『どうしました?お嬢サン』
 場違いに明るい声に、緋真はゆっくりと目を開けた。
 目の前に、この世界に来て初めて見たといってもいい、綺麗に折り目の入ったこざっぱりとした着物を着た男が緋真を覗き込んでいる。
 顔はよく見えなかった。帽子を目深に被り、陰になってその表情はよく見えない。
『お腹空いてるんスか?これ、食べます?』
 差し出された果実を、緋真は目を見開いて見つめた。この数日、何も、水さえ口にしていない。喉は渇ききってからからだ。突然目の前に差し出された瑞々しい果実に、緋真は何も考えず、本能のままその果実を口にした。
 男はそんな緋真を黙って見つめ、食べ終えた緋真は、小さく息を吐き出した。そして、腕に抱く妹の存在に気付き、自分ひとり渇きを癒した己の浅ましさに自らを恥じた。
『申し訳ございません、もしもうひとつ頂けるのでしたら、妹にもくださいませんか』
 恐る恐るそう尋ねると、男は『取引しませんか、お嬢サン』と気軽な調子でそう言った。
『取引?』
 緋真は身体を緊張させた。やはり此処は、善意を信じてはいけない場所なのだ。生きるためには手段を選ばない世界。
『ああ、そんなに身構えなくて構いませんよ。アタシは悪い奴じゃありませんから』
 しゃあしゃあとそう男は言った。そして更に緋真の腕の中で眠る小さな赤子を覗き込み、言う……『その妹さん、アタシに育てさせてくれませんかね?』
『何を言ってるんですか?』
 睨み付ける緋真に、男は『ああ!』と声を上げた。『まるでアタシが変態みたいな言い方をしてしまいました』懐から取り出したのは扇子だ。それを開いてぱたぱたと扇ぎはじめる。
『アタシは怪しい者じゃないんですよ。アタシは瀞霊廷に住んでるんですがね……つまり死神。ご存知ですか?死神。瀞霊廷』
 その単語は、この世界に来たばかりの緋真も聞き知っていた。
 瀞霊廷は、こんな治安の悪い場所ではなく、そう、まるで緋真がつい先日までいた世界―――生きていた世界、死後の世界ではなく、人間の住んでいる世界と同じように秩序のある世界だと。そしてそこに住まうには死神にならなくてはいけないのだと。
『ほら、これが証拠』
 そうして見せられたのは、白い紐が付けられた、薊の絵の入ったものだった。『わかります?護廷十三隊の証です』
 話の見えない緋真を置いて、男はどんどん話を進めていく。
『アタシは今、どうしても子供が必要なんです。小さな……赤子であれば申し分ない。今あなたが腕に抱いてるようなね。アタシに子供がいれば問題ないんですが、如何せんアタシは独身でしてね、子供はいないんですよ。で、取引です』
 男は初めてその表情を緋真の前に曝した。
 軽薄な話し方とは想像もつかない、真剣な表情だった。
『アタシはこの子を引き取りたい。この子が一人で生きていける年齢になるまで、アタシは責任持ってこの子の面倒を見ましょう。この子が私の元から離れる時まで、決して死なせません。暖かい家、食料、水、全て欠かす事無くこの子に与えます。そしてあなたはというと、この子という足枷がなくなります。この世界、女一人生きていくのも大変なのに、こんな赤子を連れて生きて行ける筈は無いと悟ったでしょう』
 それは、本当だった。
 現世で命を落とし、送られたこの世界は、あまりにも過酷な世界だった。
 弱肉強食。
 その一言が全てを表す。
 この世界では弱い物は生きては行けない。
 実際、この世界に来て数日、命の危険にあった数は片手の指の数では足りない。
 そうして、このままでは飢えと渇きで死んでゆくことも間違いなかった。先程この男が現れなければ、間違いなく3日後にはこの場所で息絶えている自分と妹がいただろう。
『そう、この世界はあまりにも生きていくことが難しすぎる。だから、』
 男の声が、静かに響く。




『取引しましょう、お嬢サン』





 緋真には頷く以外、生きる道は無かった。





















「―――私は、白哉さまに愛してもらう資格のない女です……」
 泣きながらそう呟く緋真の声は、悲痛だった。
 あの後、何度も男を捜した。たった一人の妹を、自分が護らなくてはならない筈の小さな命を、見ず知らずの男に委ねてしまった。
 後悔、という言葉では足らない。
 己を責めない日はなかった。
 自分は妹を、己の生命の安全のために売ってしまったのだ。
 瀞霊廷に居るという男の言葉を思い出し、緋真は必死で上層の界を目指した。瀞霊廷に近付けばあの男に会える。妹、ルキアに会える。己の犯した罪を贖うためならば、緋真はどんな苦労も厭わなかった。
 女が独りで生きていくことさえ難しい世界で、緋真は妹をもう一度手にするために歩き続ける。
 ようやく1区に辿り着き、緋真は毎日雑踏の中にあの男の姿を探す。
 妹を見つけるまでは、自分が幸せになる事は許されないと自らに戒めた。
 けれど男は見つからず―――時は流れ、緋真は白哉と出逢った。 
 生きていくため、ルキアを見つけるために1区の店―――それは瀞霊廷の貴族がお忍びでやってくる店で、そこで緋真は働き始めた。貴族が来店する、それ故にそこで働く少女達は秀でた美貌の者ばかりだった。勿論事前に少女達の身元、思想は調査される。貴族達が集まるその場所で間違いがあってはならないからだ。出身地区は大して重要視されなかった―――美しければ、問題は無いのだ。そしてその場所は、提供するものは食事だけではなく、店主に一定の金を積めば少女を身請けすることも出来るという内情を、緋真が知る由もなかった。
 そこに、ある日現れた男―――男というには余りにも美しいその人に緋真は出逢ってしまった。
 ひと目見たときから心を奪われた。
 そして、緋真はただ遠くから見つめるだけだった。その人の名前も素性もわからないけれど、恐らく名のある家の子息なのだと、彼に接する周りの態度から知れた。
 言葉を交わすことは出来ない。
 視線を合わせることさえ。
 それは固く店主に禁じられていた。ただ、相手が話しかけた時にだけ、失礼の無いように応対しろと。
 その人は何も話さなかった。いつも飲み物だけを頼み、他の貴族達とは違い―――大抵の客は、少女達を己の気に入りの娘を見つけるためだけに通っていた節がある―――それを静かに口にして帰っていく。
 そうしてただ見つめるだけの恋は、ある日突然緋真を全く世界へと導き始める。

『お前の名は―――?』

 夢で聞いた何倍も美しい声。
 差し出された手を思わず取ってしまった時から、運命の歯車は回り出す。
 好きになってはいけない。
 幸せになってはいけない。
 そう必死で引き止める緋真の心は、それでも白哉に引き寄せられていく。
 白哉への愛が深まるのと同じ深さで、己を責める思いも深まる。
 ―――自分は、高潔なこの方に相応しい女ではないのだ。



 
 緋真の話を聞いて直ぐに、白哉はその男が誰であるのか見当をつけた。
 薊の隊章―――十二番隊の証。
 直接にその男を知っている訳ではない。けれど、その男は余りにも有名―――良い意味でも、悪い意味でも。
 前十二番隊隊長、初代技術開発局局長。
 浦原喜助。
 尸魂界から追放された男。
 緋真に会ったそのすぐ後、浦原喜助は尸魂界を追放されていた。その行方はようとして知れない。
 緋真の妹、その行方を知る手がかりになれば、と白哉は浦原という男について調べ始めた。地下議事堂の大霊書回廊に通い、浦原喜助の過去の研究を虱潰しに読み続け、そしてひとつの考えに思い至った。
 赤子を必要とした浦原。
 その時期。
 追放、そして―――行方の知れない、浦原の最大の発見、開発。
 それは、
 死神の虚化。

 ―――「崩玉」。

「破壊を試みるもその術は不明」
 浦原の筆跡だろうか、隠されるように大霊書回廊の目に付かない隅の方にあったその本にはそう書かれてあった。そしてその筆跡は続く。
「現時点に於いて唯一の方法、崩玉に防壁をかけ、他の魂魄に埋め込み隠匿」


『アタシは今、どうしても子供が必要なんです』


 浦原が子供を必要だった理由。
 それは、間違いなく―――崩玉を隠すために必要だったのだろう。
 そして白哉はもうひとつ気付いたことがある。
 浦原の足跡を辿り続けたこの大霊書回廊、白哉が調べた書は、全て最近誰かが紐解いた形跡があった。
 誰かが、この尸魂界の誰かが、白哉と同じ結論に達している。
 それが誰かはわからない。
 ここまで執拗に調べ続けたその誰かは、一体どのような理由で崩玉についてを調べているのか。
 ―――不穏な匂いが、した。


 

 そして時は流れ、緋真は逝き……皮肉なことに、その直後に白哉はその少女―――「ルキア」を見つけ出す。
 真央霊術院に所属していた「ルキア」は、たとえ白哉が緋真に妹がいると知らなかったとしても、一目見ただけで気付いただろう。
 あまりにもルキアは緋真に似ていた。
 ルキアを前にして白哉は平静ではいられない。
 緋真が逝ったのはほんの数週間前……その緋真と同じ顔の、緋真よりはやや幼い少女。
 ルキアの顔を見た瞬間に、白哉の胸は激しく痛んだ。
 緋真はもうこの世界には居ないのだと、同じ顔の少女を前にして痛感した。
 どんなに似ていても、ルキアは緋真ではないのだ。
 自分を愛し、自分が愛したあの少女ではない。
 

 怯えながら見上げる少女の表情に、白哉はようやく己を取り戻す。
 緋真の言葉、最後の願い。 
 白哉は決めたのだ。
「妹をお護りください」―――その緋真の遺志を護るため、あらゆるものからルキアを護ると。
 妹を捨ててしまったと己を責め続けた緋真のために―――決して崩玉の所為でルキアを死なせはしない、と。
 








「……怒っているのだろうな、緋真」
 微かに白哉はその秀麗な顔に笑みを浮かべる。
 緋真ならば、恐らく白哉の取った行動を哀しむに違いないとわかっている。ルキアと恋次、それは即ち白哉と緋真の関係に他ならないのだから。
「誰にも悟られなければ見ぬ振りも出来たのだが……他の者の目に触れてしまえば、もう私は如何することも出来ぬ。……今のあの男の身分では、ルキアとの付き合いを叔父上達は許しはしないだろう」
 そしてルキアの心を奪う流魂街出の男が居ると知った叔父達の次に執る行動は、その男の存在を消してしまうことだろう。それが一番簡単で簡潔な方法故に。
 だから白哉はことが表立つ前に、二人の想いを消すことを選んだ。
 それが現時点での最良の方法だと考えて。
「心配せずとも大丈夫だ、あの二人は」

 戌吊で意識を失ったルキアを抱きしめ、焔のような瞳で白哉を睨みつけたあの男。
『一時離れてしまったとしても、必ず私達はまためぐりあう。そしてめぐりあえば……必ず惹かれあう』そう微笑んだルキア。
 
「本当に結ばれるべき相手ならば、周りがどのような妨害をしようと、決してその者らを阻めるものではない」
 それはあらゆる障害を乗り越え、ただひたむきに相手を求め、必ず己の半身を手に入れるだろう。
 それを白哉は身を持って知っている。
 何があっても。
 惹かれあうのだ。
 決して離れることは出来ない。
 ―――死が二人を別つとも。



「そこに居るのだろう」
 白哉は微笑みながら虚空を見つめる。
 何も見えない。何の気配も感じられない。何の声も聞こえない。
 けれど。
「私の声を聞いているだろう?」
 白哉は目の前の花に手を伸ばした。緋色の花弁に触れる。
 その花弁に唇を落とし、白哉は呟く。
「三千世界のあらゆるものも、私とお前を離すことは出来ない」
 呟いたその言葉に答える声は、ない。
 白哉は静かに瞳を閉じる。
 いつか聞こえる筈の緋真の声を信じ。







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