一番最初の記憶は、辺りに飛び散った赤い色だった。


 それ以降の記憶も振り返ってみれば似たようなもので、モノトーンの景色の中に色付いているのは唯一色、血の色の赤。
 どうしてこう血の色というのは、こんなにも鮮やかに目に入り込み魂に映りこむんだろう、と少年は考える。
 特に今日は血の色が濃い―――そう考えて少年は、しんしんと降り積もる雪にようやく気が付いた。
 白い雪に赤い色。
 成る程それは映えるというものだ。
 少年の目の前―――厳密に言うのならば少年の足元には、男が倒れ伏している。その男の身体の下からは、一目でこの男が助からないだろうと万人が視線を逸らすほどの、夥しく大量の赤い血が流れ―――否、流れ切って動きのないそれは、赤い川ではなく赤い池を作っている。
 その赤い池に浮かぶ男の名前を、少年は知らない。
 それでもこの三年の間、共に暮らしていた男だった。身寄りもない少年に家を与え技能を教えてくれたのは紛れもなくこの男だった。
「―――随分とまあ、あっさり死んでくれんじゃねーか、おっさん」
 少年の吐き出す言葉は、この空気のように冷たい。この雪のように冷たい。
「死んだ方は簡単でいいよな。だけどよ、俺の迷惑も考えろっつーの」
 そこには、男の死を悼む心は感じられない。
 感情も温度もない声で少年はそう吐き捨てると、舌打ちをしてくるりと赤い池に浮かぶ男に背を向けた。
 そして一顧だにすることなく、少年は後も見ずに歩き出す。
 その背後で雪は透き通った音を微かに響かせながら、赤い色を覆い隠そうと後から後から降り積もって行った。


 
 少年には家族というものが居なかった。
 自分が誰から産まれて何処で生まれて、どのように育ったのかはわからない。
 一番最初の記憶にある色は、赤。
 目の前に飛び散った赤い色。その真中で倒れている誰か。いや、誰か達。
 もしかしたら、その誰か達が自分の家族だったのではないかと思うこともあるが、今更それを証明する術もない故に少年は考える事を放棄する。
 兎も角少年はその赤い色の前で立ち尽くしている所を発見され、何もわからないままに放り込まれたのが「施設」だった。
 身寄りのない子供を育てる、国営の救護院。
 そこで少年は数年を過ごす。
 そこで学んだのは、生きる為には躊躇をしない、という事だった。実際そこは酷い場所で、数多くの子供達が集められ、ただ「生かされて」いた。人間らしい生活を望むことなど出来ず、強いものが弱いものを捻じ伏せる、純粋な力の世界。弱いものはただ倒れていくしかない、弱肉強食の世界。
 大人たちは何もしない。何処も不景気なのだ、だから捨てられる子供も増える、犯罪に巻き込まれ孤児になる子供が増える、犯罪を犯した親の子供が増える。そうして増え続けていく子供を世話する為の国からの給付金は年々減る一方で、つまり施設としては食い扶持が減っていくのは歓迎すべき出来事なのだ。元々身寄りがないから集められている子供たちのこと、何かあっても誰からも文句は来ない。そして子供が減った後も、さも生存しているように細工すれば―――簡単なことだ、国に提出する書類に人数を水増しすればいいだけの事なのだから―――大人たちの懐に流れる金も増えるという寸法になっている。
 その世界から逃げ出したのが6歳の頃―――勿論誕生日などないから、便宜上勝手に作られた誕生日で機械的に年を取っていただけだ。だから本当の年齢は少年にはわからない。ただ、書類上は6歳の時に、少年は施設を抜け出した。管理され虐げられる毎日が許せなかったからだ。
 不思議と、自ら死を願う事はなかった。
 少年の心にあるものは「怒り」だった。
 何故、世界はこんなにも不平等なのか。
 何故、世界はこんなにも汚れているのか。
 何故、世界はこんなにも救いがないのか。
 よく「神さま」という言葉を聞いた。施設で、同じ年頃の少年が、夜狭く汚い部屋の冷たい布団の上で、両手を組んで小さく呟いていた。「神さま、神さま―――助けて下さい、助けて下さい……」何度も呟くその声は悲壮で悲痛だった。
 けれどその少年は、施設を力で支配していた男―――少年とはもう言えないほどの、背と力の大きい男の暴力によってあっさりと命を奪われた。ただ、少年の動作が人より遅いという、それだけの理由で理不尽に振るわれた暴力によって。
 例の如く大人たちは何も見ていない振りで、この時は正しく国へと報告した―――「病死、一名」。
 「神」はいるのか?
 それならば何故、あの、本当に助けを求めていた少年の声を聞かなかったのか。本当に救いを求めていた少年の願いを聞き入れなかったのか。
 神なんて居ない。
 居たとしても、それは救ってくれる訳じゃない。
 少年の、決して迎合しないその態度が、施設で目立ち始めていた。日を追うごとに少年への暴力が激しくなる。
 けれど少年は決して頭を下げる事はしなかった。
 心に在るのは、怒り。
 頭を占めるのは、悔しさ。
 少年は決して自らの死を―――唯一楽になる方法を、決して選ばなかった。
 死が怖い訳ではなく、少年は、
 ―――負けたくなかった。
 自分を取り巻くすべての物に。
 自分をこの状況に追い込んだ、運命というものに。
 ―――若しくは、神、に。
 自ら死を選ぶ事は、それらに負けを認めることだ。
 だから少年は、自分を取り巻く世界から抜け出した。自分の意思で、自分の力で。
 けれど、金も力もない少年が一人で暮らして行ける訳もない。食べる物すらなく、路上に倒れていた少年を、救け起こした男が居た。
 男は少年を自分の家へと運び、少年の身体が回復するのを手伝った。
 男は親切心から少年を救ったわけではなかった。ただ、子供を連れていた方が男の仕事がはかどるというだけの事で、だから身寄りのない少年は丁度いい具合に現れた、男にとって都合のいい道具でしかなかった。
 それでも男は少年に、生きるための様々な事を伝えてくれた。それは、普通に生きる上では必要の無い、闇の部類の知識だったけれど。
 人の騙し方、金の儲け方、高価なものを見分ける目、人となりを瞬時に見抜く観察眼。
 女のあしらい方、悦ばせ方も教わった。少年は幸か不幸か、整った顔立ちをしていた―――故に、その顔と身体は商品にもなったのだ。
 この荒んだ世界に、金と時間を持て余した女は腐る程居た。金で子供を買うのに何の抵抗もないその女たちに少年が気に入られれば、それはかなり重要な金蔓となるために、男は様々な寝所の知識を、まだ子供の少年に与えた。
 そして、人の殺し方。
 男がナイフを振るう。
 パッ、と飛び散る赤い色は、少年の記憶の中の色と同じ赤。
 けれど少年は淡々とその色を見据える。
 感情などなく、ただ冷たく、雪のように氷のように冷えた目で、少年は世界を見る。
 男は少年を連れて仕事をした。少年の役割は、子連れという事による、相手に警戒心を持たせないための小道具。
 男は裏の世界では、結構名前の知られた男だったらしい。確かにその知識は豊富だったし、教えられた人を殺める技術も、無駄のない確実なものだった。
 ナイフの刃は、地面と平行に持つ。そうすれば肋骨に邪魔される事なく奥まで刺さる。
 柄まで深く刺し通し、そこで刃を回転させれば、相手は声も立てずに絶命する。
 血の飛び散らない殺し方。
 一撃で殺せる急所、逆に一撃では死なない場所。
 少年は無表情にそれらを習得していく。
 負けないために。
 運命に。
 この世界に。



 ずきりと腹部の傷が痛んで、少年は舌打ちをした。
 身体はとうに限界を超えている。ここ数日、男と共に逃げ回る生活だった故に、ろくに食料もとっていない。
 その上、この刺し傷。
 男がどんなヤバイものに手を出したのか、少年は知らない。ヤバイ物なのかヤバイ者なのか。ただわかるのは、その何かに手を出したために男は殺され、一緒にいた自分も襲われたという事だけだ。
 身が男より軽かった分、少年は突然襲い掛かった刃物から身をかわす事が出来た。けれど完全に、ではなく、その刃先は少年の腹をかすめていた。
 それでも少年は苦痛に呻くことなく、自分が避けたためにバランスを崩した襲撃者の足を薙ぎ払い、そのままその場から走り出した。この傷では機敏に動きようもない。子供の自分には、不意打ちや速さでしか、大人とは渡り合えないのだ。そのどちらも封じられた今、少年は逃げる事だけに専念した。それが功を奏したのか、単に襲撃者の狙いは男だけだったのか、少年にそれ以上追っ手がかかることはなかった。
 暫く隠れて様子を見た後、その場所に戻った少年が見たものは―――共に暮らしていた男の、切り刻まれた死体だった。
 感慨もなく少年は冷たく見下ろして、傷口を押さえて歩き出す。
 行く当てはない。
 身体は出血のためにどんどん重くなっていく。
 よろけた足が絡まり、地面へと倒れこんだ。そのまま起き上がれずに、少年は壁に背を預け、せめてもと上半身を起こす。
 これで、終わりか。
 吐く吐息が、白く変わるのをぼんやりと眺めながら少年は思う。
 何もないまま、何も心に残さないで俺は―――死ぬのか。
 綺麗な世界を見ることなく。
 なんて世界は不公平。
 それに異を唱えた者の末路が、今の俺って訳かよ?
 指先が冷たくなっているのがわかった。もう、末端に届く血も無いという事か。目の前の景色も霞んでゆく。こうして人は死んでいくのか、と少年は冷静に自分を見ていた。
 その耳に、音が聞こえた。
 鈴の音のような、透き通った銀の音。高く細く、儚く美しく。
 その静謐な音を耳にしながら、少年は「おいおい、違うだろ?俺は天国になんて行けねえっつーの」と呟いた。
「天使の迎えなんていらねーよ、俺が行くのは―――」
 頬に手が当てられた。
 その暖かさに驚いて目を開ける。
「ねえ、どうしたの?ねえ、血が出てるよ?」
 霞んだ目に映ったのは、黒い髪の小さな少女だった。
 その少女が、ぽろぽろと涙をこぼして少年に話しかける。
 その時少年が感じた、既視感は何だったのだろう。
 見つけた、という思い。
 ようやく逢えた、という胸が張り裂ける程の幸福感。
 けれど少女は、「ねえ、大丈夫?大丈夫?」と、小さな手で傷口を押さえながら泣いていた。
 何でお前が泣くんだよ、莫迦じゃねえの?
 そう口にしたつもりが、言葉にはならずに少年は意識を失った。
 その直前、先程耳にした透明な音がこの少女の声に似ていたなと、どうでもいい事に気づいた自分に呆れながら。 





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