夏休みといえども、受験生であるの平日は毎日勉強に追われている。
 けれども日曜日になれば琥一と出掛けることが多い。本来ならば今日は二人で海に行く予定だったが、スタリオン石油で人が足りないということで急遽バイトに琥一が呼ばれた為、一月前から約束していた海水浴はキャンセルということになった。もそろそろ新しい服が欲しいと思っていたので、悪いとしきりに謝る琥一に気にしないでと笑って見せたが、やはり土壇場になってのキャンセルを気にする琥一にアナスタシアのケーキを奢ってもらうことで琥一の罪悪感を鎮めたのが昨日の午後。
 そしては久し振りに日曜日を一人で過ごしていた。目的地は繁華街、目当てはブティックパメラで売っているボーリングシャツワンピだ。以前店の前を通りかかった時に可愛いと思ったが、その時はあいにく持ち合わせがなかったので買えなかった。
 そして目当ての服と他にも気に入った服を何点か購入して、今度の琥一との外出に着て行こうと、弾む気持ちで足取り軽く繁華街を歩く。
 この服を着た自分を見て琥一は何か言ってくれるだろうか。気に入ってくれるといいんだけどと服の入った袋に目を向けると自然に顔がほころぶ。
 琥一は決してお世辞を言うタイプではない。その琥一がいいと誉めてくれるなら、本当にいいと思っていることは間違いない。
 今度の日曜日はダーツに誘ってみようかな、とボーリング場に目を向けたその時、背後から「ちょっと」と声がした。
 その呼びかけが自分へのものだったとは思わずにそのまま歩いていたは、「ちょっと、あんた」と再度の声と共に背後から乱暴に肩を掴まれ、驚いて振り返った。
 そこにいたのは、同じ年頃の少女だった。十代で既にフルメイクをし、はっきりとした顔立ち、脱色した長い髪は緩く巻かれて、肩が大きく露出した黒を基調とした服を着ている。向かいあうは淡い色の口紅を乗せただけで化粧気はなく、髪も色を加えることはなく生来のやや栗色がかったやわらかな肩までの長さ、高校生らしい清潔感のある服装で目の前の少女のように肌の露出はない。その、自分とは全くの正反対の少女には見覚えがなかった。
「はい、何ですか」
 戸惑ったように少女を見上げる――少女は小柄なよりも10センチは背が高かった。そのを目の前の少女は無遠慮にじろじろと見下ろしている。その視線に不快感を覚え、やや表情が強張ったに少女はきつい視線でに問いかけた。
「――あんた、コウイチの何?」
「……え?」
「最近、よくコウイチとこの辺歩き回ってるじゃない。あんた、コウイチの何?」
「――あなたに言う必要もないと思いますけど」
 普段は人当たりのいい、誰にでも優しいだったが、礼儀を知らない相手にまで優しくする程お人好しではない。毅然と睨み返すと、少女は苛立ったように髪をかき上げた。
「必要? あたしはコウイチと付き合ってるんだから、あたしたちの間を横から邪魔してきた女が一体何者か知る必要は、カノジョのあたしにはあると思うのよね」
 その言葉に目を見開いたの表情に、苛立ちから勝ち誇った笑顔へと表情を変え、腕を組む少女は続けざまにへ言葉の弾丸を撃ち込む。
「中学からずっと付き合ってんの。高校に入ってからもね。で、あんたはコウイチの何?」
「――幼馴染」
 関係は、と問われればに言えるのはそれだけだ。一緒によく出かけて、一緒にいると楽しくて。
 何も特別なことはない。友人、幼馴染、それとは違う関係を胸を張って言えるほどには。
「ふうん? そうよね、あんたコウイチの趣味じゃないもんねぇ」
 くすくすと笑う少女から踵を返し、この場から立ち去ろうとしたの手を、少女が背後から掴んで引き止めた。きっと睨み付けるに、少女はそれ以上に憎しみをこめた視線でを睨みつける。
「あんた、コウイチが好きなの?」
 見ず知らずの少女に責めるようにそう問われ、の頬に朱が散った。それは羞恥の所為ではなく、怒りから来るものだった。
「あなたに言う必要は――」
「言っとくけど、あたしはコウイチと寝てるわよ? 最初は中学の頃、それに高校に入ってからも何度もね」
「――っ」
 息を飲み硬直するの耳元に口を寄せ、少女は悪意を孕んだ声で楽しげに囁く。
「コウイチがどうやってあたしを抱くか、なんならあんたに教えてあげようか」
「結構です!」
 掴まれた手を勢いよく振り払って小走りに駆けだすの背後から、「あんたは邪魔なんだよ」と鋭い声が飛ぶ。
「ガキはガキらしく家で遊んでな!」
 パメラのショップ袋がさっきと比べて何故か腕に重い。ざわめく胸の痛みに唇を噛みしめながら、はその場から逃げ出すように、勢いよく歩道を駆けて行った。
 
 



 
「……ありがと」
 いつものように家の前まで送った琥一に、は笑顔でそう言った。その笑顔がややぎこちないことに琥一が気付かなかったのは、既に周囲が夜に包まれていたせいだろう。
「じゃあな」
「うん。……またね」
 一度手を振ってから家の中に入る。琥一はが家の中に入るまで必ず見届けてから家へと戻る。それは、を心配してのことだろう。元々琥一はに対してやや過保護すぎるきらいがある。それはカレンやみよに散々言われていたことだったが、最近になってようやくにもはっきり認識できた。
 家に入り、母親に帰宅を告げる。食事はすませてくることは伝えてあったので、母親は「お茶飲む?」と声をかけてきた。それに疲れたからもう寝るね、と答えると「おやすみー」と気楽な声が帰って来た。
 手を洗ってから自分の部屋へと入り、そのままベッドへと倒れ込んだ。

『中学からずっと付き合ってんの。高校に入ってからもね』

 丁度一週間前に聞いた名前も知らない少女の声が、あの日からの耳から離れない。
 日にちとしてはたった7日前のことなのに。
 ――あの日までは、本当に幸せだったのに。
 琥一は自分を大切に大事にしてくれる。乱暴な口調や態度だけれど、その優しさは解る、伝わる。
 けれどそれは、――自分が琥一に対して持っているような、そんな感情からくる優しさではなかった。
 再会して、また子供の頃のように一緒にいられるようになって、話して、笑って――何をしても楽しかった。何をしても幸せだった。
 その幸せから、慢心した。
 自分は琥一にとって、特別なのではないかと。
 大事にされているのは解る。大切にされているのは解る。
 でもそれは――きっと琥一にとっては、妹のような。
 そんな感情なのだろう。あの過保護さは被保護者に対しての愛情ではないのか。
 この町に引っ越してきた幼い時分、小さな子供たちの中にも形成されるコミュニティに属していなかった自分はそれだけで他の子供たちから目立ったのだろう。服装や髪形、そんな些細なことで小突かれる度、自分を護ってくれたのは琥一だった。
 その時と同じ。
 その優しさと同じだったのを、自分は勝手に誤解した。
 そう、異性としての愛情を抱いてくれたのなら、もっと自分に触れてくる筈だ。――少なくとも、自分はそう思っている。もっと琥一に触れたいと。
 けれど琥一は何もしない。
 ――身体を重ね、愛を確かめるような、そんな関係は不要だと思われていたら。
 だから、琥一はなにもしないのか。
 異性として好きなのではなく、妹のように大切で――女として好きではないから、触れる必要はないのか。
 一緒に出かけているのは、ただ友人として。
 それ以上の想いはなく、それ以上に変わる想いもなく。
「どうしよう……」
 琥一が好きで、好きで……でも。

『言っとくけど、あたしはコウイチと寝てるわよ? 最初は中学の頃、それに高校に入ってからも何度もね』

 枕をぎゅうっと抱きしめる。
 好きで、好きで……でも、もう。
 諦めなくちゃいけないんだと、そう思った。










 を家まで送って徒歩で帰る。その道は二人で歩いてきた距離と全く同じ筈なのに、一人での道は随分長く感じてしまう。
 その原因はつまり横にがいないからだということを、随分前から琥一にはわかっていた。
 が横にいると時間が進むのがやけに速い。廊下ですれ違った時に言葉を交わす休み時間も、一緒に学校から帰る道のりも、放課後二人で茶店に寄った時の時間も。
 気付けばあっという間に時間は過ぎて、家に帰さなければいけない時間になっている。
 何倍にも感じた道のりをようやく踏破して家に着き、まだ琉夏が戻っていないのを見ると、琥一は冷蔵庫の中からビールを取り出した。
 プルトップを引き、一息で半分の量を飲み干す。冷たいビールは、熱くなった身体を一気に冷やしてくれた。
『お酒は二十歳になってから!』
 脳内で目くじらを立てているの顔が浮かんで、琥一はくくっと笑った。
「――――は」
 溜息と共に熱を吐き出す。
 ここ数日、が気落ちしているような気がした。どうした、と何度聞いてもは素直に答えない。今日も何度か尋ねたが、その度には「何もないよ」「変な琥一くん」と笑い、結局最後まで何も言わずに、は笑顔で手を振り家の中へと消えて行った。
 が何かに悩んでいるのは間違いない。それなのに何度水を向けても決してその悩みを口にしないのは、自分がにとって相談できるような相手と思われていないからなのだろうか。
 ソファに背を預けながら、手の中の携帯電話を弄ぶ。電話をするか、メールにするか。さっき別れたというのにすぐ電話をするのはしつこいか。けれどメールではの心の動きが解らない。さてどうするかと悩んでいると、ドアの開く音と共に琉夏が顔を出した。
「あ、帰ってたんだ。っていうかもう帰ったんだ、ちゃん」
「ああ。っていうかまだがここにいたらまずいだろうが。手前、帰るのが遅えんだよ」
「わざと遅くしてるんだよ」
 あんまり早く帰ってきたら悪いじゃん、と琉夏は屈託なく笑う。
「ほら、コトの最中だったらコウはともかくちゃんが恥ずかしがるだろうと思ってさ」
「――変な気ぃ回すな、馬鹿ルカ」
 そんな場面にゃ出くわさねえよ、と続けた琥一の言葉に琉夏の形の良い眉が怪訝そうに潜められた。
「何で?」
「あ?」
「そんな場面に出くわさないって。――何、まだ何もしてないのかよ。部屋にまで呼んどいて」
「うるせえな」
 琥一は立ち上がってビールを2本取り出すと、1本を琉夏に手渡した。サンキュ、と呟いて琉夏もビールの缶に口を付ける。
ちゃんだって拍子抜けしてるんじゃないの? 覚悟決めて部屋に来たのに、コウが何もしないんで」
「いや、無ぇ。それは無ぇ。あいつは――俺を男だって意識してないんじゃねえか」
 確かに部屋に呼んだ時、そういった下心がなかったかといえば嘘になる。一年の頃から――いや、子供の頃から見続けていたのだ。他の誰とも違う特別な、たった一人の少女。
 幼い頃にはただ愛しいという気持ちだけがあった。けれど高校になって再会してからは、それに欲望が付き纏う――触れたい、抱きしめたい、自分の物にしたいという欲望が。
 ただ見るだけでは収まらない。
 けれどそれは健康な男なら当然の反応で。
 そんな琥一を疑うことなく、は何の警戒もせずに誰も居ないこの家に上がった。
 珍しそうに部屋の中を見回して、あれやこれやと聞いてきた。壁にかかっている服のこと、レコードのこと、生活のこと。が無防備に座っているそのベッドの上で、目の前の男が自分を想像しながら何をしているか考えもせずに。
「ふーん、意外。コウならすぐにヤるかと思ってたのに。中学から我慢に縁のなかったコウがねえ」
「うるせえ。余計なことに言うんじゃねえぞ」
 妙なこと吹き込んだらただじゃおかねえ、と睨みつけると琉夏は「こわ」と首を竦めた。
 確かにその手のことで我慢したことはなかった。中学の時から顔と名前が売れていた琥一には言い寄る女が多く、琥一も性欲の捌け口としてそれを利用した。勿論手当たり次第という訳ではなく――本気になるような女は面倒だったし、何人もに手を出せば、琥一の知らない所で琥一を巡っての争いが生まれるのは火を見るよりも明らかで、それこそ琥一にとっては面倒だった故に、ただ「桜井琥一の女」というポジションだけを欲しがっている女を見繕って、契約のようなセックスをした。自分には自然現象である性欲の発散する場所、女には「桜井琥一の女」という肩書を。お互い身体だけの付き合いと割り切るような、そんな関係。
 高校に入ってと再会し、また荒れた生活から離れたかった所為もあって、その女とは暫く会うこともなかった。けれど、高校生活が始まり、と再び話すようになり、という人柄に触れる度――自分が触れてはいけない相手だと思い知った。無邪気で無防備で明るくて優しくて、子供の頃のままの。勉強もできスポーツも得意で、教師たちの覚えも良く、上級生にも下級生にも有名で、男も女も大抵のものがに好意を向け――あまりにも自分と住む世界が違う。手が届かない。それに自棄になり、何度か以前の女と身体を重ねた。と正反対の女を抱きながら、ただ考えることはこれがとの行為だったら、ということだけだった。ならこんな声は上げない。ならこんな淫らに腰は振らない。だったら、なら――そんなセックスは不毛だと何度目かに気付き、琥一はそれ以降代償行為をやめた。
 それから二年になり、そして今、三年になり――は昔と変わらずに傍にいる。この数年の積み重ねた月日で、自分でもの傍にいていいのだと、そう思えるようになっていた。そしてそう思えるようになったのは、の屈託のない笑顔とその言葉に他ならない。
 正直、触れたいと思う。
 抱きしめたいと、そう思う。
「ってか、あのちゃんを前にしてまだ我慢できるコウってすごい。尊敬」
「うるせえなあ」
 琉夏の言葉に琥一は一気にビールを呷る。喉に流れて行く苦みが今の気分に心地いい。
 したくてしている我慢じゃない。しかも並大抵の我慢じゃない。相手はなのだ、焦がれて焦がれたあの。初めて誰にも――琉夏にも譲れないと思った、ただひとりの。
 だからこそ。
「――出来ねえんだよ」
「え?」
「どう考えたって傷付けちまうだろ。――あいつが怖がることはしたくねえんだよ」
 男と違って、女にとって初めての体験は苦痛なだけだろう。文字通りその身体を引き裂かれるのだ。最初っからよがれる女なんてAVの中にしか存在しない。身勝手な男の作り話だ。
 そんな琥一の呟きに、琉夏は口元に近付けていたビールの缶を離し「ああ」と痛ましげに眉を寄せる。
「コウのでかいからなぁ」
「…………人の真摯な想いをぶち壊しやがって」
「だってホントじゃん。ちゃん身体小さいしなぁ、ちょっとちゃんにはツライかも。――でもさあ、」
 不意に琉夏の表情が生真面目なものに変わった。真正面から琥一を見詰める。色素の薄い琉夏の瞳が心なしか咎めるように自分を見ているような気がして、琥一は鼻白む。
「何だよ」
ちゃんにコウの気持ち、ちゃんと言ってんの?」
「――――別に、そんなこたぁ」
「口で言わないと伝わらないよ? ちゃん、恋愛方面には鈍感じゃない」
 肩を竦めて一気にビールを喉に流し込み、琉夏は手の中の缶を握り潰して放り投げた。缶は見事な放物線を描いて、部屋の隅のゴミ箱に吸い込まれていく。
「ちゃんと大事にしないと、横から誰かにかっ浚われちゃうかもしれないよ?」
 じゃあ俺寝るわ、と欠伸をしながら琉夏は二階へと上がって行く。
 その琉夏を見送って、琥一はソファへと深く背を預けた。外の波の音が遠く聞こえる。その音に身を委ねながら、琥一は目を閉じた。
 ――が気落ちしているような気がした。何かを悩んでいるような気がした。
 手の中の携帯電話を弄ぶ。すぐに声が聞きたかった。琉夏の最後の言葉に焦燥感を煽られ通話ボタンに手をかける。そこに浮かび上がった時間表示に、さすがに電話をかけていい時間ではなくなっている事に気付いた。
「……ちっ」
 閉じた瞼にが浮かぶ。
 それは最後に別れた時の、どこか淋しそうな笑顔だった。 
 



 花屋アンネリーがこの不景気の中でさえ繁盛しているのは、花の品揃え、花束を作る店員のセンスの良さ、配達の迅速さに定評がある所為もあるが、それにプラスしてと琉夏の影響も大きいだろう。
 今年受験生のだったが、花屋に新しく入ったバイトが慣れるまで、もうしばらくいて欲しいとは店長に頼まれていた。
 既に看板となっているはその外見で人を集め、その仕事の優秀さで会社などの固定客もついている。そのが辞めると言えば、店主が焦るのも無理はない。
「そろそろ上がろう? もう俺たち抜けても大丈夫だろ」
 うーんと伸びをしながら琉夏に声をかけられ、は「そうだね」と手を止めた。周りを見れば夜に足を踏み入れた時間帯で、流石に客の数も減っている。
 店長に声をかけエプロンを外す。それから休憩室に置いてある鞄を取り、他の皆に挨拶をしてからと琉夏は店を出た。
 バイト帰りに琉夏が送ってくれることはよくあることなので、今日も琉夏が「送る」と言った時には特に何も考えずに頷いていた。それが、琉夏が何か話したい事がある所為だと気付いたのは「ちゃん」と琉夏が改まったように名前を呼んだ時だった。
「ん? なあに?」
 小首を傾げて琉夏を見上げると、一瞬琉夏は言葉を選ぶように宙に目を泳がせ、それから「今日さ、」と口を開いた。
「いや、今日だけじゃないんだけど。何か最近、ちゃん悩んでない?」
「――え」
 驚いて足を止めたに、琉夏は心配げな表情を浮かべている。
「そんなことないよ?」
「うーん、嘘くさい」
 今度はおどけて琉夏が言う。視線で促され、は止めていた足を動かした。立ち止まってしまったこと自体、動揺していることを露呈してしまっている。
「俺、ヒーローだよ? どんな問題もたちまち解決。良いから言ってみな?」
「…………」
「コウのこと?」
 びくっと身を竦めたに、琉夏は微笑んだ。元々は嘘を吐く事がとても下手なのだ。
 が琥一を見詰めているのは解る。そして琥一もを見詰めていることも。幼い頃からそれは感じていたことで、幼い頃から琉夏がそれを知っていたのは、琉夏が同じようにを見詰めていたからだ。初めて出逢った時から琥一はしか見ておらず、それは離れてからも同じだった。ずっととの思い出が胸にあることはわかっていた。顔に似合わず純粋な、と呆れながらコウらしいとも思っていた。
 入学式の前、と再会したことを琥一に告げた時、琥一は一瞬絶句し、「そうか」と呟いた。恐らくと離れていた間の自分を省みて、複雑だったのだろう。確かに自分たちはに誇れるような生活はしていなかった。けれど、一緒にの家に迎えに行こうという琉夏の提案を、琥一は流すことは出来なかったのだ。に会いたいがために。
 それから琉夏はずっと二人を見続けている。琥一が多くの人の中に必ずを探していることも、が琥一を見る度にとびきり綺麗な笑顔を見せることも。
 琥一はが好きで、も琥一が好きで。
 けれど当人同士はそれをしらず、幼馴染以上の関係に進展することもなく。
「コウがどうしたの?」
「……」
 俯くに逡巡の色が見える。言うか言うまいか、琉夏に相談してもいいかどうか――その迷いを消すためにも、琉夏は言葉を続けてみる。
「コウが何かした?」
 はっとは顔を上げた。その不安に揺れるの表情に、琉夏の胸がずきりと痛む。やはり色々悩んでいたようだ。
「琥一くんは……何もしてないよ。何もしない」
「そっか。じゃあどうしたの? コウのことで何か」
「私には……何もしないの」
 みるみる大きな瞳に涙を浮かばせたに琉夏はぎょっとした。「え? ちゃん? 何、ちょっと何で泣くの」と焦りながらの顔を覗きこむ。
「琥一くんに、付き合っている人がいたなんて知らなかったから……私、勝手に、……琥一くんにもあの人にも、迷惑、かけて……」
「え、ちょっと待ってよちゃん。何の話」
「――こないだ言われたの。邪魔するなって。琥一くんと付き合ってるのは私だって」
「誰に?」
「知らない。――髪の長くて、綺麗な人」
 あー、と琉夏は天を仰いだ。髪が長くて綺麗と言われる人物で(それに関しては琉夏にしてみれば化粧を取ったら云々など色々言いたい事はあったが)琥一と付き合っていると豪語するような性格の女といえば――確かに一人存在する。
 琥一にしてみれば相手は全く恋愛感情のない女だろうし、相手にとってもそうだったのだろうが、ところが女には「プライド」というものがあるらしく、ぱったりと自分の前に姿を見せなくなったと思ったら、頻繁に自分とは全く正反対のと一緒にいる所を見かけ、しかも楽しそうに、そして傍目にもを大事にしている琥一に、自尊心が傷つけられたのだろう。あの女もしなくていい挑発をしたものだ。
「それに――琥一くんとその人、中学の頃から、その……って」
「本当に言わなくていい事をあの女は……」
 げっそりと呟いた小さな声は、自身の泣き声での耳には届かなかったようだ。小さな肩を震わせながら泣いている。
「琥一くんは私には何もしないの。あの女の人にするようなことは何も。だから私は琥一くんに何とも思われてない、って……思い知って、」
「え? ちょっとちゃん? 何か誤解してない?」
「なのに私、一人でどんどん琥一くんのこと好きになっちゃって、本当に馬鹿みたい……」
 ぽろぽろと涙をこぼすがあまりにも哀しそうで、琉夏は思わず抱き寄せた。も抵抗せずに琉夏の胸に顔を埋める。そのまま声を殺して泣きだすを抱きしめた琉夏の耳に「琉夏?」と声がした。腕の中での身体がびくっと跳ねる。
 琉夏の胸から顔を上げたの目に、バイクに跨った琥一が映った。
 大きく見開いた目。そして、
「――
 ぽつりと呟くような、琥一の声。
 昨日の淋しげな笑顔と、気落ちしたようなが気になって、バイト帰りにが通る路で待っていた。一緒に帰ろうと、何か悩みがあるなら聞こうと。その琥一の前に現れたのは、琉夏の胸に顔を埋めと泣くと、そのを抱きしめる琉夏の二人だった。
 昨日の夜、琉夏の言った「横から誰かにかっ浚われちゃうかもしれないよ?」という言葉が耳によみがえる。
 何かに悩んでいるような
 何かを自分に言いたそうで、口に出せずにいた
「そうか、お前ら――」
「コウ、あのさ、これは」
「――そうか」
 ――琉夏が好きなのか。
 腑に落ちたような琥一の声に、は琉夏の腕から抜け出した。そのまま琥一の前へ歩く。涙の痕がはっきり残るから琥一が目を逸らそうとした時、ひゅんという風を切る音が聞こえた。
 次いで、頬に衝撃。
 悲しみよりも怒りをその瞳に浮かべては唇を噛んでいた。真正面から琥一を睨みつける。
――」
 次の瞬間、は踵を返して走り去った。
「この――馬鹿コウっ!」
 バイクに跨ったままの琥一の腹に琉夏は容赦なく拳を叩きこみ、「追いかけろ!」と叫んだ。
「俺は相談に乗ってただけだ! やっぱりちゃん誤解してんじゃねーか、お前の態度! 原因作ったお前がちゃんを疑うな、この馬鹿っ!」
「誤解、」
「そうだよ誤解してんぞどう見ても! それに余計なことあの女がちゃんに吹き込んでんだよ! そらみろさっさと手ェ出さないから不安になってんじゃねーか阿呆コウ!」
「あの女?」
「コウと中学の頃からヤってるってちゃんにわざわざ言った馬鹿女がいるんだよ! ちゃんと清算しとけ、ったく!」
 琉夏の言葉の途中から琥一はバイクのキーを回した。エンジンの音が空気を切り裂く。
「悪ぃ、琉夏」
「馬鹿な兄を持つと大変だよ、ったく」
 ぶつぶつと呟きながら、「俺、これから新名んとこ行くから」と琥一に向かって指を突き付けた。
「一晩中遊んでくる。だから家には明日帰る。わかったな!?」
「解った」
 アクセルを回して、一気にバイクを走らせる。すぐに消えた琥一の背中と、遠ざかるバイクの音を聞きながら琉夏は小さく溜息をもらした。






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コウは大きいに違いない(こら)