――どうして。
わたしはなんどもなんども心の中でくりかえしました。どうして。どうして? どうして――お父さん、お母さん、しんじゃったの。
言ってもしかたがないことだとはわかっています。お父さんとお母さんだってきっとしにたくなかったのに、わたしがこんなことを言ったらきっと二人は天国でかなしんでしまう。
だから、ふだんは決して言いません。
けれど、今日みたいな日は――かなしくて、かなしくて……思ってしまうのです。
どうしてしんでしまったの。
どうしてわたしはこの家にいなくてはいけないの。
こんなところにいたくない。
ぶたれたほほがあつくて、口の中を切ってしまったのかずっと血のあじがして、でもそれよりも、おばさんに「うそつき」と言われたことがかなしくて……わたしはふとんの中で泣いていました。
おばさんの大切にしていたガラスの置き物をわたしがこわしたと、いとこのお兄さんが言ったので、おばさんはわたしをたたきました。わたしはこわしてないと言いましたが、おばさんはわたしをうそつきと言いました。わたしはほんとうにこわしていないのに。
いとこのお兄さんが、おばさんのうしろでわらっていました。
このお兄さんは、わたしのことがきらいみたいです。おばさんもきっと。おじさんはあまり家にいないのでわかりません。
すきになってもらおうと、いっしょうけんめいおべんきょうもして、おてつだいもしたけれど、おばさんもお兄さんもわたしのことをすきになってはくれませんでした。それどころか、もっときらわれてしまったみたいです。せんせいにほめられるたび、近所のひとたちにほめられるたび、おばさんもお兄さんもわたしに冷たくあたります。
なにをしてもすきになってもらえない。
なにをしてもきらわれてしまう。
おふとんの中で泣いていたわたしは、いまが何時かわからなくなっていました。へやの中はまっくらです。カーテンをしめているので、月の光もはいりません。
そんなくらやみの中で、わたしは泣いていました。
もういやだ。
こんなところにいたくない。
おとうさんとおかあさんにあいたい。
とてもいいかんがえだと思いました。おとうさんとおかあさんにあいたい。あいにいこう。わたしもおとうさんとおかあさんのところへいこう。
まどをあけて。
そらにむかってとんだら。
きっとおとうさんとおかあさんのところにいける。
わたしはいそいでおふとんからでました。カーテンをあけて、まどのかぎを――あけようとしたときに、うしろから「何をするつもりだ?」としずかな声がして、わたしはおどろいてふりかえりました。
わたしがたったいままでねていたベッドのよこに、だれかが立っています。
せのたかいひとです。くらくてよくかおがみえません。わたしはびっくりしてじっとその人をみつめました。どうしてかというと、さっきまでその人はいなかったからです。それに、どうやってこのへやに入ったかもわかりません。へやのドアがあく音はいちどもしていなかったのですから。
けれど、どうしてだかわかりませんが、こわいとは思いませんでした。どろぼうだとか、おばけだとか、そんなふうには思いませんでした。
声だけだったけれど、――声しかきかなかったけれど。
とても、きれいな声でした。ひくい、おとなの男の人の声だったけれど、とてもきれいな声だと思いました。
その、声しかきかなかったけれど――わたしは、とてもむねが痛くなりました。
つらいとか、くるしいとかではなくて――いいえ、くるしかったのかもしれません。むねのおくから、今までしらなかったものが、……なんて言ったらいいのか、まだ小さなわたしにはよくわからないのですが、ものすごいつよさで、わたしのおくのほうから、いきおいよくうかびあがってくるものがありました。
――ああ、やっと……
そんなことばが、わたしの声でつぶやいたのをきいてわたしはびっくりしました。そんなことを言ったつもりはなかったのに、わたしの口はかってにそんなふうにうごいていました。
やっと、なんなのでしょうか。そのことばをしらないうちに言ったわたしは、そのつづきのことばをしりません。けれど、目のまえの男の人は、おどろいたようにゆびさきがふるえたようなきがしました。――でもきっとわたしのみまちがいでしょう。とてもくらいへやの中でしたから。
「何をするつもりだ?」
もういちど、きれいな声で男の人はわたしにききました。きかれたことにはこたえなければいけません。わたしは「おとうさんとおかあさんにあいにいくの」とこたえました。
「窓を開けて?」
「まどをあけて」
うれしそうに言ったわたしに、けれど男の人はだまってしまいました。わたしのこたえがおかしかったからでしょうか。男の人がほめてくれるこたえをかえせなくて、わたしはかなしくなりました。この男の人には、どうしてかきらわれたくないとおもったのです。
「――窓を開けても、お前はお前の両親に会うことは出来ない」
「そんなことない。わたし、しってるもの。おとうさんとおかあさんはしんじゃっててんごくにいるから。だからわたしもしねば、おとうさんとおかあさんにあえるの、わたししってる」
いいかんがえだと思ったのに、男の人におとうさんとおかあさんにあえないと言われて、わたしはむきになって言いかえしました。すると男の人は「会えない」ときっぱりと言いました。やさしい人だと思ったのに、とてもきびしい声でした。しかられたのだと、わかりました。ばかなことをいうな、と。
でも、それなら――わたしはどうしたらいいのでしょう。
ぽろ、となみだがこぼれたのがわかりました。
かなしくて、きがついたらわたしはすわりこんでないていました。
もうこのいえにいたくないんです。ひとりはいやなんです。だれもわたしをすきになってくれない。みんなわたしをきらいだっていう。わたしだってきらい。おばさんもお兄さんもきらい。おばさんはわたしをすぐにぶつの。お兄さんはいつもいじわるする。わたし、いないほうがいいんだ。もう、ここにはいたくないよ。
ないていたわたしは、きゅう、とだきしめられてびっくりしました。きゅう、ではなくて、ぎゅう、だったかもしれません。いきができないくらいだったので――でも、それはとてもうれしいつよさでした。
男の人はわたしをぎゅうっとだきしめてくれました。そのつよさが、そんなことはないよとわたしに言ってくれているようでした。
「もう独りではない。――私も、お前も」
男の人は震えているみたいでした。ないているようにもかんじました。けれど、わたしにはなぜ男の人がないてしまうのかよくわかりません。男の人が言ったことばのいみも。
「ようやく見付けた――ようやく、逢えた。ずっと待っていた。再び逢えると信じて、独り、永の月を――」
男の人が、まるでつかまえていなければわたしがいなくなってしまうとでもいうように、つよくつよくわたしをだきしめました。
わたしは男の人がなにをいっているのかわかりません。でも、こうしてむねの中にいると、とてもあんしんできました。もうだいじょうぶ、と――おもいました。
「今はまだそばには居られないが、お前をずっと見ている――見守っている。必ずお前を迎えに来る。だからもう、もう二度と――」
私の前から消えないでくれ。
ちいさな、くるしそうな声でした。かなしそうで、きいているわたしがなきたくなってしまうほど。だからわたしは男の人をぎゅうっとだきしめてうなずきました。
「わたし、ここにいる。むかえにきてくれるなら、わたしその日までまってる。だから、なかないで……?」
いっしょうけんめいに言ったせいか、男の人はすこしわらったみたいでした。かたほうの手でわたしのあたまをやさしくなでてくれたので、すこしうごくことができるようになって、わたしは男の人のかおを見あげました。
――――とても、とてもきれいなひとでした。
男の人で、こんなにきれいな人は見たことはありません。わたしはぼうっとみとれてしまいました。かみはながくて、目のいろはくろくて――すいこまれそうです。むかしえほんでよんだ、月のおうじさまかとおもいました。きれいなひと。月のひかり――月光の化身のような、美しい人。私の貴方、いつまでもそばにおります。その誓いは、今もまだ、過去も、未来も――幾星霜――この身が朽ち果ててもなお。想いは貴方の元へと還りましょう。愛しい貴方――愛しい、
「白哉さま……」
そのとき、わたしがなにを口にしたのかはおぼえていません。ぐるぐるとうずをまく大きななにかにのみこまれて、わたしはなにもわからなくなってしまいました。あたまの中がまっしろになって、なにもわからなくなるときに、男の人がわたしをだきよせて、わたしのおでこにくちびるをあてて――
「緋真」
と、わたしのなまえをよびました。
next