寝不足の重い頭を振って意識を仕事へと集中しようとしたが叶わず、恋次は手にしていた筆を机の上に置いて目を瞑った。
 途端に昨日の、涙を溜めた大きな瞳が甦る。
 あれから何をしても頭に浮かぶのは、色を失ったルキアの白い顔だ。
 木に押し付け、怒りのままに弄ったこの手の中で、その行為ではなく言葉に傷付いていたルキアの顔。


『お前はそれを、信じたのか……』


 震えていた身体。
 瞬時に溢れた透明な雫。
 それは途切れることなく、後から後からルキアの白い頬を伝い落ちる。
 その雫が落ちた小さな手で、縋るように襟元を掴み慟哭した姿。


『私は……私は……っ!』


 次いで、かすめる様に触れた唇。
 翻した華奢な身体。
 遠ざかる背中。
 引き止めようと伸ばした手は、声は、もう届かなかった。





 ルキアの泣き顔を見たのはこれで2度目の事だと、恋次はぼんやりと天井を見上げながら思う。
 ルキアの涙を見たのは、恋次がルキアを庇い傷を負ったその時、その一度きりだ。
 それ以来、恋次はルキアに涙を流させぬよう、いつもいつでも傍に居た―――ルキアが朽木姓を名乗るまで。
 元々ルキアは涙を人前で流さない。決して強い心じゃない、けれども必死でいつも耐えていたのは知っている。
 皆に心配をかけぬよう。
 自分の心に負けぬよう。
 そのルキアが―――涙を見せた。
 流れる雲のように白い顔。
 驚愕に見開いた目。
 開いた唇と言葉は震えていた。


 何を言いたかったのだろうか。
 何を伝えたかったのだろうか。
 

 ゆっくりと上げた恋次の右手が唇に触れる。
 触れた唇から伝わったものは―――





「あ、いたいた!」
 勢い良く扉が開いて突入してきた小さな姿に、恋次は我に返った。慌てて居住まいを正すと、小さな乱入者は「れんれん、さぼってるー!」とケラケラ笑った。
「さぼってないですよ、ちょっと疲れたから目を休めていただけです」
「そお?でも助かるよー、うちの隊って皆な書類作んの嫌いなんだよねえ。だから仕事が溜まる溜まる」
「……これって実は副隊長の仕事なんじゃないっスか?」
「ばれた?」
 屈託なく笑うやちるに言い返す気力もなく、恋次は「何か用ですか?」と尋ねた。やちるがこの部屋に入った時に発した「いたいた」という言葉は、どう考えても何かの用事があるということだろう。副隊長自らがこんな新人に一体どんな用だというのだろう、と恋次は訝しく思う。
「そうそう!れんれんにしか出来ない仕事があるんだよ!」
 ぱん!と両手を叩いてやちるは真剣な顔をした。つられて恋次の表情も引き締まる。はい、と少し堅くなった声で返事を返しながら、恋次は姿勢を正してやちるの次の言葉を待った。
「あのね、あたし、今新人相手に訓練していたんだ」
「はい」
「そしたらね、ちょっとやりすぎちゃってね、新人の足がこう、ぽっきりと」
「…………」
「という訳でれんれん、ちょっと救護詰所まで怪我人運んできてっ!怪我人は第一修練場で倒れてるし!」
 花が綻ぶように邪気のない笑顔を恋次に振りまいて、やちるは「じゃね!」と部屋を出ようとする。それを制して恋次は、
「……俺にしか出来ない、って訳じゃないと思うんスけど」
「れんれんにしか出来ないよう、だって他の隊員みんなめんどくさがるんだもん」
「……俺だって嫌ですよ、そんなの。俺は忙しいんです。今俺の目の前にいる誰かが処理をしない書類が山ほどあってですね、何故か俺が替わって処理してるんですけどねえ」
 恋次の控え目な抗議は見事に無視して、やちるはにこにこと言う。
「つまりね、れんれんは今年入った新人で、しかも5番隊から移動してきてるから、今現在れんれんは十一番隊の中で真の紛れもない正真正銘の筋金入りの問答無用の下っ端なの」
「…………」
「という訳で雑用は全部れんれんなの。その書類作成もね。断るなんて出来ないの。だって本当の底辺なんだもん、れんれんは」
「…………」
「わざわざ副隊長直々に命じてあげたんだよ、これでれんれんのプライドも慰められるでしょ?という訳で運んでね、優しいあたしはそのまま休憩に行く事を許す!ほら、人より30分も多いよ!」
「……了解しました」
「うん、素直な男は出世も早いよ!やったねれんれん!明日はホームランだ!」
 意味のわからない言葉を最後に言って、やちるは来た時と同じ様に、風のように部屋から姿を消した。
 その開け放したままの扉から、冬にしては暖かい空気が流れ込む。
 恋次は机の上の書類を溜息と共に整理して、第一修練上へ向かうために立ち上がった。





「こりゃまあ見事に真っ二つだなあ」
 感心したように呟く恋次に、「副隊長も容赦ねえよなあ」と愚痴のように返したのは、恋次が来るまで怪我人に付き添っていた一角だった。どうやら共にやちるの言う「訓練」に参加させられていたらしい。
 その二人の足元で足を折られた新人…一角や恋次と同期入隊である男は痛い痛いと恥ずかしげもなく騒いでいる。恋次にすれば、訓練で骨折をするこの男の方にも非があると思う。やちるの「訓練」は恋次も受けたことがある―――というより、一昨日、一対一で受けたのだ。確かにきつい訓練だったが、やちるは非道な事はしなかった。相当の実力差のある恋次に、一番力が付くような特訓をしてくれたのだ。その位、やちるの力に遠く及ばない恋次にも充分解る。
 そのやちるが容赦なく足を折る、という事は、もしかしたらこの男に何か問題があるのかもしれない……そう思うのは、俺が副隊長を―――こう言っては不敬に当たるかもしれないが―――気に入っているからだろうか、と恋次は内心笑う。
「痛えよ!早く運べよ!」
 依頼ではなく命令の色が強いその口調に、恋次はこの男の身分を悟る。それは次の男の言葉で証明された。
「あの女、流魂街の、しかも最下層に近い草鹿の出の癖に!由緒正しい家柄の俺の脚を折りやがって……!父様に言ってやる、絶対に後悔させてやるっ!!」
 口から泡を飛ばしながら怒鳴る男に、恋次と一角は嫌悪感を露わにした。苦虫を噛み潰したような一角と、あからさまに侮蔑の表情を浮かべた恋次の顔は、幸いにも男の目には入っていなかった。今では男の罵言は隊長に及んでいる。
「じゃ、運ぶぞ」
 恋次は男にそう告げると返事を待たずに首筋へ手刀を下ろし、一瞬にして男は意識を失った。
「うわ、お前思いっきりいいなあ」
「あ?怪我人は気絶させんのが一番いいんだよ。暴れることもねーし、傷の痛みも感じねーだろ」
「まあ言われてみりゃそうだけどよ……」
「戌吊の頃は怪我人しょっちゅういたからな。治療が済むまで気絶させとくと本人の体力も無駄な消耗しなくて済むしよ。おかげで当身は俺上手いぜ?試してみるか?起きた時には痛みもねえぞ」
「……今はいい」
「そっか。さて、この馬鹿を運ぶか。俺にはこいつが副隊長を怒らせたような気がするんだけどな」
 嫌そうに男を持ち上げる恋次を手伝いながら、一角は、
「こいつ、隊長の悪口言ってたんだよ……結構そこかしこで言ってたな。『この俺が野蛮で下賎な更木剣八の隊にいるのはおかしい』『更木剣八なんて隊長になる資格はない』ってな。それを多分聞いちまったんだろ、副隊長」
「副隊長は本当に更木隊長が好きなんだなあ……あの強面がもてもて……ううん、謎だぜ」
「副隊長に聞かれたらお前も骨折られるぞ」
「それはまずいな」
 軽口を叩き合うと、恋次は「じゃ、ちょっと行ってくらあ」と男を抱えて歩き出した。





 

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