その日、勤めを終え自室で翌日の勤務の準備をしていたルキアは、自分の名前を呼ぶ側仕えの声に「何だ?」と返答した。
「白哉さまがお呼びです」
淡々としたその声に反射的に時計を見遣ると、時刻は真夜中近い。
今までこんな夜遅くに白哉に呼ばれたことはなかった。
知らず、ルキアの身体に緊張が走る。
「ルキア様」
「わかった、すぐに行く」
まだ衣服は部屋着のままだ。鏡に向かい、ルキアは己の着物と髪が乱れていないか、兄の前に出ても失礼ではないかさっと検分する。
さらりと襖を開けると、頭を下げた側仕えの少女が一層深く頭を垂れ、ルキアの先に立って歩き出した。
ここ朽木家にいるものは、例外なく無駄な言葉を発しない。必要な言葉しか話すことは許されてはいない。それはこの屋敷の主が、ことの外静寂を求めているからだと、この屋敷の一員に加わった時に聞いた。
この家の主、即ち白哉が。
この邸内で兄の姿を見る度に、ルキアは根拠もなく、ただ漠然と「兄様は何かを待っているのではないか」と感じている。
全ての音を消し。
それはまるで何かを聞き逃さないように。
それが何かはわからないけれど。
物思いに耽っていたルキアは、前を歩く少女の足が止まった事で、いつの間にか白哉に部屋の前まで来ていたことに気が付いた。
「白哉さま、ルキア様をお連れ致しました」
「入れ」
間もなく日付が変わるというこの時間、それでも白哉の声に疲れの色は見えない。いつもと変わらず、感情の読み取れない静かな声がルキアへ入室を促す。
再び頭を下げる少女の横を通り過ぎ、ルキアは静かに襖を開け同じように頭を下げた。
「失礼致します」
そのまま一歩部屋に入り襖を閉めると、少女の姿が見えなくなる。
部屋には白哉とルキアの二人だけになった。
そこは、更に音の無い世界だ。
音だけではなく、色もない。
まるで別の世界のような。
けれど、この部屋にある一輪の緋色の花だけが、鮮やかにその色を際立たせていた。
何かをこの部屋に留めようとしているかのように。
その花に引き寄せられた視線を外し、ルキアは兄に向かって尋ねた。
「お疲れではありませんか」
「いや」
答えは短い。そんな白哉の様子に、ルキアはいつも萎縮する。
視線で促されるままにルキアは白哉の前に座った。白哉がルキアをこんな遅くに呼び出した原因がわからずに、ルキアはただ白哉の言葉を待ち緊張する。
目に入る白哉の表情は変わらず、この後口にされる話の内容は、ルキアには見当も付かない。ただ、この深夜に、朝を待たずに呼び出したということは、恐らく―――吉報ではないだろう。
まさか恋次が、と思ったが、それは無いと自分に言い聞かせる。
恋次の身に何かあったならば、それを自分が気付かない筈は無いのだ。何らかの波動で、きっと自分は誰より先にその事実に気付く筈だ。その事をルキアは確信していた。
ルキアも、内心の不安や緊張はおくびにも出さず、二人はしばらくそうして無言で向き合った後、ようやく白哉は「先日、私に耳に入ったことが在る」と、やはり感情の読み取れぬ静かな声で切り出した。
「はい」
ルキアは何を聞かされても驚かぬよう、自分に言い聞かせる。感情を揺らがせることは、朽木家の者として相応しくない。
「その男は、お前の監視を強めた方が良いと言ってきた。朽木の名前を汚す前に何らかの処置をすべきだと」
「名を汚す……?」
「私にそれを進言したその男は、お前が十一番隊の男と一緒にいるところを見たそうだ」
びく、と身体を震わせたそれだけで、白哉にはそれが事実だという事が伝わっただろう。
ルキアは顔を伏せ、膝の上に重ねていた手を握り締めた。
答えないルキアを気にする様子もなく、白哉は淡々と言葉を続けていく。
「男は、三ヶ月前お前を助け出した男だな」
それは質問ではなく確認だ。
白哉は既に、この件については調べているのだろう。
「お前の幼馴染だと聞いた」
「……はい」
震えそうになる身体を必死で押さえて、ルキアはようやく声を出した。それは擦れた、震えた小さな声だった。
―――知られてしまった。
恋次の存在を必死で隠してきたのは、それを知られた時の状況が、手に取るようにわかったからだ。
尸魂界の誰もが知る、四大貴族の一、朽木家に身を置くルキア。
護廷十三隊に入隊したばかりの新人、出身は最下層に近い第78区戌吊の、阿散井恋次。
許される筈がないのはわかっていた。
朽木本家の一員だが、ルキアは生まれついての貴族ではない。それ故に、嫁ぐ相手は貴族でなくてはならないと、卑しい身分の相手と付き合うことなど許さないと、面と向かって分家の者達―――白哉の父の弟達―――に言われていた。
お前がこの家に入ったのは、例外中の例外だ。
あれの意思だから仕方なく―――我らはあれほど反対したのに―――その前の、あの女が元凶―――あの時も我らは強行に―――しかし家を捨てるとまで―――しかしあれはこれで最後だと―――もう二度と掟は破らぬと―――それならばと―――
ルキアの前で交わされる分家筋の者たちの会話は、朽木家に入ったばかりのルキアには全くわからないものだったが、ただ、自分がこの朽木家に養子に入ることは、強く反対されていた事だけはわかった。心細さと居た堪れなさに、ルキアは俯くことしかできない。
ルキアを無視して言葉を交わしていた彼らは、ようやく小さな少女の存在を思い出し、「故に」と重々しく告げた。
「我らの反対を押し切り、白哉はお前を本家に向かい入れた。本家、その意味がお前にはわかるか?その重みがお前にわかるか?否、朽木家に入った以上、わかって貰わねば困る。この先お前には自由は無い。お前に今より前の過去は無い。出自が流魂街等という卑しい過去を持つお前を一切捨てよ。それに纏わる全てのものを捨てよ。流魂街出の者と口をきくことも許さぬ。お前が流魂街出身のものと親しくすれば、口さがない雀共がそれ見たことかと囃し立てるだろう。卑しきものは卑しきものと。私達もそれは同意見だが、お前が中傷される事は即ち朽木家の中傷だ。それだけは断じて許さぬ。わかったな?」
だから、この恋は秘密だった。
誰にも気付かれないように、ひっそりと―――いつか恋次が力を付け、護廷十三隊の隊長にまで登りつめ、そうして堂々とルキアを迎えに来るまで―――その時まで、秘密にしていなくてはならない恋だった。
それが―――露見してしまった。
恋次の、精悍な笑い顔が頭に浮かぶ。
ルキア、と優しく呼ぶその声が脳裏に響く。
―――失くせない。
もう、二度と失くせないのだ―――恋次を。
「兄様―――」
「認める訳にはいかぬ」
弁明すら許さず、白哉は静かにルキアの言葉を遮った。
きゅ、とルキアの手が、更に強く握り締められる。
「お前を引き取る時に、叔父上達と約束している。お前は叔父上達の選んだ家に嫁ぐようにと」
つまり、自分は朽木家のより一層の繁栄を確たるものとする相手の家へ、叔父達の思惑で差し出される身なのだと……そう決められているのか、とルキアは白哉の言葉を正確に読み取った。
本当に、此処では私の意思など関係ない。道具でしかないのだ、人格などない、ただの人形。
半年前、恋次に再会する前ならば、ルキアは何の感慨も持たず、その言葉を受け入れていただろう。
けれど、今は。
自分をただのルキアとして、真直ぐに見つめ愛してくれるその存在を手に入れてしまった今は……受け入れられる筈がない。
逃れたいのだ、本当は。
この朽木家を出られるならば、それで構わない。貴族の身分に等、興味は無いのだ……自分にそれが合っているとも思えない。
けれど、そう願い出てしまったら……白哉にかかる迷惑は計り知れない。
分家たちの糾弾も大きいだろう。白哉は一族の中でも歳若い。これを機に、分家の、白哉の叔父たちが自らの更なる権力と金を求めて、白哉を失脚させるかもしれないのだ。
この家は出られない。
けれど恋次を手放せない。
ルキアは途方に暮れて唇をかむ。
「―――ただ」
白哉の声は、音の無いこの部屋に存在する唯一の音だ。
そこで白哉は言葉を切った。顔を伏せたルキアは、続く白哉の言葉を待つが、一向にその先の言葉が発せられる気配が無い。不思議に思い顔を上げると、そこには机の上に活けられた緋色の花をじっと見つめている白哉の姿があった。
一輪だけのその花を、白哉は何も言わずにただ見つめている。緋色のその花の名前をルキアは知らない。何故色の無いこの部屋にその花が活けてあるのかも、兄の白哉が今その花を見つめているのかも。
「―――私の妻も、貴族ではなかった」
声の調子は変わらない。先程と同じ、静かな声だ。
けれど、どこかが違う―――僅かに、微かに。
懐かしむような、愛おしむような、哀しいような、苦しいような……そんな、微細な感情が煌めいたような気が、ルキアにはした。
「周囲の反対は激しかった―――私はこの朽木家を継ぐ身、その正室に下賤の血を持つ女を迎える訳にはいかない、と」
養子のルキアでさえこの厳しさなのだ、白哉への厳しさはより激しかっただろう。それは想像に難くない。
初めて聞く白哉とその妻の話に、ルキアは耳を傾けた。
「どうせ一時の想い、周りには存在しなかった庶民の女の一挙手一行動がただ珍しいだけなのだろう、と言われた。そんなものは直ぐに飽きる、一瞬の気の迷いだ、と。父と母と一族の者全てに」
だから私は条件を出した―――一時の想いではないと証明する為。
その白哉の言葉に、ルキアは顔を上げる。
「私の中から、緋真の記憶を消し、緋真の中から私の記憶を消し―――それでも再び出逢い、愛し合ったのならば―――緋真を朽木家に迎えるように、と」
相手を忘れても尚、惹かれあう。
何度でもめぐりあい恋に落ちる―――それを証明するために。
「そして私と緋真はそれを証明した」
白哉は深い色の瞳を真直ぐにルキアに向ける。
「お前に出来るか?」
「出来ます」
間髪入れずにルキアはそう言い切った。
「お前だけではない、相手の男はそれが出来るか?」
「出来ます」
ルキアは小さく微笑んだ。
身体の震えが止まる。
先程まで伏せていた顔はしっかりと上げられ、ルキアは正面から白哉の目を見つめた。濃紫色の瞳が強い意思を反映して煌めいている。
「私達は側にいるのが自然なのです……一時離れてしまったとしても、必ず私達はまためぐりあう。そしてめぐりあえば……必ず惹かれあう」
花が太陽を焦がれるように。
側に居なければ、自然に、無意識に相手を求めてしまうのは―――わかっていた。
「―――では、証明して見せろ。私と、お前を縛る者達に」
「はい、兄様」
手を付き頭を下げるルキアの瞳に、不安は無い。
誇り高い兄が約束を違える事はないと、無条件にルキアは信用できた。
そして、自分と恋次の絆を信じている。
この胸の熱さ、恋次を想う気持ちは、決して何があっても変わらないと信じている。
「明日、一日。浮竹には私が連絡をしておく。明後日の朝までに帰って来い。それまではお前が何処で何をしようと私は一切構わぬ」
言外にこれで話は終わりだとルキアに告げ、白哉は立ち上がった。その前でルキアは再び頭を下げる。
「では、これで失礼致します」
頷く白哉に、ルキアは「ありがとうございます」と言葉を続ける。
その言葉は聞こえなかったのか、白哉は何の反応もせずに、ルキアもそれ以上何も言わずに、静かに立ち上がって自室へと戻っていく。
白哉の部屋は、再び元の静けさを取り戻していた。
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