「―――恋次くん?」
 遠慮がちに掛けられた声に、恋次は手元の本から顔を上げて背後を振り返った。
「先生」
「もうすぐ12時よ?そろそろ休まないと身体に悪いわ」
「ああ、もうそんな時間か―――」
 苦笑して恋次は本を閉じた。ぱたん、と乾いた紙の音が、寝静まった教会の空気を震わせる。
 一度大きく伸びをしてから、恋次は机の上に広げられたノートや鉛筆を片付け始めた。
 ルキアが岩崎家の養子として引き取られてから、恋次は毎夜遅くまで一人勉強を始めていた。このまま何もしないでいては、何の解決にもならない。直ぐに迎えに行く、と約束したのだ。それに向かって努力をしなければ物事は先へと進まない。何をしていいのかわからない。けれど何かをしなくてはならない。
 知識は無いよりも在った方が確実に良い。とりあえず恋次は学校に行く事を目標とした。奨学金を受けられる学校の試験を受け合格する事が目標だ。
 ルキアが去って次の日、岩崎の代理の人間が教会へとやって来て、抵当に取られていた土地の法的手続きを済ませていった。これで名実共に教会はシスターだけのものだ。もう必死に金を稼ぐ事はしなくていい、穏やかな生活、本来あるべき生活へと戻っていった。
 本来あるべき生活―――否。
 本来あるべき生活は、ここにルキアが居る事だ。
 はやくその生活に戻る為に、恋次は力をつけなくてはならない。
「ごめん、先生。俺が起きてた所為で休めなかったんだろ?」
「私は大丈夫だけど―――恋次くん、恋次くんはちゃんと休んでるの?」
「休んでるよ?」
「そう?ならいいのだけど……」
 推し量るように恋次を見詰めるシスターに、「じゃ、お休み」と声をかけ、恋次は立ち上がった。
「明日、何時に?」
「そうね、あまり早くに行っても……1時過ぎに着くように出かけましょうか」
「わかった」
「ルキちゃん、きっと明日を楽しみに待ってるでしょうね」
 そう言うシスターが、明日という日を待ち侘びていたのだろう、幾分声が弾んでいる。
 そして、待ち侘びていたのは恋次も同じ。
 明日は岩崎家へ、ルキアに会いに出かける日だ。
「じゃ、ゆっくり休んで……明日は遅く起きて構わないから、良く眠ってね」
「ありがとう。お休み、先生」
「お休みなさい」




 ルキアのいないベッドは、とても冷たく感じられる。
 やはりルキアの案じた通り、恋次は眠る事が出来なくなっている。横になり目を瞑っても、眠りに落ちることができない。
 今日も暗闇の中、何とか眠ろうと目を閉じたが叶わず、早々に諦めて恋次は宙を見据えた。
 耳に残っている、ルキアの幼い声。


 『 待てど暮らせど 来ぬ人を 』 


 何という歌なのだろうか、題名も知らないその歌を、毎夜歌ったルキアの声。


 『 宵待ち草のやるせなさ 』


 護っていると恋次が思っていたルキアの方が、より恋次を護っていたのかもしれない。


 『 今宵は月も出ぬそうな… 』


 恋次、と耳元で声がしたような気がして、恋次は微笑んだ。
 僅か一週間、それでもこんなにお前に会えなくて辛いと、明日伝えたらルキアは何と言うだろうか。
 また泣くかもしれない。それとも呆れて笑うだろうか?
 ルキアは変わっただろうか。少しは向こうの生活に慣れただろうか。
 知りたい事がたくさんある。
 知らなければいけないことが山程ある。
 
「もうすぐ会えるぞ、ルキア」

 お休み、と瞼に浮かぶ愛しい少女に優しく囁き、恋次は目を閉じた。 






 はやる気持ちを何とか抑え、街までの道のりをシスターと共に歩いた。
 途中、通りかかった店で赤いヘアバンドを買った。
 ずっと赤を身に着ける、といったルキアの為に。
 子供のような自分の感情に呆れ返る。それでも会えるという喜びは、隠しようがなかった。
 見覚えのある道を通り、見覚えのある門をくぐり、見覚えのある屋敷を目にして、聞き覚えのある呼び鈴の音を聞き、見覚えのあるお仕着せに身を包ん女性が導くままに玄関に足を踏み入れ。
 違和感に恋次は足を止めた。
「恋次くん?」
 不思議そうな声のシスターに曖昧な表情を向け、五感は違和感を探る。
 先日、一度だけ足を踏み入れたこの屋敷、その時と一体何が違うのか。全神経を集中させて恋次は辺りを見回した。
 ―――何も変わらない。
 変わった場所は何もない。人も調度も空気も雰囲気も、何もかもが先日と変わらない。
 ―――そこで恋次はようやく気付いた。


 変わっていない、のだ。


 ルキアという新しい家族が増えたにもかかわらず、何の変化も此処には無い。
 幼い少女の存在が、この屋敷の何処にも感じられない。
 突然湧き上がった胸の内の不安を吐き出す前に、恋次たちは応接室へと通された―――以前と同じ、赤を貴重とした大きな部屋。
 ルキアの姿は―――無かった。
 ソファに座るのは、当主である岩崎だけ。
 幾分目を伏せ、気まずそうに立ち上がる岩崎の姿―――だけ。
 恋次の不安は、焦燥に変わっていく。
 ―――ルキア。
 会いに来たぞ、早く姿を見せろ―――この不安は思い違いだと、早く安心させてくれ……。
「……岩崎さん?ルキちゃ……ルキアちゃんは」
 戸惑うシスターの声に、岩崎は「まあ、とりあえずお座りください」とソファを指し示し、傍らに控えていたメイドが直ぐにお茶を淹れ始めた。
 部屋中に香るふくよかな琥珀色の香りも、恋次には意識の外にあった。
 何故、ルキアは現れない。
 何故、ルキアの気配が此処にない。
「実は―――謝らないといけない事があるんです」
 言い難そうに、人の良い顔をした壮年の男はそれでもようやく口を開いた。
「ルキアちゃんはうちには居りません」
「居ない―――え?」
 シスターはその言葉の意味を飲み込めずに、目の前の岩崎の顔をじっと見詰めた。そのシスターの視線を受け止める事が出来ずに、岩崎は汗を拭きながら視線を僅かにずらした。
 そこに、赤い色を目にして―――大の大人、大の男である岩崎は思わず息を呑んだ。
 まるで、炎と見紛うような―――赤い瞳。
 罪を暴くようなその瞳。
 罪を裁くようなその紅。
「…………」
 口の中が乾く。魅入られたように動けない。それまで気まずさから流れていた汗は、全て一瞬にして冷たい汗に変化した。
「岩崎さん?ルキアちゃんが居ないって―――謝らなくちゃいけないことって、どういうことですか」
 動揺するシスターの声にようやく我に返り、岩崎は全神経を使って、目の前の赤い色から視線を外した。
 それでも、赤い色の視線は突き刺さる。
 それは物理的な力を持って。
「岩崎さん」
 何も言わない……何も言えない岩崎に焦れて、シスターは身を乗り出した。テーブルの上の高価そうなティーカップが、受け皿に当たってがちゃんと派手な音を立てる。
「ルキアちゃんは―――ここにはおりません。最初から―――そう決まっていたのです。あの子を引き取りたいと言ったのは私ではありません。私はただの代理に過ぎない」
「そ―――そんな!そんな事―――それじゃ、ルキアちゃんは―――そんなのただの誘拐じゃないですか!騙して、隠して―――如何して!ルキアちゃんは何処ですか!返してください、こんな事認められるはず無いでしょう!!」
「いや、ルキアちゃんはきちんとした家に居ます。うちとは比べ物にならない程……比べようも無い程。あの一族に比肩できる家など在る訳が無い。それ程の身分の方が、ルキアちゃんを引き取りたいと―――だから、あの子も幸せな筈です、シスター」
「そういう問題じゃないでしょう!!」
 シスターの声は悲鳴のようだった。広い豪奢な部屋の中を、高い声が空気を切り裂く。
「何故、騙すような事を―――いえ、実際に騙して!誰ですか、誰がそんな事を……っ!」
「それを知られたくないから、あの方は私を通してルキアちゃんを引き取ったのですよ。周囲にあの方とあの子に血の繋がりが無い事を知られないために。戸籍上は異母兄妹として、ルキアちゃんは一族に加わった。今ではあの子は、私でもお目通り叶わない程の身分になっているのですよ、シスター」
 だからルキアちゃんは幸せです、私のところに居るよりも―――そう、説得するように岩崎は告げた。
「あの方のお力で、今後は貴女の教会も、寄付が途切れる事はないでしょう。寄付を受けに街を歩き回らなくとも、余裕ある生活が出来ます。私があの方の窓口となります、ただ、ルキアちゃんに会うことは許されません。あの子はもう―――過去とは関わらせない、と」
 身体の力が抜けて、シスターは呆然とソファに崩れるように座り込んだ。
 全て最初から仕組まれた事。
 この一週間の間に、ルキアは手の届かない場所へと行ってしまった。
 抜け殻のようにただ座るシスターの耳に、
「―――あの野郎だな」
 静かな声がした。
 それまで一言も発せず、石のように動かなかった恋次の口から、この屋敷に来て初めて言葉が発せられた。
「あの男―――あの時、この場所に居たあの男―――」
 



 檜佐木、修兵。




『私は本日、偶然貴女に出逢った事も一つの運命だと思うのですよ』

 「貴女」とは―――ルキアの事だった。
 あの時から、この計画はあの男の頭に描かれたのだろう。
 ルキアを―――手に入れるという、その計画。
 恋次は立ち上がると、一瞬にして目の前の机を飛び越えて岩崎に掴みかかった。その動きの俊敏さに、岩崎は逃れる間もなく、恋次に胸倉を掴まれた。
 子供の力、と侮れないほどその力は圧倒的だった。否、力は子供のものだった。ただ、使い方が―――何処をどう押さえれば人は動けなくなるか、それを熟知してるが故に、子供でも大人の動きを封じ込める事が出来るのだ。
 ぎりぎりと恋次は岩崎を締め上げる。容赦なく、躊躇なく。
 呼吸が出来ずに、顔に苦悶の表情を浮かべる岩崎を無表情に見下ろして、恋次は淡々と呟いた。
「あの男の居場所を教えろ」
 炎のような瞳に射抜かれて、その無表情な顔と真逆の全身を包む怒りの凄まじさに押されながら、それでも岩崎は首を横に振った。
「言っても到底子供の行ける場所じゃない」
 首を締め付ける力が、更に強くなる。
 それでも、岩崎は檜佐木の居場所を口にしなかった。それがルキアへ犯した自分の罪の償いとでもいうかのように。
「―――このままあの子のことは忘れた方がいい。それが君にも、ルキアちゃんの為にも一番いいことだ」
 不意に戒めから開放されて、岩崎はソファの上に崩れ落ちた。ぜいぜいと鞴のように喉が鳴る。肺が、体中が空気を求めてあえいでいる中、恋次は立ち上がって扉へと向かった。
「恋次くん!」
「ルキアを取り戻す」
 ちらりとシスターを見遣って、恋次は安心させるように微笑んだ。
「絶対取り戻す。―――それまで、帰らない。心配しなくていいから、先生」
「待っ―――」
 引き止めるシスターの声は、恋次の耳には既に聞こえない。
 耳に聞こえるのは、ルキアの声。
 目に浮かぶのは、最後に見た笑顔。
 泣きながら、恋次のために微笑んだその笑顔。


 『 待ってるよ、恋次 』


 はやく会いに来て。
 はやく迎えに来て。


「迎えに行くぞ、ルキア……!」


 恋次は檜佐木を求めて走り出した。
 赤い焔と身を変えて。







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あとがき書く暇がなかった(笑)
後日追加しますー。

2005.12.17  司城さくら