ばいばい、とかけられる声に笑顔で手を振り返し、同級生の姿が見えなくなった途端、花織はふうと溜息を吐いた。
 背後の校舎を振り返る。
 琥一のクラスの場所に目を向けて琥一の姿が見えないかと探してみるが、1月の寒空の所為でどの教室も窓をぴたりと閉めている。
 窓硝子の向こうに琥一の姿を見つけることが出来ず、花織は肩を落として校門に向かって歩き出した。
 ――琥一が補導されたのは昨日のことだ。
 昨夜の内に誤解とわかり家に帰れたが、学校帰りに補導された所為でその瞬間を目にしていた生徒は多かった。補導される一日前、明らかに喧嘩で出来た傷を顔に付けていた件でも噂になっていた上で昨日の補導だ――今日の朝には琥一の補導は既に学校中の噂となっていた。
 琥一に近しい友人たちは「桜井琥一が喧嘩をした」「桜井琥一が警察に捕まった」という噂話だけで判断せずに何か事情があったのだろうと理解してくれるが、琥一を噂だけでしか知らない下級生や他クラスの生徒は一人歩きする噂話を頭から信じている。今朝登校した琥一を見る視線は、畏怖と怯えと――嫌悪の目だった。何故こんな危険な生徒がこの学校に通っているのか、と咎める視線は明らかに排他的な意図をもって琥一を見る。
 そんな視線を向ける生徒たちに憤っているのは花織だけで、琥一自身は無表情にそれをやり過ごしていた。誰に弁明する訳でもなく、いつもと変わらない態度で授業を受け、いつもと同じ態度で休み時間を過ごし――けれど放課後に生徒指導室に呼ばれていることを、昼休みを共に過ごした花織は琥一から聞いていた。
「でも――だって、琥一くんは何もしてないじゃない」
「だからその辺の事情を説明しろってことなんだろ。別に吊し上げ食らう訳じゃねえよ、心配すんな」
 僅かに視線を逸らしながら琥一は缶コーヒーを口に運ぶ。
 そう、今朝から――琥一は花織と視線を合わせようとしない。
 昨日、琥一が警察に連れていかれたあの時から、ずっと琥一の顔も見られず声も聞けなかった花織は、いてもたってもいられずに通学路で琥一を待っていた。警察に補導されて琥一がショックを受けていると思ったし、もしかしたら取り調べで酷いことを言われて傷付いているかもしれない。うろたえるだけで自分が何の役にも立たなかったことも謝罪したかった。
 そんな、様々な思いを抱きながら待っていた琥一が、いつもと変わらぬように現れ――けれど明らかに違うのは、花織と視線を合わせないということだった。
「昨日は迷惑かけて悪かった」と謝った時も、花織と視線を合わせることはなかった。顔は向けるが、真正面から見ることをしない。
 恐らく他の者は気付かない。真正面にいる花織だけがわかることだ。そしてもう一人――花織に相対する琥一だけが。
 そんな琥一に不安を抱いて、「先生のお話が終わるまで待ってるから」と言った花織に対して琥一が返した言葉は、「何時になるかわからねえから先帰ってろ」という語気の強い言葉だった。
 そして続けて「お前はもう教室帰れ」と。
 ――取り付く島もない声だった。
 完全な拒絶。関わり合いを避ける冷たい声。
 昨日――赤い光が明滅する中、ちらりと花織に視線を向け、「知りません」と警察官に向かって言った琥一の声と同じ。
 何の感情もない声だった。
 切り捨てるような。
 突き放すような。
 その声と同じ声音で琥一は花織に「帰れ」と命じたのだ。
 そのことが花織をひどく打ちのめす。
 もう、以前のように話してくれないのではないかと――以前のように笑いかけてはくれないのではないだろうかと。
 琥一の笑った顔が好きだった。
 笑うのは苦手なんだよ、と苦り切った顔でそう言った琥一の、時折見せる笑顔が好きだった。花織をからかう時の意地悪そうな笑顔、ピンボールでスコアを塗り替えた時の笑顔、青の洞窟の中で大きな声を出せば大丈夫だと花織に見せてくれた笑顔。どの笑顔も好きだった。自然なその笑顔を見る度に嬉しくて、その笑顔を知っているのは家族以外では自分だけだということが嬉しくて、もっとその笑顔が見たくて――
 纏わりついてたのかもしれない。相手の気持ちも考えず。もしかしたら邪魔だったのかもしれない。しつこかったのかもしれない。
 嫌われてしまう程。
 あんな風に、突き放す言葉を言われる程。
「……嫌われちゃったのかなぁ」
 言葉にしてみると、それが真実のような気がして涙が滲んだ。慌てて手の甲で涙を拭う。そのまま俯いて校門を通り過ぎようとした花織は、声をかけられるまで全くその存在に気付いてはいなかった。
「おい、ネェちゃん」
 聞き覚えのあるその声にはっと顔を上げる。
 何度か見たことのある、余多校の制服を着た男が二人。
 髪を金色に染めた体格のいい男と、小柄だが眼つきの鋭い男と。
 その二人が花織を見て笑った。
「おう、丁度良かった。ネェちゃん、琥一のスケだろ? ちと琥一呼んで来ちゃくれねえかなあ」
 小柄な男がにやりと笑って言った。
 その笑顔に瞬間的に身体がかっと熱くなる。
「――琥一くんに何の用ですか。もう、琥一くんは関係ないでしょう」
「ところが関係あるんだよなあ。まあ昨日の件と、一昨日の件でよ」
「そうそう。なんたって琥一が昨日サツに連れてかれたのは俺らが――」
 ふざけた話し方。怪我をさせたことに謝罪も感じさせないその軽薄な話し方。一方的に琥一を傷付けておいて、その所為で昨日は警察に誤解されてしまったというのに。
 その所為で、琥一は謂われない非難を浴びているというのに。
 この人たちの所為で。
 この人たちの所為で!
 ばしっという鋭い音に、関わり合いになるのを避けるために視線を逸らしていた帰宅中の生徒たちが、思わずその音の源を振り返る。
 そこに見たのは――――







 
 指導室に来るように言われていた時間は15分後だ。潰すには半端な時間を持て余し、琥一は足を投げ出して椅子に座る。顔の傷と昨日補導された噂が広がっている所為だろう、今日は殆どの級友が琥一に話かけることもなく遠巻きに眺めてはひそひそと噂話をしている。
 琥一には気付かれていないだろうと、影で話されているそれら全てを琥一は把握していた。噂話をしている生徒たちは気付かないだろうと思っているのだろうが、そういったことは当事者にはすぐ察してしまうのだ。察する意図はなくとも。
 めんどくせえ、と琥一は内心で呟く。
 そうして気が付いた。――こういった空気は久し振りだということに。
 中学時代はこれが日常だった。そしてこの学校に入学した当初も。何年もそれが普通で、それが当たり前だった筈なのに、今はそれが当たり前の日常ではなくなっている。
 原因は――わかっている。自分ではない。否、自分が変わった所為だろうが、その変化の根源は――
 脳裏に浮かんだ顔に、昼休みの会話を思い出す。待ってる、と言われた言葉に帰れと強く言った自分の声。その言葉に哀し気に目を伏せた顔。
 ――久々に、思い知らされた。
 一年の時は始終思っていた。けれどその思いも自分が変わっていくと共に薄れていった。もしかしたら、と期待を。そう錯覚した。何も変わっていないのに。そんな資格はないのに。

『もしかしたら』
『自分は傍にいてもいいだろうか』

 ――錯覚だ。
 勝手な思い違いだ。
 思い上がりも甚だしい。
 自分はあいつの傍にいていい人間ではない。

 警察にすら名前を知られている自分。 
 警察官が顔を見ただけで素性がわかるなど、普通に生活していた人間にはあり得ない。
 そして自分は――普通に生活してきた人間ではなかった。
 あいつの傍にいても過去が変わる訳じゃない。自分がしてきた行為、警察が把握している自分の過去は決して消えない。
 挙句、あいつの住所と氏名まで警察に控えられた。
 名前を呼ばれて振り返った、その時目に入ったのは、警察に連行される俺を見る、事の次第に怯えたあいつの顔と、あいつを見る周囲の目――俺を見るような、俺に向けられるのと同じ、蔑みの目。
 あいつは他人からそんな目で見られる奴じゃない。
 そう見られたのは、俺と一緒にいたからだ。
 俺と一緒にいたから。
 俺と同類と思われた。
 警察沙汰になるような事に手を染めている奴と思われたのだ、俺といたから。俺の所為で。
 思い知らされた。
 自分は、あいつの傍にいていい人間じゃないことを。
 腕時計を見ると針はさっき見たときから10目盛ほど進んでいる。そろそろ行くかと気だるく立ちあがった琥一の耳に、自分のではない携帯電話の着信音が入った。視界の隅で男子生徒が携帯電話を取り出し話している。鞄を手に取り歩き出した琥一の背後で、「ええっ? 何で俺が? ……わ、わかったよ」と会話している声が耳に入ったが、特に気にすることなく教室の扉に手をかけた。
「桜井」
 かけられた声に無言で振り返る。そこには4月からこの1月まであまり会話を交わしたことのない級友が、居心地悪そうに琥一を見ている。
「何だ?」
「電話。平から」
「ああ?」
「平。何かお前に用があるんだって。変わってくれだと」
 平、と言われて思い付くのは一人だけだ。花織と琉夏絡みで顔を知り、一度言葉を交わした程度の過去しかない。
 差し出された携帯電話を訝しげに受け取ると、琥一は「何だ」と平に話かけた。
『今、人に聞いて――』
 すぐに返された平の声はひどく切羽詰まったものだった。焦りが色濃く出た声。叫ぶような勢いのその声に琥一の眉は寄る。
『鈴宮さんがさっき、余多門高校の生徒に連れていかれたって』
「何だと!?」
 突然怒鳴った琥一に、電話の内容を知らない生徒たちがびくっと竦み上がる。一瞬にして静まり返った教室に気付くことなく、琥一は携帯電話を握りしめた。
「どういうことだ! どこに行った!?」
『僕は見ていないんだ。見ていた友達に今聞いた。校門で鈴宮さんが二人組に話しかけられて、それで鈴宮さんが一人をひっぱたいて』
「ひっぱたいた? どういうことだ!」
『わからないんだよ、そいつも離れて見てたから! ただその後、鈴宮さんその二人に連れて行かれたって! 誰も何処に行ったかわからないんだ!』
 焦りと混乱からか、平は大人しそうな普段の様子からかけ離れた厳しい声で怒鳴りつけるように琥一に向かって叫んでいた。それだけ切羽詰まっているのだろう。琥一の電話番号がわからずに、琥一の同じクラスの友人の携帯電話を介して連絡をしてくるほど。
『鈴宮さんに電話しても出ない。僕も探すけど――桜井君、鈴宮さんを探してくれ!』
「わかった。それと、もしお前が見つけたらすぐ俺の携帯に連絡しろ。暗記できるか?」
『大丈夫。何番?』
 自分の携帯電話の番号を二度繰り返し、『わかった、じゃあ』とすぐに切られた電話を、傍で目を丸くしている持ち主へ「悪かったな」と返す。野次馬根性剥き出しで「桜井、今の電話」と続ける言葉を無視して鞄を自分の机に向かって放り投げ、琥一は教室から飛びだした。
「ったく、何やってやがるあのバカは……!」
 口に出すのは悪態の言葉だが、その声はひどく焦りの色が含まれていた。廊下を全速力で走る琥一をすれ違う生徒たちは驚きの表情で振り返る。たまたま居合わせた教師の叱責の声も無視して、琥一は校門へと最速で向かった。
 校門で立ち止まっている者はいない。花織の一件を見ていた者は既にこの場を離れたようだ。誰にも花織の行く先を聞けず、琥一はぎりっと唇を噛む。
 携帯電話を取り出し、祈るような気持ちで花織の番号を押す。「さっさと出やがれ!」と送話口に呟いたが、――呼び出し音だけが虚しく琥一の耳を打った。
「くそっ」
 連れていくならどこに行く? この辺はあいつらも詳しくない筈だ。大体何のために連れ出した? 花織は何故付いて行った? 
 行き先がわからない以上、琥一は闇雲に走る。平が電話をしたのは花織がいなくなってそんなに時は過ぎていないようだった。せいぜい数分、そこから更に数分。走っている訳ではないだろうから、そう遠くには行ってはいない筈だ。
 間違いなく花織を連れ去ったのは加藤と小針だろう。下校時に花織も何度か顔を合わせたことがあった。その時に顔を覚えられたのだろう。それも――自分と一緒にいた所為だ。
 やはり一緒にいるべきではなかった。
 傍にいてはいけなかったのだ。
 花織、花織、花織。
 必死に名前を呼びながら、琥一は花織を探して全力で走った。冬の寒さも感じない。汗が流れる程、琥一は焦燥に駆られながら必死で花織の姿を探す。
 寒さの所為で往来する人の姿は少ない。足を止められる場所を探す。工事現場、空き地、コンビニ――駅前に行くほど時間は経っていない。それに駅前には人が多すぎる。明らかに普通の生徒ではない加藤らと真面目そうな花織とでは人目に付き過ぎる。人の多い所にはいかないだろう。あとは――
 公園。
 二日前、花織と会った、あの公園。

 花織の傍にいてはいけなかった。
 何故今日自分は花織の傍にいなかった。
 相反する事象、けれどどちらも自分を責める言葉。

 無事でいろと祈りながら、琥一は公園へと向かい全力で走った。




 
 
 荒い息で駆け付けた公園に、後ろ姿でも間違えようのない花織を一瞬で見付けた。
 加藤と小針を前に、何かを話している。小さな身体は大柄な加藤の前でまるで子供のようだ。表情は見えない。怯えているのか、憤っているのか――とにかく間に合った、怪我はしていない。安堵しながら琥一は「花織!」と叫んだ。
 弾かれたように花織が振り返る。驚きの表情を浮かべる花織よりも、その背後に立っている加藤と小針に向かい、琥一は「手前ら……ッ!」と琥一は拳を握りしめ殴りかかった。
「待って! 違うの琥一くんっ、やめて!」
 殴りかかる琥一と加藤の間に、慌てたように花織がその身をすべり込ませた。身体で庇うように加藤の前に立ち両手を広げて琥一を制止する。それでも興奮した琥一が止まらないと見るや、花織はぶつかるように琥一に抱きついた。
「違うの、琥一くん!」
 必死に止める花織の声に頭に上っていた血が一瞬で冷える。鍛えている身体は重く、華奢な花織では受け止められる筈がない。走っていた勢いでぶつかったのだ、花織の身体に負担があったことは間違いない。
「……の、バカ!」
 しがみついている花織の背中に手を回しその身体を支えながら「大丈夫かっ!?」と引き上げた。力の強い琥一は軽々と花織の身体を抱え上げる。
「大丈夫。琥一くんは? 傷は?」
「ねえよそんなもん。どっか打ってないか。怪我は?」
 怪我という単語を口にし、琥一は現在の状況を思い出した。目の前の、花織を連れ出した余多門高校の二人を睨みつける。
「どういうこった、ああ?」
 地を這うような不穏な低い声を出し、凶悪な視線を送った先は――何故か二人揃って毒気を抜かれたような顔だった。唖然としたようなその表情の訳は、琥一の真横からおずおずとした声で告げられる。
「琥一くん、あの、私、大丈夫だから……」
 余多門の二人から引き離し、庇うように抱きかかえたままだった花織からそう言われ、琥一は慌てて花織の身体を地面に下ろした。それでも背後に庇うことは忘れない。
 未だ険しい視線を目の前の二人に送っている琥一を見、花織は慌てて琥一の袖を引っ張った。
「違うの、琥一くん。誤解なの。私が悪いの」
「ああ?」
「加藤君たち、琥一くんを心配して来てくれたの。昨日、余多門高校の人たちの喧嘩の所為で、関係無い琥一くんが巻き込まれちゃったって聞いて、それで」
「……あぁ?」
「おう、災難だったな琥一」
「その前の俺らがフクロにした件で、余多校と喧嘩してたってサツに目ぇ付けられて捕まったって聞いてよ」
 まあ様子見に来たんだけどな、と言った後に二人は花織を見てげらげらと笑った。花織は居心地悪そうに小さくなっている。
「あの、ごめんなさい。痛くないですか?」
「ネエちゃんがいくら本気でひっぱたいたって蚊が刺したくらいにも感じねえよ。逆にネエちゃんの手の方が痛かったんじゃねえのか」
 豪快に笑う加藤に向かい、花織は「ごめんなさい」と深々と頭を下げた。話が見えない琥一に、小針がにやにやと笑う。
「お前を呼んでくれって言ったらよ、いきなり加藤がひっぱたかれたんだよ。俺らがお前に喧嘩売りに来たと思ったらしくてな」
 まあ今までが今までだったしな、と面白そうに小針は笑う。
「いや、しかも俺じゃなくて加藤をひっぱたくからよ、わざわざデカイ方狙うなんざ随分気が強いネエちゃんだな」
「………………」
 無言で花織を見遣る。焦っているのか、居た堪れないのか、花織は顔を真っ赤にして「ごめん……」と琥一を見上げている。
「問答無用で叩いちゃって……それで、誤解だったってわかって……ちゃんと謝りたかったんだけど、私が叩いちゃった所為で皆見てるし、だから静かな所できちんと謝ろうと……思って……ここに……」
 無言の琥一に、花織はふにゃりと眉を下げて「……怒ってる?」と恐る恐る聞いてみた。その答えは、ぎろっと音を立てる程の琥一の視線で、花織は思わず竦み上がる。
「今まで短気だ喧嘩するな手を出す前に考えろ話し合いで解決しろだとか散々俺を責めておきながらこの体たらくか! 俺より手が速いじゃねえかしかも喧嘩売っていい相手かどうかもわからないのか手前は! その頭の中に何が詰まっているのか言ってみろ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
 頭を抱えてしゃがみこむ花織に更なる追撃をしようとした琥一は「まあまあまあ」と小針に制されて憮然と黙る。
「一昨日にゃ琥一が柄にもねえこと言い出すから一体何があったかって思ったけどよ」
 その言葉に琥一が反応する前に、花織の顔が上がった。毅然と小針を睨みつける。
「そのことだけど、無抵抗の琥一くんを二人がかりで怪我させるのは酷いと思うっ!」
「だからお前は見境なく噛みつくな! いいんだよそれは俺が納得してんだからよ!」
「でも、琥一くんこんなに怪我してっ! ひどいよ、こんな」
「……そりゃこんな可愛いネエちゃんがいたら先のこと考えるわなぁ」
 しみじみと加藤が呟き、小針が笑いながら頷いた。二人揃って「悪かったな、琥一」と手を上げる。
「まあこの先ゃお前にもルカにもちょっかい出さねえよ。一昨日でケジメつけたしな。ネエちゃんも安心しな」
「ネエちゃんも困ったことがあったら俺らに言ってこいや」
 何故だかとても楽しそうに、じゃあなと笑いながら二人は去って行った。




 
 そして二人を見送った後の琥一と花織の間に、微妙な空気が流れる。
 つい勢いで普段通りに接してしまったが、琥一は今後花織と距離を置こうと決めていたのだ。
 ――自分の傍にいれば花織も自分と同じような目で見られてしまう。
 ふ、と視線を逸らせたその僅かな動きで、花織は琥一が再び壁を作ることに気が付いたのだろう。花織の手がぎゅっと琥一の手を握る。
「琥一くん」
「…………何だよ」
 花織の顔から眼を逸らす琥一に、花織の表情が強張った。
 嫌われているのかもしれない。
 面倒に思われているのかも。
 それでも、琥一は――今、ここにいる。
 自分を探しに来てくれたのだ、あんなに息せき切って走って。
 嫌われていないと仮定して。
 それならどうして視線を逸らすのか。
「ちゃんと私を見て。お願いだから、ちゃんと私を見て話をして」
 思い詰めたようなその声に、琥一は従わざるを得ない。ぎこちなく花織と視線を合わせると、切羽詰まったような、そんな余裕のない花織の瞳がそこにはあった。
「私、琥一くんの傍にいたらだめ? 邪魔してる? 迷惑?」
「――何を」
「だって琥一くん、今朝から私を見ない」
「それは」
「それは?」
 再び琥一の視線が背けられる。「琥一くん」と袖を引くが、琥一は視線を戻さない。
「――迷惑かけてんのは、俺の方だ」
 ぼそりと呟かれた言葉に、花織は琥一を見上げた。琥一は視線を逸らせたままだ。
「俺といるとお前に迷惑がかかる。昨日だって――そうだ。警察に名前を控えられた」
「そんなこと、」
「俺といなきゃお前は警察と関わることはなかった。俺といるから――お前まで俺と同類に見られちまう」
 花織の反論を塞ぐ形で言葉を被せる。恐らく花織は否定する。そんなことないよ、と。
「――よかったぁ」
 ところが返って来た花織の言葉は、心底ほっとしたような、そんな安堵の言葉で――思わず花織に視線を戻した琥一は、
「!?」
「琥一くんは優しいね。ちゃんと他の人のことを考えてるね。優しい琥一くん――でも今回は、私に対しては不正解です」 
 ぶぶー、とブザー音を口で言いながら、花織は むに、と琥一の頬をつまんだ。唖然とする琥一の前で、花織はにっこりと笑う。――誰をも魅了する笑顔で。
「琥一くんに嫌われたかと思った。よかったあ、嫌われてなかった……!」
 むにむにと琥一の頬をつまみながら花織は「よかった」と何度もつぶやく。あまりのことに暫く無言だった琥一は、ようやく「……おい」と唸り声を上げた。
「何だこりゃ。何の嫌がらせだ」
「お仕置きですよ。今日一日私を無視した罰です」
「あのなあ!」
「迷惑じゃないよ。そばにいてくれないほうが嫌。優しい琥一くんと同類って皆に思われるなら嬉しいな」
 心底嬉しそうに笑う――花のように。
「かっこいい琥一くんと、頼れる琥一くんと、芯の強い琥一くんと、照れ屋な琥一くんと、大好きな琥一くんと一緒だと思われるのは、私にはとても嬉しいこと、だよ?」
 大好きな琥一くん。
 ――そこに深い意味はないのかもしれない。友人として、幼馴染として。その意味で言ったのだろう、LOVEではなくそれはLIKE。
「だから一緒にいようよ。一緒にいて?」
「――俺は、昔」
「知ってるよ。たくさん喧嘩したんでしょう? 知ってる。その上で私は一緒にいてって言ってます。だから琥一くんが私に迷惑って思う理由なんて一つもないんだよ。私がお願いしてるんだから」
 ――過去のことを。
 花織は知らない。何があったか、自分が何をしてきたか。
 だから躊躇する。
 傍にいたいのは自分の方だ、最初から――幼いあの頃からずっと。
 あの時離れなければ――その延長線上に存在する今は、現在とはもっと違うものになっていたのかもしれない。
 花織の目を見られないような、そんなことは花織の前で絶対に出来ない筈だから。
 けれどそれは戯言だ。過去は変えられない。自分がしてきたことも。
「だが、俺は」
「まだ言うか!」
 てのひらで琥一の口を塞ぎ――花織は大きな目で琥一を睨む。
「は、恥ずかしいこと言うから一回しか言わないからね! ちゃんと聞いてねっ!」
 睨みつけながら花織は言う。まるで喧嘩を売るような眼つきで、きっと琥一の目を真正面から見据え――
「過去なんてどうでもいいの。私が傍にいなかった琥一くんは私の琥一くんじゃないもの。でも今私は琥一くんの傍にいるし、だから大切なのは今とこの先琥一くんと一緒にいる未来なの。だから離れたりしないで、そんなことしたら今も未来も灰色になっちゃうから!」
 言い終わった瞬間、かーっと顔を赤くして花織は目を泳がせた。今度は花織の方が視線を逸らせて琥一と目を合わせようとしない。
「……花織」
「忘れて今のは忘れて感想はいらないからすぐ忘れて! でもそばにいてっていう所だけ覚えてて!」
 きゃーっ、と悲鳴を上げながらパニックを起こした花織は、琥一の口を手で塞ぐ為につま先立ちになっているという不安定な姿勢を忘れた。バランスが崩れた次の瞬間、ぐらりと景色が揺れる。
 きゃ、と悲鳴を上げて倒れる花織の腰を、琥一の大きな手が支える。花織の体重がかかってもびくともしない強い腕。
「……わかった。無視して悪かった。もう二度としねえ。そばにいる」
 溜息と共に吐き出されたその言葉に、花織の顔が輝く。が、その後に続く「じゃなきゃ危なっかしくてしょうがねぇ」と呆れたような、諦めたような琥一の呟きに花織の顔がお怒りモードになった。
「どうして子供扱いするの……!」
「自分の行動を顧みろ!」
 その言葉に「あ」と花織は視線を逸らす。琥一の説教が始まること間違いなしの自分の行動を思い出してしまったせいで。
「あ、あの」
「まださっきのじゃ言い足りねえぞコラ。寄りによってひっぱたくたあどういうこった! 手前が怪我してたらどうすんだ! もっと後先考えやがれ!」
「あの、あの」
「それとろくに知らねえ野郎に付いて行くな! 何かあったらどうすんだ、子供扱いすんなって言うならそんな無防備な行動すんじゃねえ!」
「――ごめんなさい」
 しょぼんと頭を下げる花織を見下ろしながら、琥一は再び深い溜息を吐く。
「……怪我がなくて良かった」
「ごめんなさい……」
 もう一度頭を下げる花織は、うさぎが耳を垂らして項垂れているように見える。くそ、これ以上怒れねえ、と内心で毒吐きながら琥一は「もういいから平に電話しとけ」と頭をくしゃりと撫でた。
「平君?」
「お前を探してる。心配してたぞ」
「え、あ、マナーモードのままだった! わあ、悪いことしちゃ……って! 琥一くん、先生との約束……!!」
 言われて思い出し腕時計を見遣ると、既に指定された時間から30分経過している。
「……あー、まあこれから行きゃいいだろ」
「ど、どうしよう! 私、先生に説明するから……っ」
 でもその前に平君に電話、その後大迫先生に電話した方が、ううん氷室先生に、それよりとにかく学校戻らなくっちゃ、でも平君には先に電話しないと、と右往左往する花織を見、琥一は再び深く溜息を吐いた。











 護られているのは自分の方だ。
 道を間違えそうになる度に、何度花織に救われたことか。


 この先の未来も一緒にいられたらいい。 
 卒業しても――その先も。
 けれど自分は花織のそばにいてもいいのだろうか。
 自分が花織のそばにいることを、他の誰でもない、自分自身で許すことが出来るのか。






「琥一くん、急ごう!」
 花織が琥一の手を引く。手を引きながら先に立って走り出す花織に連れられ、琥一は走る。
 こうして屈託なく手を繋ぐ花織に、自分に対する特別な想いなど無いのだろう。
 誰もが好意を持つ、誰にも優しいこの幼馴染の、唯一人の特別な存在になるなどという、馬鹿げた夢を見はしないけれど。
 それでもそばにいたいと思う。
 大切だからそばにいたい。
 大事だから見守りたい。
 ――今はまだ。まだ耐えられる。
 例えこの先、そばにいることすら辛くなったとしても、今はまだ。
 そして花織のそばにいるために、何より必要なものは――自信。
 自分が花織のそばにいていいという、自分に対する自信。
 卒業まで二ヶ月。
 もう一度自分を見つめ直すいい機会なのだろう。
 花織とその先の未来も一緒にいる為に。




「琥一くん、本気で走ってない!」
 咎める花織の声に、「本気で走ったらお前を引き摺ることになるだろうが」と軽くいなす。
「そうかもしれないけど! じゃあ本気の手前くらいで走って!」
「もう俺ぁ疲れてんだよ。どっかの無節操なお子様を探して走り回ってたんだからな」
「ご、ごめ……ってお子様って! 子供扱いしないで!」
「お子様だ。しかもタチが悪ぃ」
 こんな風に無邪気に男を煽る。
 その資格がないとわかっているから、苦しくなる。
 自分の存在が迷惑になるとわかっている。
 それでもそばにいてという花織の言葉を嬉しく思う自分がいる。
 花織の無邪気さが苦しくても、まだそばにいたいと思っているから。
「――振り回されっぱなしだ」
 溜息を吐く。
 花織に気付かれないように、ほんの僅かだけ繋いだ手に力を込めた。
 
 
 





おまけの後日談




いらっしゃいませ初めまして、もしくはいつもありがとうございます! 読んでくださってありがとうございました、嬉しいです!
ずっと書こうと思っていた余多門高校がらみのお話です。書きやすさの為、余多校の彼らの名前を勝手に付けさせていただいちゃいました。すみません。
そしてこの二人は琥一とかなり昔からの付き合いだと勝手に設定しております。

本当は最初この話は明るいコメディだったのですが、書いている内に何だかシリアスっぽくなってしまいました。あれ?軽い話の筈だったのに!
そんな訳で元々のオチ用の話を後日談として付けたしてあります。お時間ありましたらどうぞ。



うちのサイトの琥一くんは、バンビが大好きなのですが自分はバンビに相応しくないと思っているのでじれったい感ありありなのです。
そしてバンビに超過保護です。ベタ甘です。
自分が相応しくないと思っているが故にバンビに対して積極的になれないこのサイトの琥一くんですが、でもちょっと強引な琥一くんも書いてみたいなあと妄想する今日この頃。


        2011.7.23  司城さくら