常人には気付かないほど微かなその気配に、声をかけられる前に白哉は「帰ったか」と声をかけた。
「はい」
次いで、音を立てずにルキアが白哉の部屋に入る。
降りしきる雪の中、独り夜明け前の暗闇を歩いてきたルキアの胸に去来していたものは何だったのか、白哉に走る由もない。
ただ、その顔には涙はなく、穏やかな表情が浮かんでいた。
白哉の前に膝を付き、深く一礼をして、ルキアは顔を上げる。
「昨日から今まで、自由にさせていただいてありがとうございました……やるべき事、滞りなく致してまいりました」
す、と差し出した小さな機器を、ルキアは白哉に渡す。頷いてその蓋を開くと、薄紅色に変化した金属片がある。
白哉は頷くと、机の上に置かれた、今ルキアが手渡したものと同じ物を取り出した。蓋を開けると、そこには金属片が青白く発光している。
それは、先程恋次の額に乗せられたように、これからルキアの額に乗せられるチップだ。
ただ恋次と違うことが一点……そこに入力された情報、記憶を消す期間は、ルキアが朽木家に入ってから今日までの恋次に関する記憶。そうルキアが白哉に願い出たのだ。
自分の過ちの源、朽木家に入って三月の時、淋しさに耐えかね訪れた真央霊術院での景色―――恋次の腕に手を置く少女と、笑う恋次の姿を見て「恋次にとって自分は不要だったのだ」と思い込んだその事実も消してしまう。
その程度の事はしても構わないだろう、とルキアは自分に笑って見せた。
「イカサマしてんじゃねーよ!」そう、恋次の声が聞こえた気がした。だから、「そうしなければ私はずっとお前を憎んだままだぞ?」と心の中で言い返す。途端、恋次は「必要な処置だな」と大きく真顔で頷いた。
ルキアの顔に笑顔が浮かぶ。
ほら、大丈夫。
お前と逢えなくても、こうしてお前を想い出すから。
白哉の男にしては細い指先が、青白い光を取り出した。無言でルキアを見つめる。
「よろしくお願い致します」
それは、白哉がこれから行おうとする行為についてか、恋次とルキアの行方を見届けることについての言葉か。あるいは双方の意味を込めて、ルキアは静かに目を瞑る。
恋次の家からの帰り道、あとからあとから降り積もる雪を、万感の想いで眺めていた。
この半年の間、色々なことがあった。
護廷十三隊に入隊して直ぐ、逢いに来てくれた恋次。
酷い言葉を投げつけて恋次の心を傷つけた。
もう捨てたと思った恋次への想いが、ひと目恋次を見た途端に溢れ出し、私の制止を振り切って私の心はただ恋次の姿を追っていた。
私の所為で、心も身体も恋次は傷付き、
恋次の言葉と行為は私を傷つけ、
それでも私は恋次を愛し、
恋次は私を愛してくれていた。
戌吊へ、私を助けに来てくれたこと。
暖かい腕に抱きしめられたこと。
初めて重ねた唇も、初めて抱かれたその夜も、
何度も交わした口づけも、何度も抱きしめた今夜の事も、
お前が私にくれたものを、お前の肩越しに見た景色を、
私は忘れない。
その記憶は鍵を掛けて仕舞い込むだけだ。
いつか時が来たら、その時は……。
額に触れた金属の冷たさを感じ、ルキアは強く恋次を想う。
―――忘れない。
―――お前を好きだという気持ちは、何があっても忘れることは無いから。
当たり前ぇだろ、と、自信たっぷりに笑う恋次の笑顔が瞼に浮かんで、ルキアの顔にも笑顔が浮かんだ。
その額に置かれた小さな破片は、青白から徐々に色を変えてゆく。
やがて、それは薄紅に染まって、
―――ルキアの中から、恋次の記憶が……消えた。
「怒っているか?」
音の無い部屋の中で、白哉は静かに緋色の花に語りかける。
「確かに私はルキアに嘘を吐いた。私はお前を忘れたことなどただの一度もない」
父達に緋真との結婚を認めさせるため、一度互いの記憶を消した―――そんな事実は無かった。
「しかし、こうせねばならぬのだ―――あれは自分の身体に何が存在するのか判ってはいない」
緋色の花が、まるで人の形を取っているかのように、白哉は穏やかに話しかける。
「お前にも話してはいなかったが、あれの身体に存在するもの、それは誰にも知られてはならぬものだ。あれ自身にも知られてはならぬ。何も知らずにいるのが幸せだ。己の身体に、尸魂界全体、いや現世も虚圏をも揺るがす秘密が眠っているなど―――」
白哉はその事実を知った時の驚愕を覚えている。
「私は白哉さまに愛される資格のない女でございます」
手を付き涙を流す緋真に、白哉は「何度も言っているだろう」とその肩に手を乗せた。
「身分など関係ない。私が愛したのは、お前という―――」
「その私は、白哉さまに愛される資格などないのです……」
涙を零しながら、緋真は震える声で白哉に告げた。
―――私は、妹を見捨た女です。
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