八つ当たりだ、わかってる。
 泣いている顔を見られたくなくて、すれ違う人の目を避けるために花織は俯いて歩いていた。夏の日の夜は長く、故に通りにはまだ人の往来が激しい。花織に年の近い者も多く、それらから逃れるために花織は細い道を選んで歩いた。人の少ない方、暗い道を選んで歩く。
 まだ酔客が往来を歩く程の宵でもない。幸い誰に絡まれることもなく、花織は琥一から出来るだけ早く離れるために走っていた足をようやく止め、とぼとぼと家に向かって歩き出した。
 ――そうか。琉夏が好きなのか。
 腑に落ちた、そんな声で呟いた琥一の声に花織の心は傷付いた。
 ずっとずっと前から見続けていたのは琥一ただ一人だというのに。琥一以外誰も見ていないというのに。
 当の琥一はやはり花織の気持ちなど僅かも気付いていなかったのだ。
 あんなにあっさりと――琉夏と花織の仲を信じるように。
 納得してしまうように。
 琥一の中ではやはり自分は特別ではなかったと、恋愛の対象としては見てもらえていなかったのだと、思い知った。
「……ど、しよ……」
 これから一体どうしたらいいんだろう。いつかこの気持ちは穏やかなものへと変わるのだろうか。この琥一への想いが、いつか懐かしいものへと変わる時が来るのだろうか。
 こんなに苦しいというのに。
 こんなに哀しいというのに。
 頭の中も感情ももうぐちゃぐちゃだ、醜い感情がどろどろと渦巻いている。
 この感情が人を恋する副産物なのだとしたら、それはあまりにも――
 俯きながら歩く花織の耳に、自分の名前を呼ぶ、今一番聞きたくない人の声がした。







 暫くはバイクで花織を追った琥一だったが、花織は大通りではなく細い道に入り込んだようでその姿は見えない。泣いたと明らかにわかるその顔で人通りの多い道は歩けない。そう気付き琥一はバイクを降りると、周囲を見渡した。
 学校が夏休みになっている所為もあり、通りには同じ年代の男女が多い。それでもその中に花織の姿はなかった。この場所から花織の家へ向かう道の中で、一番人通りの少ない道を選んで琥一は走り出す。
 その狙いは当たり、しばらく走ると前方に、悄然と俯きながら歩く花織の姿があった。時折右手が上がるのは、零れ落ちる涙を拭っている所為なのだろうか。
「花織!」
 声をかけた瞬間、花織が下を向いていた顔を上げた。けれど背後の琥一を振り返ることなくそのまま走って行く。
 花織が自分から逃げて行く――その事実を目の前にして、琥一の中に今以上に激しい焦りの感情が競り上がった。
 今まで花織がかけた声を無視して離れたことはなかった。
 声をかければ花織はいつも振り向いて笑った。振り返り、琥一くん、と自分を呼ぶ花織の声を聞く度に自分が無意識に笑っていたのは、それがとても幸福なことだとわかっていたからだ。
 その花織が、名前を呼んでも振り返らない。
 花織の走り去っていく背中に、一緒に居たくないと拒否する強い意志が感じられ、琥一の焦燥が大きくなる。
 逃げて行く花織に向かい、一気に距離を詰めた。いくら花織の足が速いとは言っても、本気で走る琥一には叶う筈もない。数十メートルで追いつかれ、花織は琥一に腕を掴まれていた。
「やだっ、離して!」
 琥一の腕を振り解こうと暴れる花織の力は本気だった。本気で琥一の腕から逃れようと全力で抵抗している。そのまま腕を掴み続けていれば、花織の動きの激しさの所為で腕を痛めてしまうだろう。そう判断して琥一は一度手を離した。
 その瞬間、再び走り去ろうとする花織を、背中から抱き締める。
「離してっ!」
「逃げねえんなら離す」
 暴れる花織を抑え付けるように両腕で閉じ込め、上から花織を覗き込んだ。その動きを察知したのか、花織は琥一の腕を解こうとしていた手を上げ、自分の泣き顔を隠した。
「やだってば! 見ないでっ」
「わかった。見ねえ」
 花織の肩の位置で回していた腕を顔の高さにずらし、背後から腕で自分の胸に押し付ける。
 花織の目に触れている腕が暖かい液体で濡れているのがわかった。それが何か、それを流させているのが誰のせいか、琥一は胸の痛みと共に自覚する。
「見ねえから。……少し、話をさせてくれ」
「……………話すことなんて、ない」
「俺がある。頼むから」
 琥一のかすれた声に、花織はしばらく逡巡したのち、小さく頷いた。これで最後。思いきるならば、きちんと向き合って傷付いた方がいい。
 花織が了承したとわかるや、琥一は花織の腕をつかみ歩き出した。この場で話をすると思っていた花織は突然歩き出した琥一に引き摺られるように付いていくしかなく、内心かなり戸惑っていた。
 琥一が今まで花織に対してここまで強引に事を進めたことはなく、現に今も花織の歩幅を気にすることなく歩いている。小柄な花織には琥一の歩幅に付いていくことは出来ず、歩調は小走りになっていた。
 掴まれる腕も痛い。前を進む琥一の背中しか見えず、琥一が今どのような表情をしているのかはわからない。
 けれど、その腕の強さと花織を顧みることのない歩き方で、琥一が怒っているのだとようやく花織は認識した。
 往来で、人の目のある中で、突然殴られたのだ――それは怒っても当然のことで。
 しかも殴られた理由は琥一には何の咎もない、ただ一方的な花織の想いの押し付けだ。自分を好きになってくれなかったから殴った、花織がしたことはつまりそういうことだ。
 先程までぐちゃぐちゃだった頭の中が一気に冷えていく。
 自分のしでかしたことに蒼白になった。
 その間も琥一は引き立てるように花織を歩かせ、やがて見覚えのあるバイクの前にたどり着いた。戸惑う花織の細い身体を有無を言わせず琥一は抱き上げ、バイクの後部に座らせる。
「琥……」
 呼びかけた声を遮るように、上からヘルメットが被せられた。いつも琥一が被る黒のピンストライプのヘルメットだ。
「琥一くん、」
 不安になって呼びかけた花織に、琥一は「掴まってろ」と一言言い捨て、琥一はエンジンをかけると走り出し――すぐに加速する。あまりの加速度に、反射的に琥一の腰に腕を回した。それをしなければ後方へ飛ばされていただろう。
「………っ」
 景色がものすごい速さで流れていく。身体にあたる風の強さが更にそのスピードの速さを花織に教えていた。今までにも何度か琥一のバイクに乗せてもらったことはあったが、こんなスピードを琥一が出したことはなかった。もっとゆっくりと――花織をいたわるように。
 けれど今は、恐ろしいほどのスピードで走っている。吹き飛ばされないように必死でしがみつきながら、花織は琥一がヘルメットを被っていないことに気が付いて血の気が引いた。
「琥一くん、スピード……落として……っ!」
 法定速度は優に超えている。恐らく倍以上。ヘルメットを被っていない琥一を案じてそう懇願したが、耳を切る風の音で聞こえていないのか、聞こえていて無視をしているのか、スピードが落ちる気配は全くなかった。
 琥一をここまで怒らせてしまったことに泣きそうになりながら、花織は琥一の背中にすがりつく。
 




「琥一くん、琥一くん……っ」
 背中で自分を呼ぶ花織の声に唇を噛む。
 腰に回された花織の腕、必死でしがみつく花織に、歪んだ思いで安堵する。
 あの路地で、読んでも振り向かなかった花織。
 走り去っていく背中に、はっきりと拒否と拒絶の想いが見えた。
 追いかけても逃げる。声すら聴けず、顔も見えずに。
 あの恐怖を払拭するために、琥一はスピードを上げていく。花織が離れないように。逃げないように。
 多分、花織は怖がっているだろう。身体にあたる風は強く、痛みすら感じるほどだ。背中に感じる花織の体温と、間違えようのない震えに、今花織を支配しているのは自分だと安堵する。
 ――口では何を言っても、頭で何を思っていても。
 結局、花織が自分から離れていくのを見た瞬間、綺麗事は一切消え失せた。ただ本能的に手を伸ばした。離したくないと、離さないと、ただそれだけを思って。
 家に付く最後まで琥一は一言もしゃべらず、花織も途中から何も言わなくなっていた。エンジンを切ってバイクから降り、花織を抱きかかえて降ろす。一瞬自分で降りると抵抗したようだったが、大型バイクの後部からは一人で降りることができないと気付き花織は大人しく琥一に従った。
 被せたヘルメットを外してやると、乱れた髪の下で俯く花織の表情はよく見えない。
 もう泣いてはいないようだ。けれども悄然としたその雰囲気に、更に深く傷付けたことを感じ取る。
 動かない花織の腕を掴んで歩き出す。花織は何も言わずに黙ってついてきた。部屋に上げるときも、ソファに座らせるときも、俯いたまま琥一の指示するままに動いている。
「…………ほら」
 冷蔵庫にあったコーラを花織に渡す。それも無言で受け取って、けれど開けることなく手に持ったまま、花織はソファに怯えたように座っている――否、ようにではなく、怯えている。
 





「――何を聞いた?」
 しばらくの沈黙の後、琥一がぼそりとそう呟いた。何を、がどれを指していることは察せたが、返事は出来ずに花織はただコーラの缶を強く握り締める。
「レイコに何言われた」
 あの人はレイコっていうのか、とぼんやりと花織は思う。琥一くんの恋人。中学生からの。私の知らない琥一くんを知っている人。
「――別に何も。ただ自己紹介されただけ」
「何言ってた」
「――レイコさんに直接聞けばいいでしょう」
 自分の声に棘が含まれてしまうのを花織は止められない。また、自分勝手な八つ当たりだ。
「あいつに会う気はない」
「――もういい加減にしてよ!」
 癇癪を起こしたように花織は立ち上がって叫んだ。目の前の琥一を睨み付ける。感情が醜く暴走していくのを花織は止めることができない。相手の名前を聞いてしまったこと、琥一の口からその女の名前を聞いたことで、花織の感情は一気に乱れてしまった。
 ――コウイチと寝てるわよ。
 ――中学の時からずっと。高校に入ってからも何度も。
 ――コウイチがどうやってあたしを抱くか教えてあげようか?
 悔しさと哀しさと怒りと嫉妬と――負の感情が一気に溢れ出す。いつも笑顔で隠していた自分の醜さを、上手く隠すことができない。
 好きになれば独占したいと思う。他の誰かに渡したくない。自分を見て。他の人を見ないで。私に気付いて。
 そんな感情を見せれば嫌われる。
 明るく優しい、天使のような――そう人に言われる花織の中には、他の人と同じような、否それ以上の――激しい感情が、いつでも渦巻いていた。
「もうほっといてよ知りたくないんだからそんなこと! どうしてほっといてくれないの、構わないでよいい加減にして! あの人のことなんて知りたくない聞きたくない!」
「花織」
「中途半端に優しくしないで! もう何とも思ってないならほっといてよ! 琥一くんのばか! 大っ嫌い大っ嫌い大っ嫌い!」
 泣きながら全身で悲鳴を上げた花織の身体を、琥一が抱きしめた。強すぎるほどの力で花織を抱きしめながら「そんな訳あるか」と苦しそうに噛み締めた唇から低く呟いた。
「俺がどんな思いでずっと――」
「だって琥一くんはあの人と寝てたんでしょ!? 中学の時から、今だって! ずっとあの人――」
 突然自分の口内に暖かい何かが這入り込んで言葉を封じられ花織は硬直した。突然のことに目を見開いて呆然とする。琥一の、噛み付くような勢いで重ねられた唇と荒々しく蠢く舌の動きに、ようやく自分が何をされているか、琥一が何をしているのかに気付いて琥一から離れようと身をもがく。
 一度離れた唇と身体は、琥一に再び抱きしめられ更に深い口付けに変わった。抗った動きは徐々に抵抗をやめ、やがて大人しく琥一の舌を受け止める。花織の閉じられた目から、小さな雫が流れて落ちた。
「ずっと好きだったんだ――ガキの頃からずっと」
 悲痛な声で琥一が呟く。――熱に浮かされる訳ではない、暗く、悲壮な声。
「高校でまた会ってからもずっとお前が好きだった――そんな資格、俺にはねぇのに」
 花織が何かを言おうと唇を開くと、それを塞ぐように唇を重ねる。激しく深い――想い続けた年数分を叩き付けるように。
「俺はお前に相応しくない。わかってる。……わかってるんだ」
 けれどこんなにも花織の唇は甘く舌は熱い。好きな女との行為は、今までしてきた同じ行為と全く違う。
「お前を何とも思ってないなんて、そんな訳ねえだろう。俺は――」
 これで完全に嫌われたと、――過去とはいえ他の女とただ性欲を処理するためにセックスをするような男を、そして今まさに力尽くで女を襲うような男を花織は軽蔑するだろう。そう思いながらも、花織に「大嫌い」と言われて理性が飛んだ。今まで抑えてきた、男として花織に向けてきた感情が爆発した。――呼んでも振り返らない花織を見た時と同じように。
「――俺はお前が好きだった」
 腕の中の花織を抱きしめる。小さな花織は、琥一の腕の中で動けない。こうして囲んでしまえば、もう花織に逃げようがない。それをわかっていて、琥一は力で花織を閉じ込めたのだ。
「どうして……?」
 ぽつりと腕の中で花織の声がする。爆発した感情は消えてしまったのか、虚脱したような声で花織は琥一に問いかけた。
 どうしてこんな酷いことするの?
 涙に濡れた花織の詰問を受け止めようとした琥一の耳に、「もう私のこと好きじゃないの?」と涙声の花織の声が聞こえた。
「好きだった、の? じゃあ今は? もう好きじゃないの?」
「――な、」
 予想をしていた詰る言葉とは違う花織の問いかけに唖然とする琥一の背中に手を回し、細い腕で花織は琥一を抱きしめる。
「子供の頃から好きだよ。高校で会ってからもずっと好きだよ。……琥一くんが好きだよ」
 きゅっと琥一を抱きしめながら、花織は――過去のものにしようとする琥一を逃がさないように、小さな身体で、細い腕で琥一を閉じ込める。
「もう一回言って。――私が好きって、お願いだから」
 これが夢じゃないって信じさせてよ。
 見上げる涙を溜めた大きな瞳に懇願され、琥一は思わず視線を逸らした。
 自分は花織に相応しいか? 花織を手に入れる資格はあるか?
 花織を見て男どもは「天使」という。揶揄ではなく純粋に、ある者は崇拝を、ある者は憧れを、ある者は好意を、ある者は愛を。熱を込めて花織を見る男たちは構内にも学外にも多い。一緒に歩けば大抵の男は振り返る。自分の魅力に気付いていない、明るく可愛く優しい少女。礼儀正しく人の悪口を言わず、笑顔の可憐な、そう言われる花織の横に立つ資格が自分にはあるか?
 花織ならばどんな男でも選べる立場にある。頭のいい男も、金持ちの男も、年上も年下も、顔のいい男も強い男も。他のどんな男たちも、花織の横に立つ資格はあるんだろう――自分以外は。
 過去は、消えない。
 過去は、消せない。
 自分がどんな中学時代を過ごしてきたか――警察に顔を覚えられているような、そんな生活をしていた事実は決して消えない。
「俺は――」
「私、あのレイコって人、大嫌い。私の知らない琥一くんを知ってて、それを私に自慢して。――琥一くんを私から盗ろうとするなら、絶対許さない」
 強い口調でそう言い切って、花織は挑むように琥一を睨み付ける。
「私、皆が言うような良い子じゃないよ。どろどろしてる。汚い感情も醜い感情もたくさん持ってる。嫉妬してるよ、あの人に。琥一くんはあの人とどんなキスしたの? あの人が忘れられない? 少しでもあの人が好きだった?」
 琥一を睨み付けながら、それでも大きな瞳からは涙がぽろぽろ溢れて落ちる。
 花織は琥一の考えにようやく気付いた――苦しげに呟いた言葉が琥一の本音だと知った。「資格がない」「相応しくない」――そんなことが琥一の中で壁となっているのなら。
 それを叩き壊す。壊して琥一を手に入れる。
「資格とか相応しいとか、そんなの知らない。私は琥一くんと一緒にいたい。――好きなの。大好き。他の人なんか見ないでよ」
 花織から目を背けていた琥一が、その言葉に弾かれたように花織へと視線を戻した。一瞬躊躇し――やがて。
 振り切るように花織の唇に覆いかぶさった。
「――――っ、ん」
 激しい口付けに花織は抗うことなく、琥一の頭を抱え寄せもっと深くとねだる。舌を求める琥一の動きに合わせ、ぎこちなく舌を絡めて吐息を溢す。
「――花織」
 一度離し、再び口付け、離し、舌を絡め――貪るように花織の唇を、舌を求める合間に、琥一は低く囁く。名前を呼ぶ――花織、と。熱く、強く。
「花織、――花織。花織……」
 ずっと――焦がれて求めてきた少女へ、隠してきた想いをようやく告げる。
 ―――好きだ、花織。
 苦しげに熱く囁かれたその言葉を聞いて、花織は嬉しそうに微笑み――手を伸ばし、花織から琥一へと口付けた。






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