「緋真!」
 肩を叩かれた緋真は、自分が机の上で眠っていたことに気付き頬を染めた。高校生にもなって、十六にもなって、放課後の学校の机で居眠りなどとても誉められたものではない。
「夏樹ちゃん。――終わったの?」
「うん。お待たせ」
 空手の道着から空座高校の制服に着替えた夏樹は、長い髪を一つに結わいている。俗に「ポニーテイル」と呼ばれるその髪型だが、当人はその名称を「何かうわっついた感じがしてキライ」と嫌がっているのを緋真は知っている。
 色素が薄いのか、やや癖のある茶色の髪をきりりと一つにまとめている夏樹は、空手の道着さえ来ていなければごく普通の女子高生と見られるだろう。とても男子生徒に引けを取らない空手の有段者とは思えない。
「緋真は? 終わった?」
 広げたままだったノートを覗き込み、夏樹は眉を潜めた。そこに書かれた数式が、夏樹には全く理解不能だったからだ。
「……これ、何?」
「あ、……数学。三年、の」
 恥じらうように下を見る緋真を、夏樹は苦笑して見遣る。まだ一年の緋真が三年の課題を解いているのは、充分に自慢していいことだと思うのだが、緋真にとってはそれは誇ることではないらしい。
「すごいじゃん!」
「……私、これしか取り柄がない、から」
 勉強ができる、それがまるで恥ずかしいことのように緋真は言う。
 高校に入って仲良くなったこの緋真という少女は、何に置いても常に自分を卑下しているようだ。その容姿も性格も、頭脳と共に称賛に値するものだというのに。
 前髪を長く伸ばして、いつも俯いて。
 それはまるで目立つことが罪と思っているように。
 ――思っているんだろうなあ。
 夏樹は、今度は気遣わしげに眉を潜める。
 緋真の置かれている特殊な事情は、夏樹との仲が深くなるにつれ、ぽつりぽつりと緋真自身から聞いていた。両親を事故で亡くし、父の兄の家に引き取られていること。
 その家族と上手くいっていないこと。
 血の繋がりのある伯父は、家に帰ることは滅多にないらしい。夫婦仲は冷え切って、それに対する憂さ晴らしのように伯母は緋真に辛く当る。
 また、自分の一人息子を溺愛し、息子の言うことは何でも聞くらしい。――何度か緋真の家に遊びに行ったが、相当酷いものだった。伯母は露骨に夏樹を迷惑がり、夏樹を家に上げた緋真に「居候の癖にまあ図々しいこと」と聞えよがしに言った。そして緋真の部屋に行くまでにすれ違った緋真の従兄にあたる一つ年上の男は、夏樹を品定めするように上から下までじろじろと見、嫌な笑いを浮かべて部屋に消えて行った。男が何を想像したか、それは如実にわかる下卑た視線だった。
 ごめんね、と夏樹に謝る緋真に、夏樹は「聞きしに勝る、だよね」と笑い飛ばした。「ムカつくから嫌がらせしてやろ」と夏樹はそれから何度も緋真の部屋へと遊びに来ている。伯母には完璧な礼儀で対応し、従兄にはあからさまに蔑んだ態度でもって。
 この家で異分子だった緋真は、彼女らに好かれようと必死に模範生となったらしい。誰にでも誉められるよう、勉強をし、人に親切に、教師からも近所の人々からも「よくできた子だ」と誉められ――そしてそのことが、一番好かれようとしていた伯母と従兄に、更に緋真に対する態度を冷たくしていくと、幼い緋真にどうしてわかるだろう。
 緋真が誉められる度、緋真が優秀な程――彼女らは歯噛みする。「私の息子の方が優秀なのに」「俺の方がこんな奴より」――誰の目にも緋真の人間的なレベルはこの家の一人息子よりも高く、それが彼女たちには耐え難く決して認められないことだったのだろう。
 その方式に緋真が気が付いた時には遅かった。伯母と従兄の、緋真を見る眼つき――それはもう二度と修復されるようなものではなかった。
 だから緋真は、人より秀でることを恐れている。目立つことを恐れている。
 空座高校に奨学生として入学する為に勉強は続けていたが、主席入学をしてもそれを誇ることはなかった。いつも目立たぬように、ひっそりと教室にいる緋真が不思議で、夏樹から声をかけたのが二人の縁だ。
 こうして、夏樹の部活が終わるまで教室で勉強をしているのは、少しでも家に帰る時間を伸ばすためだと夏樹は知っている。
「――ねえ、時間あったらあたしんち寄ってかない?」
「え?」
「ほら、もうすぐ期末じゃん。ちょっと自信ないんだよねえ……今から勉強しとこうかなって思って。よかったら教えてくれない?」
 夏樹の思いは、聡い緋真には筒抜けなのだろう。緋真は一瞬目を伏せ、それから「ありがとう、夏樹ちゃん」と儚げに微笑んだ。




 テーブルの上にあった夕飯をレンジで温めて、緋真は一人で食事をする。
 一人息子を溺愛している伯母は、息子の為だけに手の込んだ食事を作る。緋真にも同じ食事を与えられるが、同じテーブルで食事をすることは許されていなかった。もう何年もこうして一人で食事をしている。
 豪華だが味気ない夕飯を食べた後、三人分の食器を片づけるのは緋真の仕事だ。家に帰ってから誰とも言葉を交わしていない。伯母は緋真と顔を合わせることを厭う。緋真は息を殺してこの家に間借りしている身だ。
 緋真がこの家で唯一息を付けるのは、自分の部屋の中だけだ。小さな部屋――ベッドと机、洋服箪笥だけの簡素な部屋。少女らしい装飾品は何もない。
 深く息を吐いて、緋真は制服から部屋着に着替える。
 グレイのジャケットを脱ぎ、赤いリボンを外し、ブラウスのボタンを外し……その指が止まった。
 胸元に、普段は隠されている銀の輪。
 銀の鎖に通された、紫水晶の指輪。
 この指輪が誰の物かはわからない。ある日突然――否、この指輪を見付けた日のことはよく覚えている。夢を見た日の翌日だ。とても幸せな、綺麗な夢を。
 幼い頃に見た夢。とても鮮明に覚えている。あまりにも鮮明で――現実にあったのではないかと思ってしまう程。
 とても綺麗な人が、迎えに来ると約束してくれた夢。
 あの時は精神の状態が普通ではなかった。だからあんな夢を見たのだろう。誰かにそばにいると言って欲しかった幼い自分。支えが欲しかった自分。だからこそ見た夢なのだろう。
 そして目が覚めた朝、机にこの指輪を見付けた。淡いライラック色の紫水晶――アメシストの指輪。白金の台は細く、アメシストを挟むように小さなダイヤモンドが二粒づつ付いている。華奢で儚く、けれど凛としているこの指輪が、何故緋真の机の上に在ったのかはわからない。
 ただ、その時の緋真は、「月のひと」が置いていったものだと信じた。約束の証として。それに縋らなくては、幼い緋真の心は崩れ落ちていた事だろう。
 この指輪があったから、緋真はここまで耐えて来たのだ。
 この指輪を、誰にも見せたことはない。見せるつもりもなかった。自分だけの秘密なのだ。この指輪はあの幸せな夢に続いている。
 紫水晶の石言葉は「高貴」。「月のひと」に相応しい。他には「誠実」「愛情」――「覚醒」。
 物思いにふけっていた緋真は、背後に微かな音を聞いて振り返った。
 扉が細く開いている。
 息を飲む緋真の耳に、廊下を歩く音、そして扉の閉まる音が続けて聞こえる。まるで慌てたような――見咎められた誰かがするような。
 緋真は扉に近付くと、震える手でドアノブを掴み空いている隙間を消し去った。
 完全に扉は閉めた筈だ。締め忘れることなどあり得ない。それは幼い頃から緋真がしてきたことだ。自分の居場所がこの部屋しかなかった緋真は、自分の空間を護るために、この部屋をこの家から切り離すために、いつも完全に扉を閉めていた。
 それが開いていた。――それが意味することは。
 緋真の手が無意識に胸元に揺れる指輪を握りしめる。
 夢だとわかっている。幼い自分がつらい現実から目を背ける為に見た夢。
 その辛い現実が今でも続いている。
 だから緋真は、幼い時と同じように夢に縋る。そうしなければ心が崩れ落ちてしまうと、わかっているから。
 夢に願う。夢に縋る。夢に請う。


 ああ、どうか――早く私をここから連れ出して。








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