静かな病室に、兄様の呼吸の音だけが木魂している。
先程まで苦しそうだったそれは、今では規則正しく繰り返されていて、兄様の容態が安定したのだと、呆とした私の頭でも理解できた。
「もう大丈夫ですよ、朽木さん」
優しい笑みを浮かべて、卯ノ花隊長が私に言う。
「朽木隊長は、もう大丈夫です。あとはこのままゆっくりと休めば治りますよ。……がんばりましたね、朽木さん」
「……ありがとうございます」
私はなんと答えてよいかわからずに、とりあえず頭を下げた。
がんばった。
……私は何をがんばったと言うのだろう。
何も私はしてはいない……何を私はしたというのだろう。
「貴女ももうお休みなさい、疲れたでしょう……今、うちの者を付けますから、ご自宅へ戻りなさいな」
す、と立ち上がる卯ノ花隊長に、私は「いえ」と首を振る。
「ひとりで……帰れます」
「でも……もう真夜中ですよ、ひとりでは……」
「ひとりがいいのです。申し訳ございませんが、……ひとりになりたいのです」
私の言葉に卯ノ花隊長が何を思いどんな表情を浮かべたのか、私にはわからない。視線は床へと落としていたし、隊長は何も口にしなかったからだ。ただ、しばらくして「解りました」とだけ、静かに隊長は言った。
「……気をつけて帰るのですよ、朽木さん」
「はい、ありがとうございました」
頭を下げて卯ノ花隊長を見送る。ぱたん、という扉の閉まる音がして、病室は再び静寂に包まれた。
「……では、私も行きます。……兄様」
眠る姿に、そう呟いた。
けれど。
何処へ?
扉を開いて廊下へと出る。
時刻はとうに真夜中と呼ばれる時間を過ぎ、ここ総合救護詰所はしんと静まり返っている。
永遠の静寂。
時間が止まってしまったかのような錯覚。
この世に私は一人きりだという錯覚。
「……錯覚では、ない、か……」
この世に私は一人きり、だ。
廊下の窓に映る自分の姿にそう呟いた。
……この硝子に映る私の姿は果たして本当に私なのだろうか。
私と同じ顔の、既にこの世界にいないあの人ではないだろうか。
兄様に、緋真、と呼ばれたあの人。
兄様の心を占めるあの人。
私の本当の姉だという……緋真。
私は姉に捨てられた。
生まれて間もない私を捨て、彼女は身軽になって生きたという。
そうして、兄様に出会って余裕が出来て、亡くなる直前に、私を頼むと兄様に告げて息を引き取ったという。
そうして私は朽木家へと引き取られ、やはりここでも独りだった。
どうせならば、殺してくれればよかったのに。
ああ、でも貴女はそれすら厭だったのだろう―――自らの手を血で濡らすことは。
放置すれば、自分の手を汚さずに私が死ぬと解っていたのだろう、または放置すれば「何処かできっと生きてる」と―――罪の意識を感じずにすむ、だから貴女は私を置いて逃げたのだ。
私のことなど、何一つ考えてはいないではないか。
挙句、自己満足のために「私を頼む」と兄様に告げ、私は私の世界を破壊されて、独り望まぬ世界へ連れて来られた。
私は兄にも捨てられた。
兄は私の生命よりも掟を選んだ。
それはとても兄らしいといえば兄らしい。
元よりあの人の目に、私という個人の姿は映ってはいなかったのだ。
あの人の目に映るのは、あの人の心を占めるのは、
緋真。
ただその人だけ。
ただ、それだけ。
それならば、最初から最後まで、放って置いて欲しかった。
何故、私を見つけ出したのですか。
何故、私を引き取ったのですか。
何故、私を―――から、引き離したのですか。
恨んでいる訳ではない―――哀しんでいる訳でもない、
ただそれは純然たる事実だから。
姉に捨てられ、兄に捨てられ、
私は誰にも省みられる事もなく、
一人で―――独りで。
生きていたのだから。
このまま死んでも、同じ事だと思ったのだ。
生きるのも独り。
死ぬのも独り。
ならばどちらを選んでも同じ事。
私の死を望む者が在るのならば、別に逆らう事もないだろう。
ただ一人―――一人だけ。
私の為に、私だけの為に……全てを、……。
いや―――それは錯覚だ。
そんな事を夢見る資格も私にはない。
私は一番大事なものを自ら捨てた。
私を私として見ていてくれた、唯一の者を私は捨てた。
思えば、本当に私を想ってくれたのはあの者だけだったのに。
後悔は深く、けれど既に取り返しはつかない。
私は手を離してしまった。
恋次の手を、離してしまった。
朽木家の養子に、と請われた時に……私は。
試したのだ。
それを恋次に伝え、恋次がどう反応するかと。
人の心を試すという、思い上がりも甚だしい私の行為は、
恋次をどれだけ苦しめた事だろう。
良かったな、と、そう私に笑顔で告げた恋次の心が、
どんなに辛かっただろうかと、後に何度も悔やんで胸が痛んだ。
私が戯れに、恋次の心を試したばかりに、
恋次の心に消えない傷を負わせてしまった。
養子になどいく気はない、私の居場所は間違いなく恋次の元だから。
そう恋次に、心のままに告げればいいだけのことだった。
そうしたら恋次はきっと少し驚いた顔をして、
それから嬉しそうに、私を強く抱きしめたに違いない。
貴族の力、というものを
私は何も考えずにいたのだ。
恋次は一組という、貴族の中でも上級の、位の高い貴族が多いその級で、
「貴族」というものを私よりとても良く知っていたのだろう。
貴族の申し出を断った場合、しかも唯の人間―――いや「唯の」以下の、流魂街出身の、何の力もない小娘が申し出を足蹴にした場合、
恐らく私が無事ではすまないと思ったのだろう。
けれど私がもし、最初に「行きたくない」と告げたのならば、
恋次は行かせなかっただろう、それが私の意志だから。
その後の、私が受けるであろう様々な妨害や圧力も、
恋次は私の盾となり、正面から受け止め、跳ね返した事だろう。
私の意思を護るために。
私を護るために。
けれど私は恋次を試した。
「行くな」という、恋次のその言葉を聞いて、
……恋次に愛されているという事を、
確かなものと、感じたかった。
そんな浅はかな理由で。
恋次は真実私を愛していてくれていた。
だから、私が朽木家から養子に望まれているという事を、心から喜んだ。
心から喜ぶ―――振りをした。
私に確かな身分が出来る、家族が出来る、衣食住に困らぬ生活が出来る、約束された未来が出来る。
すべて私の為に、と。
私が悩む振りをしたから。
ああ、それは恋次にとって、なんと残酷な事だっただろう。
私が、恋次と豪華な生活とを、秤にかけて悩んでいると……そう受け取られても仕方なかったのだ。
そして恋次は、
行くなと叫ぶ、その心を捻じ伏せながら、
私の為に、微笑んだのだ。
私が去った後も、ずっとその痛みを引き摺りながら。
罪深きは一体誰。
姉か兄か、それとも私か。
そして孤独な私は、一体何処へと行けばいいのだろう―――?
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