全身に感じる気だるさに、恋次は唸りながら身体を反転させた。
 寝起きの頭は、何かに対して違和感を感じるが、それが何に対して感じている違和感なのかわからない。
 全身が虚脱したように感じるこの疲労は一体何だ、と霞がかった頭を振りながら、恋次は目を開けた。
 恋次の目の前で、黒い毛糸玉のような小さな猫が哀しげな声で鳴いた。
「ん……お前、何で泣いてんだ?」
 ひょい、と腕の中に抱き込んだ小さな猫は、それでも哀しそうに鳴き続ける。
「如何したんだよ、お前……お前?名前……なんだっけか」
 頭の中がどうもはっきりしない。何故、2ヶ月も一緒に居る飼い猫の名前が思い出せないのか。
「ええと……ああ、そうだ。『ルキア』だ」
 そう、自分は逢えなくなったルキアの名前を、この小さな猫につけたのだ。
 女々しい奴だな、と恋次は己を笑う。
 あの日、真央霊術院で、朽木家にと請われたルキアを後押ししてから、一度も会えぬまま時は過ぎていく。
 ルキアは幸せだろうか。
 過去に想いを馳せる恋次を見て、にゃあ、と哀し気に仔猫は鳴く。
「ルキア……離れたら駄目だろーが」
 仔猫は腕の中に居る。
 それなのに恋次は無意識にそう呟いていた。
「あ……?何言ってんだ俺」
 離れるんじゃねえよ。
 無意識に何度も口に出る言葉は何故かその言葉で、恋次は途方に暮れたように「ルキア」を抱きしめる。

 数刻前の「ルキア」と同じように。
 

















「如何しました、ルキア様」
 自分付きの少女に声を掛けられ、立ち尽くしていたルキアは我に返った。
 そのルキアの様子に、少女は一瞬訝しそうに眉を顰め、次いでルキアの手の中に在る小さな箱に気付き視線を移した。
 蓋の開いたそこには、首飾り―――否、銀の鎖に通されたリングだ。ルキアは再びそれを見て何処か茫洋としている。
 ルキアが少女の視線に気付いていないことを幸いに、少女はそのリングを仔細まで眺めた。
 それは、朽木家の者が持つにはあまりにも安物過ぎる。飾り気の殆どない、リング自体も恐らく銀だろう。如何考えても「朽木」ルキアが身に着けるものではなかった。リングよりもこのリングが収められている箱の方が、何倍、いや何十倍も高価なものだろう。
「これは……一体」
 ぽつりと呟かれた言葉に、少女は「ルキア様の物ではないのですか?」と尋ね返す。するとルキアは側に人が居た事をようやく思い出したのか、ばつの悪そうな表情を浮かべた。
「私の……なのだろうか。私の机にあったのだから多分そうなのだろうが……覚えがないのだ」
「覚えがない?」
「ああ」
 箱自体には覚えがある。最初にこの部屋を与えられた時から机の中にあったものだ。美しい細工が施された、恐らく高価な、この箱ひとつで戌吊で何年も豪勢に生活できるであろうその箱に入れるに値するものをルキアは何一つ持っていなくて、それは長らく机の奥にしまわれ続けていたはずなのに。
 今日、何気なく蓋を開けたときに、中から銀の鎖につながれたリングが出てきた。
 それが一体どうやって自分の手に渡ったのか全く覚えていない。ただ、鎖を外し指につけると―――左の薬指にぴたりとはまった。
 これは私のものなのか?
 この箱に入れたのは一体誰?
「捨てられますか」
「え?」
「ルキア様のご存じない物がいつの間にか机の中に在るのは気分の良いものではないでしょう。処分された方が良いのではないでしょうか」
 少女は表情を変えずにルキアを見つめる。
 覚えのない指輪。
 けれど、この指輪を見たときに、何故だかルキアは泣きそうになったのだ。
 嬉しさと哀しさとが一気に胸に込み上げた。
 はやく。
 胸の中で、意識せずに浮かび上がった言葉は唯一つ。
 はやく、早く私を迎えに来て。
 その言葉の意味も、ルキアには全くわからなかった。
 ―――誰が誰を迎えに来るというのだ?
 ―――私にはそんな者は居ない。
 ―――過去も今もこの先も、この静かな屋敷で……私はずっと独りきりだ。
「ルキア様」
 少女が手を差し出した。中の物を渡せ、という事なのだろう。
「いや―――」
 ぱたりとルキアは箱の蓋を閉じる。
「私のものであることは、どうやら間違いない。……その内きっと思い出すだろう」
 そしてそれは再び机の奥へと仕舞い込まれた。
 微かに残っていた記憶の欠片と共に。













 




 そして時は静かに流れる―――……




























 

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