしてそれは遠からず檜佐木修兵本人の耳に入り、少年は直ぐに長谷川の後を追うことになる。
結局危険は変わりない……それならば自分が、どれだけ少年が危険なものを相手にしようとしているか、それをきちんと解らせた方がまだ少年の安全の為かと男は悟る。
それでも暫く口を閉ざし、少年の気が変わらないかと男は様子を伺っていたが、少年のきつい眼差しに諦めの溜息をもう一度吐き、男は重い口を開いた。
「朽木財閥を知っているか」
恋次は当然だろう、と右の眉を跳ね上げる事でその答えを男に伝える。
この世界に僅かでも身を置いたものならば、その名前―――一般の人間の知る意味とは違う意味で有名なその名前を知らないはずはないのだ。
朽木。
その名の持つ意味は―――「支配者」。
表の顔は、銀行を有し、事業を拡大し様々な分野に裾野を広げ、多数の企業を傘下に加え、その名を世界に知らしめる資産家。
そして―――その裏の顔。
豊富な資金を抱え、容赦なく邪魔者を排除してゆく―――裏の世界の独裁者。
そこは、決して手を出してはいけない領域なのだ。手を出したら最後、待っているのは長谷川と同じ運命だけだろう。だから長谷川は必要以上に残虐なやり方で生命を奪われ、無造作に道端に放り出されていたのだ。朽木に手を出すものはこうなる、という見せしめの為に。
「檜佐木修兵は、その朽木家の現当主―――朽木白哉の右腕だ」
その言葉を受け止めた時の、少年の表情を男はじっと見つめていた。
―――恋次の表情は、変わらなかった。
挑む目付き、怒りのオーラはそのままに。
「朽木白哉が朽木家の跡を継いだのは2年前。前当主は爆発事故―――恐らく殺されたんだろうがな―――で突然死んだ。それで跡を継いだのが当時19歳の、朽木家の長男だった白哉だ。若すぎる当主に周りの人間は朽木家の天下は終わると思ったものだが、それ以降、朽木家は更なる力を付け、その地位は強固になった。その原因は朽木白哉の力も勿論だが、この檜佐木修兵の力も大きい。幼い頃から朽木白哉の身を護っている所為で、朽木白哉からの信頼も絶大だ。あの顔の傷、あれも朽木白哉を護って付いた傷らしい。頭は切れるし腕も立つ。そんな、裏の世界の頂点にいる男の右腕相手に、たかが小僧のお前が一体何をするって言うんだ」
いくらなんでも、この話を聞けば少年の気も治まるだろう―――そう確信して少年の目を見つめた男は、思わず「お前は馬鹿か」と激昂した。
「如何にかなる訳ねえだろうが!檜佐木と何があったか知らねえが、お前が手を出していい領域じゃねえぞ!」
「檜佐木修兵が現れる場所、そこを教えてくれよ、おっさん」
「……馬鹿か、お前は」
死ぬぞ、と告げる男の声に、恋次はただ笑っただけだった。
壮絶な笑み。
死さえ厭わない、そんな無謀な笑みを。
「あいつを取り返す。約束したんだ、迎えに行くってな」
それ以上は何も言わず、恋次は「教えろよ、おっさん」と静かに強く問い質し―――
恋次は望む情報を手に入れた。
ルキアへ近付く、その情報を。
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