冬の始まりの気弱な朝の陽射しさえ、今のルキアの目には強すぎるものだった。
結局、昨夜も殆ど眠る事が出来なかった。昨夜だけでなくここ数日続いているその状態に、身体は重く疲労が纏わりついている。
それでもルキアは前を向いて歩く。変わったことは何一つないように、「朽木」の名に相応しく。
いつもと同じ道を通り、十三番隊隊舎に向かう。周りには同じ十三番隊の隊員達が、それぞれの所属する班の部屋へと向かっている。
明るい声、朝の挨拶の交わされる中、その周りの隊員たちの声が不意に、ボリュームを下げるように細く小さくなっていく。同時に目の前が白くなっていくのに気付いた。おかしいな、と不思議に思っている内に、総ての音と景色が消えた。
ぼんやりと開けた瞳に空が見えた。
薄い水色の、高く遠い空。
ふと、思った。どうして空を見ているんだろう。何故視界に空が映るのだろう?
そうしている間に、白い闇に消されていた周りの景色が徐々に輪郭を取り戻し、消えていた音も段々とその騒音をルキアに伝え始める。
「……木さん、朽木さんっ!」
「おい朽木、聞こえるかっ!」
「……小椿殿……?清音殿……?」
「あっ、気付いた!大丈夫!?私の事わかる!?」
「たった今おめーの名前呼んだじゃねえか、呆けた事言ってんじゃねえよこのハナクソがっ!」
「こちらこそっ!!」
頭上に仙太郎と清音の声が聞こえ、それでやっとルキアは自分が地面に横たわっている事に気付いた。支えている清音の力を借りて、ルキアは額に手を当て上体を起こす。
「私は……?」
「倒れたんだよ、急に」
ルキアは周りを見渡した。足を止めて見入っていた他の隊員たちも、意識を取り戻したのを見たせいか、または倒れたのがルキアだと知った故か、各々の部屋へと向かい歩き出した。徐々に人の輪は崩れ、辺りに人はいなくなる。
「すみません、もう大丈夫です」
「何言ってんだ、まだ青い顔してんじゃねーか」
「そうだよ、救護詰所に行こ?今連れてってあげるからね」
「いえ、大丈夫ですから」
頑なにそう言うと、ルキアは立ち上がった。そのまま歩き出す。
「ダメだって朽木さん!」
「朽木ィ!またぶっ倒れるぞ!……っと!」
仙太郎が息を呑んだのは、前を行くルキアの足がふらついて大きく身体が傾いだからだ。慌てて手を伸ばそうとした仙太郎のその横を、すっと影が通り過ぎる。
「意地を張っても、身体は休みたいと言っているぞ」
ルキアの身体が再び倒れこむより速く、大きな手がしっかりとルキアの身体を支えていた。白い長い髪が、主の俊敏な動きの余韻で揺れている。
「ああっ、隊長!」
「よお、仙太郎、清音。久しぶりだなあ」
「もうお身体は大丈夫なんですか?」
「うん?大丈夫だ、元々。いやちょっと寝てたら随分時間が経ってて吃驚したぞ」
頭を掻きながら笑う浮竹の身体が病弱だと言う事は周知の事実だ。そのハンデを物ともしない確かな力と、そして傍にいる人間を安心させる笑顔と気質で、彼の十三番隊隊長の座は揺るぎない。
「朽木も久しぶり。なんだ、また痩せたんじゃないか?ちゃんと喰ってるか?」
「浮竹隊長……」
「大体朽木は真面目すぎるぞ。少しサボるくらいの気持ちでいるのが丁度いいんだがなあ」
さて、と浮竹はルキアを抱え上げ、「仙太郎、清音。朽木を救護詰所に連れて行くから遅くなると、海燕に伝えておいてくれ」と告げると、ふたりの返事は待たずに次の瞬間には姿が見えなくなった。
「…………」
仙太郎と清音は黙って顔を見合わせる。
浮竹の魂胆―――勿論ルキアの身の心配は本物だが、それにかこつけてルキアと話をするという魂胆は明白だったが、隊長大好きな二人は敢えてそれを口にはしなかった。
四番隊の総合救護詰所に有無を言わずに連れて来られ、そのままベッドに休まされたルキアは、横に椅子を持って来て座る浮竹に先程から何度も言っている言葉を繰り返す。
「あの、本当にもう大丈夫です」
「まあまあ、たまにはいいじゃないか」
浮竹の返事も、何度も繰り返されたものだった。笑顔の浮竹に、それ以上何も言えずルキアは天井を見上げる。
―――この件は、兄様に伝わってしまうだろうか……。
知らず吐いてしまった重い溜息に、浮竹の視線が物問いた気にルキアに向けられた。ルキアは気付かずに、自分の考えに沈みこむ。
―――今は、出来るだけ普段と変わらぬ態度を取らなければならないのに……何事もなかったように、何事にも心囚われていないように。
今でも見られているかもしれない。紛れもない監視行為、ルキアが恋次を想う事さえ禁じたあの老人の監視の目。
「どうした?」
純粋にルキアを心配している浮竹のその視線に、ルキアは「いえ」と答えた後、ふと気付いた。
自分の懸念を―――確認する方法が。
「―――気配、はないでしょうか。―――ここを見ているような」
言葉を濁すルキアの意図を浮竹は正確に掴んだ。そのまましばらく意識を集中させ、知覚を四方へと向ける。
「―――不審なものは何も、誰もいないようだ」
その浮竹の言葉に、ルキアはほっと息をつく。これでいつも見張られている訳ではないと安心する事ができた。昨日も―――もしかしたら、見られていないのかもしれない。恋次は―――大丈夫かもしれない。
「白哉、か?」
その言葉にルキアの身はびくん、と反応した。思わず顔を上げるとそこには、真剣な顔の浮竹がいる。
「白哉がお前を……監視しているのか」
「違います!」
「しかし―――」
「本当に違うんです、兄様はそんな事は致しません。兄様は、……」
ぽん、と頭を優しく撫でられてルキアは黙った。宥めるようなその動きが、ルキアの気を静めさせる。
「悪かった。そうだな、白哉がそんな事をする訳がない。詰まらぬことを言ってしまった、許して欲しい」
「いえ……」
「ただ、な。お前を見ていると、時々辛くなるよ。お前があまりにも無理をしているからな」
「無理など……っ!」
「してない、と言えるか?ならば何故お前は笑わない?何故お前は今日倒れたんだ?」
「それは、……私が不甲斐ないだけで……」
「そうやって何でも自分のせいにしてしまう所が不健全だと思うぞ」
「…………」
「もう少し気を緩めろ。家でそれが無理ならば、俺達といる時くらいはお前らしくしろ。張り詰めた糸は、切れるしかないんだからな」
「……はい」
素直に頷いたルキアの肩に手を置くと、浮竹は「とりあえず今日はゆっくり休め」と幼子に言い聞かせるようにそう言った。
「家の方がいいなら家に帰っていいぞ。ここの方が気兼ねなく休めるならこのまま此処に居ていい。何にしろ今日は一日ゆっくり休め」
「ですが……」
「今日は仕事に来るな。これは隊長命令だぞ」
にやっと浮竹は笑う。つられてルキアも小さく微笑んだその時、部屋の扉がノックも無く開かれた。
「大丈夫か、朽木」
「海燕殿……」
「何だ来たのか」
「何だはないでしょう、隊長。―――で、どうだ?大丈夫なのか?」
「はい、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「迷惑なんてかかっちゃいねーよ。俺に迷惑かけてるっていうならそこに座ってる人の方が何倍も迷惑掛けてるし」
素知らぬ顔の浮竹に近付くと、海燕は「久々に出てきたんだから溜まった書類片付けて下さいよ」と、有無を言わせず浮竹を連行する。
「朽木、お前は今日休み。いいか、仕事に来んなよ!」
浮竹と同じ言葉をルキアに投げかける海燕に、ふたりが自分を心配しているのだと痛いほど伝わって、ルキアは頭を下げた。
「はい。……お言葉に甘えさせていただきます」
「よっしゃ、だけど明日はいつも通り元気に来いよ。待ってるからな!」
「こら、私はもう少し朽木とふたりで話が……」
「隊長が居ると朽木が休めないでしょうが!ほら、仙太郎と清音が待ってますよ!」
「わかったよ。じゃあな、朽木。明日、こいつの居ない所で二人で話そうな」
「何で俺がいちゃダメなんですか」
「そりゃあ朽木と二人だけの方が楽しいからだ」
ベッドの上で頭を下げて二人を見送ると、途端に部屋の中は静かになった。誰も居ない白い部屋は寒々しく、ルキアはベッドに横になる。
身体はもう大分楽になっていた。浮竹に連れて来られ、横になっていた時間が長かったので、芯に残っていた纏わりつくような疲労も軽くなっている。
布団にくるまりながら、突然出来た自由な時間に、ルキアはすべき事も無くただぼんやりと天井を見上げる。
つい先日、怪我を負った恋次の元へと来た、その時と同じ病室。
握り締めた手、交わした会話。
『なんだか久しぶりにお前と―――』
恋次はその後になんと言うつもりだったのだろう。『会った気がする』、『話した気がする』?……どちらにしても、それは恋次にとって夢の中の話だ。現実の事ではない。
一度別れた道は、交わる事は無い。
ふと気付けば、思考は恋次に染められている。逢えないというのに恋次の事を考えている自身の未練に、ルキアは遣り切れなくなる。
―――家に帰って休むか……
このまま此処に居ても、四番隊の迷惑になるだけだろう。倒れたのも唯の睡眠不足と疲労のせいだ。虚との対峙で運ばれた重症患者も此処には大勢居る。ただの疲労で此処に居るというのは居心地が悪かった。
起き上がって家へと帰るために身支度を整えていると、部屋の扉が、小さくノックされた。
「はい」と答えると扉が開き、そこには四番隊の―――まだ入隊したばかりと思われる、幼さを残した少年の顔があった。
人懐こそうな顔をルキアに向けると、少年は、
「朽木ルキアさんですか?」
と尋ねた。
「そうだが」
ルキアに少年との面識は無い。何故自分の名前を知っているのかと、少し身構えながら答えたルキアの様子に気付くことなく、少年は「ええと、伝言を預かっています」とぺこりと頭を下げて言った。
「伝言?」
「はい、阿散井さんという方から」
思わずルキアは息を呑んだ。
―――恋次が伝言?
「……どんな?」
「はい、ええと……『話がしたい。今日の午後2時に、昔ふたりが住んでいた家で』……です」
「2時に……家で」
ルキアは時計に目を走らせる。まだ10時。今からならば、戌吊でも充分に間に合う時間だ。
「何処でこの伝言を……?」
「はい、僕がここに入る時に呼び止められまして、中に入る事が出来ないので貴女に伝えて欲しい、と」
ルキアは思いも掛けないその伝言に、しばらく呆然と立ち尽くした。
『話がしたい』―――恋次が?私と?
此処ではなく、戌吊の、私達が暮らした家で。
昨日、あんな事があった後で。あんな事を私がした後で―――
―――いや、だから、か。
私の真意を知りたい、と?
私を信じてくれる、と?
「では確かにお伝えしました」
そう少年が告げて、それでルキアは我に返る。
「……ありがとう」
ルキアの礼に、ぺこりと頭を下げて出て行く少年の後姿を見つめながら、突然の出来事にざわめく胸に困惑したまま、ルキアは部屋に一人立ち尽くしていた。
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