「お帰り、恋次」
 暖かい光の中、ルキアが部屋の真中で微笑んでいる。
 幾度も夢見た光景が現実となっているその状況を現実とは信じられずに、恋次は戸口で暫く立ち尽くす。
「どうしたのだ?莫迦みたいな顔をして突っ立って……はやく中へ入れ、寒いだろう」
 小さく笑って、ルキアはくるりと背中を向け台所へと消えた。
 鮮やかに、淡い薄紅の着物の残像が目に残る。
 足元で猫のるきあが促すように小さく鳴いて、ようやく恋次は我に返り自分の部屋へと上がりこんだ。
 それでも驚きは消えない。
「風呂も食事も、どちらの支度も出来ているが……どっちを先にする?」
「あ?」
「風呂を先にするか食事を先にするか、どちらがいいかと聞いたのだ。一体どうした、お前?」
「そりゃこっちの台詞だ!」
 驚きの呪縛がようやく緩んで、恋次は声を上げた。ルキアはそんな恋次を悪戯そうに眺めている。
「お前、もう夜だぞ?今まで絶対夜には家に帰ってたじゃねえか……いいのか、こんな時間まで外に居て」
「何だ、迷惑だったか。それならばこれで帰るよ、悪かったな」
 着物を汚さぬように着けていた前掛けを外しながら、ルキアは「じゃあ、お休み」とあっさりと恋次の横を過ぎる。そのルキアの引き際の良さに、「ちょっと待て!」と慌てて恋次は腕を掴んで引き止めた。
「迷惑だなんて言ってねーだろーが!あっさり帰るな、莫迦野郎」
「そうか、ならお邪魔していよう」
 完全にこの場はにこやかに笑うルキアのペースだ。何が何だか判らない恋次に、ルキアはくすくすと笑いながら「実はな」と告げる。
「今朝から明日の朝まで、兄様は現世へ降りていらっしゃるのだ。偶々今日は私も休みだった故、朝からここに邪魔していた」
 言われて見渡せば、ここ最近忙しくて掃除をする暇がなく乱雑だった部屋の中が、きちんと整理されている。何処も彼処も輝いて見えるのは、ルキアがこの部屋に居るという所為だけではなさそうだ。
「それで、恋次。食事と風呂はどちらにするのだ?」
 幾度も夢見たその台詞がルキアの口から発せられ、恋次は感動しながら「あー、じゃあ……飯」と答えた。
「ああ、すぐ用意できるから。とりあえず着替えてきたらどうだ?」
 埃だらけだぞ、と笑ってルキアは台所へと消える。
 すぐに部屋中に漂いだす食欲を刺激するその香りに、恋次は何となく夢見心地のまま、自室へと入って汚れた死覇装を脱ぎ捨てた。



「さ、遠慮なく食べろ」
 何処となく自慢げに促され、恋次は「おう」と返事をした。
 目の前に並ぶ料理の数々。
 深い皿には数々の生野菜が、その美しい色を恋次の目に映している。
 小鉢には、豆腐、塩辛、めかぶ、胡瓜とわかめの酢の物など、つまみになるようなものが、小分けになって置いてある。
 平たい皿には、鮭の切り身が鮮やかな色彩で恋次の食欲をそそる。
 そして今日ルキアが持ち込んだのだろう、新品の同じ柄の大きさの違う茶碗……俗に言う夫婦茶碗には、炊き立ての白米が湯気を上げ、揃いのお椀には大根と油揚げの味噌汁がある。
 そして、ルキアの視線を受けながら、恋次は机の上に並べられた皿の内、一際大きな皿に盛られた肉じゃがに箸をつけた。
 ルキアも箸を手にして、けれど自分はどの皿にも箸はつけずに恋次の行動を見守っている。
「……うっ」
 一口、口にした途端発せられた恋次の呻き声に、ルキアは「……不味い?」と一瞬にして泣きそうな顔になる。ルキアの手がぎゅっと箸を握り締めた。
「美味い!」
「ほんとか!」
 泣き顔は一瞬にして晴れ、ルキアは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。急いで自分も箸をつけ、口にした料理に「うん、上出来だ」と笑う。
「さあ、どんどん食べろ」
「お前もな」
「当たり前だ、私がお前に遠慮などするか」
 二人は向き合い、ルキアの手作りの料理を口にしながら、今日あったことをお互いに話した。
 恋次が虚討伐の事を多少大げさに話すと、ルキアは驚いたように目を大きく見張って固唾を呑んで聞き入った。その話が終わると、今度は恋次がルキアの話を聞きたがり、ルキアはこの場に並べられた料理の仔細について詳しく説明する。
「初めて作ったとは思えぬ味だ。私は天才かもしれぬ」
「初めてかよ?」
「ああ。朽木の家では、私は調理場に立たせてはもらえぬ。それは下々のする事だ、と言われてな……」
 だから今日の料理は、本を読みながら全て初めて作ったのだ、とルキアは照れくさそうに言った。
「時間はかかったのだが、丁度お前の帰りが遅くて助かった」
「俺としちゃあ帰りが遅くなった事が悔やまれて仕方ねえよ」
 そうすりゃずっとお前と一緒に居られたのに、と溜息を吐く恋次に、ルキアはさり気なく返す。
「今日はずっと居られるぞ」
「……あ?」
「……お前がよければ、だが」
「良いに決まってんだろ!マジかよ!?」
「兄様は明日の朝まで居ないから……それまでに帰れば……」
 微かに頬を染めて俯くルキアに、恋次の脳内は外の冬とはかけ離れた春の景色だ。
 初めてルキアがこの部屋に泊まる。
 今まで、どんなに互いに離れたくなくても、日が落ちれば二人は相手の体温を想って別の寝床に横になっていた。
 それが今日は……二人、体温を感じながら夢の世界へ入ることが出来るのだ。
 夢が次々に叶う今日という日に感動する恋次を目にして、ルキアは何故か一度目を伏せ……次に顔を上げた時には普通に戻り、「ほら、もっと食べろ」と恋次を現実へと引き戻した。




 台所に立ってかちゃかちゃと皿を洗うルキアの背中を、恋次は畳みの上で横になり、じゃれつくるきあを構いながら幸せそうに眺めていた。
 しゅんしゅんとお湯が沸いている。
 ルキアは慎重に、普段淹れたことはないだろうお茶を恋次のために淹れて、小さなお盆に載せて恋次の元へと運んでくる。
「明日は早いのか?」
「ああ、普通通り。お前は?」
「私は一度家に戻らねばならぬから……そうだな、六時くらいに出ようかと思う」
「あと9時間しか一緒に居られねーのか……」
 なんで今日に限って虚討伐なんかあったんだ、と毒づく恋次に、「仕方ないだろう」とルキアは笑う。
「ほら、疲れてるんだろう。早く風呂に入ってこい」
 ぽんと白いタオルを渡される。恐らく昼間、ルキアが洗ったものだろう。日の光を十分に浴びて乾いたそのタオルは、太陽の匂いがする。
「お前も一緒に入るか?」
 赤くなって怒るルキアが見たくて冗談でそう言ってみた恋次は、一瞬躊躇った後に頷くルキアを見て仰天した。
「え?マジで?」
「厭ならいい」
「厭じゃない!」
 背中を流すだけだぞ、と赤面しながら念を押すルキアを恋次はいきなり抱き上げて、ルキアに小さく悲鳴を上げさせる。
「こら!」
「いや気が変わられたら困る」
「だからって……自分で歩く!いい加減にしろ、莫迦恋次!」
 風呂場に連行されて、あっという間に脱がされて……けれど着物は皺にならないように注意深く衣紋掛けに掛けられて、ルキアは恋次の腕に抱かれて湯船の中に居る。
 今まで一度だけ一緒に風呂に入ったことがあった。それは雨に濡れ冷えた身体を暖めるために湯を借りたのだが、結局恋次の思う通りに翻弄されてしまったルキアだった。
 それはたった2ヶ月ほど前のこと。
「……なんか、いいな」
 ルキアに背中を流してもらい、恋次もルキアの身体を洗ってやって、二人で入った湯船の揺れる湯の中、ルキアを後ろから抱きしめながら、恋次は声まで暖まったような声を出す。
「……ん?」
「家に帰ってきたとき、部屋が明るかっただろ。そーゆうの、すごく良いなって思う。今までずっと、帰って来た時ゃ部屋は暗ぇし、寒ぃし。それが今日、明るくって暖かくって、お前が部屋で『お帰り』って言ってたのが……なんつーか、すごく」
 背後からルキアの首筋に顔を埋めて、恋次は後の言葉を言わなかった。けれど、その言葉にしなかった恋次の気持ちは、きちんとルキアに伝わっている。
「……お前の服を洗濯して、部屋を掃除して、お前のために食事を作って、お前の帰りを待って……私も、今日一日、とても……楽しかったよ。まるで、」
 ルキアも最後までは言わなかった。
 それでも、恋次にはルキアの言わなかった言葉がわかる。
「早く、これが毎日続くよう……頑張るからな」
「……怪我はするなよ。私は待ってるから……急ぎすぎて怪我などするな」
 自分を抱きしめる恋次の腕に手をかけ、ルキアは呟いた。何処か哀しげなその声に、恋次は「大丈夫だよ」と笑う。
「心配するなよ。今日だって虚討伐の同行を許されたんだからな、これは隊長が強いって認めた奴しか行けねえんだぜ?」
「……だからこそ、心配なのだ。お前は……昔から、私が絡むと無茶をする」
「大丈夫だって、死にゃあしねえよ。餓鬼の頃に約束しただろ?お前を一生護るから、俺は絶対ぇに死なねえんだ」


『ずっと一緒にいるんだぞ?』
『ああ、俺がずっとお前を護ってやるからな!』
 それは、遠い……幼い日に交わした、二人だけの約束。
 

「ああ……覚えてるよ。お前はその言葉通り、私を護ってくれたな」
 あの戌吊で、流佳に騙され陥った危機の中、助けに来たのは恋次だった。
 あれから3ヶ月。
 たった3ヶ月だ。
「俺は約束は護るって。だから俺は死なねえよ」
 恋次の手が、安心させるようにルキアの身体を包み込む。背後から髪に口付けて、ルキアの身体を抱き寄せた。
「そうだな……お前は信じられる。お前を信じてるよ」
 その恋次の腕の中で、ルキアは身体を反転させた。恋次と向き合う形になって、その白い両腕を恋次の首へと回し、真正面から恋次の瞳を見つめる。
「ずっと私を好きだと言ってくれ……時が過ぎても、何があっても」
「何があってもどれだけ時が過ぎても、お前一人をずっと変わらずに愛してる」
 一瞬の間も置かず、躊躇なくその言葉が口から発せられるのは、恋次が常にそう思っているからだろう。
 再びルキアの瞳は伏せられ、上げた顔の頬に水滴が流れて落ちたのは、洗い髪から伝い落ちた湯だったのかもしれない。
「私も、この先何があっても……ずっとお前を想う気持ちは変わらない」
 もう出よう、と甘くかすれたルキアの声に込められた意図を正確に汲み取って、恋次はルキアを抱き上げた。
 





  

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