夜も大分更けて、楓はいつもの様に酒の入った杯を弄んでいた。
 いつ仕事が入るか解らない故、楓は酩酊せぬようにゆっくりと味わいながら酒を飲む。その酒は一級品だった。恐らく戌吊に住む人間の殆どが飲んだことも無い酒だろう。
 楓は戌吊一の女だった。その美貌は広く知れ渡っている。超一級な、女郎。それが楓だ。
 超一級故に、楓を買うにはかなりの金がかかる。その為楓は殆ど仕事をせずに暮らしていた。客寄せだな、と楓は自らをそう分析する。珍妙な獣と同じだ。見世物になっているだけの存在。
 大きく開け放った窓に寄りかかりながら、通りを歩く人の姿を見下ろして酒を飲む。それしかやる事が無いのだから仕方が無い。その緩慢な酒を運ぶ手の動きが不意に止まった。
「―――恋次!恋次じゃないか!」
 最後に見た時とは明らかに違う、もう少年の名残は何ひとつ残っていない大人の男になった恋次が、通りから楓を見上げている。その目の暗さに楓は内心ひどく驚いた。
「―――時間があるかい?あるならおいで。久しぶりに会ったんだ、話でもしようじゃないか」
 恋次は断らなかった。


 楓と恋次の付き合いは意外なほど長い。
 きっかけは楓が恋次に声をかけた事から始まる。店の前で通りを過ぎる人々を見ていた楓は、そこに一人の少年を見つけた。
 回りの人間と明らかに違う空気を纏った、生意気そうな少年。赤い髪を無造作に束ねて、真直ぐ前を向いて歩いていた。そんな恋次を気に入って、楓は自分を抱いてみないか、と恋次に言った。ところが恋次は、『好きな女がいるから』と断った。そんな恋次を楓は更に好ましく思い、以降、楓は恋次の接吻を買い続けていた。愛だの恋だのには発展しない、割り切った関係。
 その恋次は18の時、死神になるべく真央霊術院へと入学したはずだ。恋次が「好きな女」と言った少女と共に。それからもう3年の月日が経つ。
「―――本当に久しぶりだねえ!死覇装を着てるって事は、護廷十三隊に入れたんだね?―――これは、五番隊の印だね?五番隊にいるのかい?」
「今は。―――昨日、十一番隊に入るよう言われた」
「すごいじゃないか!十一番隊ッて言ったら、中でも強い人間しか入れないんだろ?」
「知らねえ」
「確かそうだよ。すごいねえ、あの子供が今では護廷十三隊の十一番隊員かい!」
 楓は微笑んだ。次いで、何気ない風を装って「あんたのあの大事な子はどうした?」と聞いてみた。―――その瞬間。
 それはまるで青い光が恋次の身体から放たれたようだった。びりっと空気を震わせながら、けれども恋次の顔に表情は無い。
「あいつは―――もういねえ」
「え?」
「もういない。何処にも」
 不意に手首を掴まれ引き寄せられ、楓はよろけた。そのまま恋次の大きな身体の下に組み敷かれる。
「―――あいつはもういない。だから俺が誰と何をしようと―――」
 その後の言葉は口にしないまま、恋次は荒々しく楓の唇を塞いだ。



 暗闇の中、恋次は楓の着物の帯を解いた。
 楓は何も言わなかった。ただ黙って恋次のしたいようにさせている。帯を解かれ、着物を脱がされ、乱暴といってもいい荒々しさで身体を弄られても、何も言わずに恋次を抱きしめた。
 その行為は初めての恋次をさり気なく導きながら、楓は恋次を柔らかく抱きしめる。
 その暗い瞳に、恋次が傷ついていると知ったから。
 楓が恋次に抱く愛情は、燃える様な激しい愛情ではなかった。一番近いのは、家族のような―――姉が弟に抱く愛情に一番似ていた。
 それでも間違いなく愛している。傷ついた男を、楓は身体で癒す術しか知らない。恋次もまたそれを求めているのだろう、だからこそ楓の許に来たのだ。
「くっ……」
 噛み締めた唇から漏れた声は、恋次か、楓か。ただ互いの熱い息遣いだけが部屋の中にこだまして、それが二人をその瞬間まで追い立てていく。
 楓の中を蹂躙していた恋次の動きが速くなった。それを感じて、楓の呼吸も速くなる。
「―――っ!」
 仰け反った楓の腰を引き寄せて、更に奥へと己を突き立てる。あ、という小さな悲鳴と共に弛緩する楓の内部に、劣情を迸らせた。
 その瞬間の真白になった頭の中で、遠く黒髪の少女が恋次を見つめていた。泣きそうな怒ったような顔で恋次を見つめるその少女の幻影を、恋次は頭を振って追い出した。





「―――どうしたんだい、この傷」
 行為の後、汗ばんだ肌を夜風にさらして楓は恋次に尋ねた。恋次の胸には包帯がきつく巻かれていて、激しく動いたせいか僅かに血が滲んでいた。
「昨日、虚と対峙した時に付いた」
「……そう」
 楓はぞっとした。その瞬間がありありと目に浮かぶ。
 その時恋次は、自分の生命さえ大した物と考えず、無防備に虚に向かっていったのだろう。全てがどうでもいいと、虚無と化したあの瞳で。
「……今日は泊まっていくかい?」
「いや、もう帰る。明日も仕事だからな」
 それをいい潮時と思ったのだろう、恋次はあっさりと立ち上がった。屏風にかけてあった己の服を身に纏うと、まだ一糸纏わぬ姿のままの楓を見下ろして「……悪かったな」と呟いた。
「何で謝るのさ?何かあんたは悪い事をしたって言うのかい?」
「……また、来る」
「そうかい?期待しないで待ってるよ」
 わざと軽く応えて楓は横になった。見送るつもりは無い。恋次もそれは望んでいないだろう、あっさりと背中を向けるとするりと部屋から表へ出て行く。
 ―――あまり、無茶するんじゃないよ。
 心の中でそう声をかけて、楓は目を閉じた。
 恐らく恋次が再びここに現れる事は無いだろう。「あの子」を知っている私に会うのは、同時に恋次も心に「あの子」を思いださせてしまうだろうから。
 「あの子」―――一体どうしたんだろう。
 恋次の苦しみは、間違いなく「あの子」から来ている。
 その苦しみのまま、虚と向き合うのは危険すぎる。
 ―――どうか、無事で。
 楓は小さく祈りの言葉を呟いた。





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