爆音と爆風、大小さまざまな壁の破片がベッドの数メートル横に吹き飛んでいく。
 あまりの勢い、それはつまり圧倒的な力の強さの所為で、ぶつかればそれだけで重症になり得る大きな破片も、打たれた力と同じ方向へ一直線に吹き飛んでいく。
「な……」
 緋真の頭上で征浩の唖然と呟く声がした。突然起こった非現実的な出来事に対応できず、緋真を抑え付けている征浩の力が弱まった。その征浩が呆然としている隙を突いて、何とか征浩の下から逃れようと身体を捩る。
 身動ぎしながら動かした視線の先、大きく開いた壁の穴の向こう――外の景色が見える筈のその穴の先に。
 何か、巨大な「何か」がいた。
 人の形に似ている、けれど一目見て決して人間ではないとわかる造形。人ではありえないその大きさ、まるで刀のような巨大な爪。そして、その胸の真中に開く虚ろなる――穴。
「何、なに……」
 呆けたように繰り返す征浩の下で、緋真の脳裏に激しく警鐘が鳴り響く。
「これ」を知っている。
「これ」は危険なものだ。
「これ」は人を襲う。
「これ」と出会ってはいけない――「これ」は「危険」だ。「危険」なイキモノ。
 いつ、どこで知ったのかわわからない。緋真の過去に「これ」と対峙した記憶などない。けれど確かに緋真は「これ」を知っていた。
 耳に掛かる熱い吐息。牙の間からぽたぽたと降りかかる透明な液体。
 呆然と「それ」を見つめ続ける征浩と、必死で自由を得ようと身体を動かす緋真の前で「それ」は――

 咆哮した。

 びりびりと空気が揺らぐ。声が波動となって風を起こす。壁が壊れたときに発生した細かな粉塵が、その勢いと共に部屋の中に散乱する。
「ひ、………いぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
 その咆哮が征浩の金縛りを解く切っ掛けになったのか、征浩の体重が緋真の上から消えた。がたがたと震えながら、征浩は緋真の身体を引き上げる。乱暴に腕を掴み、力任せに引き摺り起こした。
 そのまま無言で、征浩は緋真の身体を前へと突き飛ばす。前、即ち――「それ」の前に。
 その目的は明白だ。緋真を生贄に差し出したのだ。「それ」が緋真を喰らっている間に、自分がこの場から逃げ出すために。
 ぎろり、と「それ」の視線が征浩へと向けられる。
 逃げ出そうとしていた征浩は、視線を向けられただけで再び動けなくなった。あ、う、と声にならない声を上げている。
「オ前ハ、死ニタクナイカ?」
 言葉を発した「それ」に、征浩はがくがくと頷いた。冷や汗と涙と鼻水が征浩の顔を汚している。恐怖に精神が崩壊しかけているのかもしれない。圧倒的な「力」の前に、征浩はただ泣くしかなく、「死にたくない死にたくない助けて死にたくない」と呪文のように呟く征浩に「ソレ」は興味がなくなったのか「ソウカ」とあっさりと視線を征浩から外した。
「オ前ハ、何ダ?」
「ソレ」の視線が緋真を捕らえた。人の目とは白と黒の配置が逆の、異質な瞳が真正面から緋真を見る。
「人ナノカ? 死神ナノカ?」
 痺れたように緋真は動けない。目の前の異形が何を言っているのかも暫くわからなかった。
 人か、死神か。
 ――死神?
 突然耳にした突拍子もない言葉に、緋真は思わず笑みをこぼした。緋真も極度の恐怖故に、平常な感情の発露ができない。
 その緋真の視界の隅で征浩が動いた。じりじりと移動し、やがて一気に走り出し扉を開けて転がり落ちるように階下に消えていく征浩を気にすることなく、異形の「それ」は独り言のように呟き続ける。
「オ前カラ死神ノ匂イガスル。ソレモ強イ、カナリノ霊圧。ダガオ前ハ死神デハナイ、タダノ人間。ダカラ聞ク。オ前ハ何ダ?」
「それ」が何について話しているのか緋真には全く理解できない。征浩に突き飛ばされたまま、床に倒れて目の前の巨大な「何か」を仰ぎ見る。
 見れば見るほど、醜怪なイキモノだった。異常に発達した筋肉の中でも、右の腕だけが特に太い。その指先には鋭い刃のような尖った爪が、触れ合うたびに不穏な音を立てている。
 その爪が、緋真の首を挟んだ。人間でいえば人差し指と親指にあたる二本の指の発達した鋭い爪で、器用に緋真の首を挟む。それは喉元を二本の刃で囲まれたようなものだ。僅かでも動けば、緋真の首に赤い筋が2本走ることになるだろう。そしてこの「何か」が指の輪を狭めれば――まるで豆腐のように簡単に緋真の首は身体から分離することだろう。
「死神ニ護ラレテイルオ前ハ何者ダ?」
 緋真は目の前の「何か」を見上げ――その大きな瞳から涙が溢れだした。次から次へと――ぽろぽろときらめく雫が緋真の頬を濡らしていく。
 恐怖ではなく。
「護られている」――その言葉に涙した。
 こんな自分を護ってくれる――その存在に、心当たりは一人しかいない。
 
『お前をずっと見ている――見守っている』

 そう言って抱きしめてくれた、夢の中の人。
 無意識に首に手をやり、そこに必ずある筈の指輪がないことに気付き、征浩に引き千切られた数分前を想い出す。
「指輪――」
 今の状況を忘れ周囲を見渡した緋真の目に、瓦礫の下から僅かに銀の鎖が伸びているのが映り手を伸ばす――傾いだ上半身は「何か」の爪に触れ鋭い痛みを与えたがそれも気にならなかった。
「アア――コレ、ダ」
 緋真が取るよりも早く、「何か」の左手がそれを掬い取る。「返して!」と悲鳴を上げる緋真を無視して、器用に鎖を爪にひっかけ持ち上げた「何か」は納得したように鎖に繋がった指輪を凝視した。
「コレダ。――コレカラ死神ノ霊圧ヲ感ジル」
 憎々しげに指を振り鎖を部屋の隅へと放り投げると、「何か」は緋真の首を抓んで軽々と摘み上げた。緋真の足が床から浮き、首を圧迫され緋真は呼吸が出来ない。
「……ッ、かはっ……」
 空気を求める緋真を無造作に掴み、「何か」は緋真を眼前に見据えた。苦しげに顔を歪ませる緋真の顔をべろりと舐める。
 何に満足したのか、「何か」の口からごろごろと雷鳴のような音がした。それが「何か」の笑い声らしい。
「流石ニ守護ガ付クダケノコトハアル……随分ナ霊圧ダ」
 呼吸を封じられた緋真は、遠くなる意識の中「何か」がそう呟くのを聞いた。その言葉の意味も理解しないまま、突然緋真の身体は床に落ちる。
 2mの高さから落とされ、打ち付けた身体の痛みを感じることも出来ず、酸素を求めて喘ぐ緋真の身体が押し倒された。征浩が緋真を抑えつけたのと同じように――覗き込む白と黒の反転した目。
 爪の切っ先が緋真の首に触れた。ぷつっという微かな音と共に、緋真の首から赤い血が溢れだす。動脈は傷付いてはいなかったが、それでもその傷の深さは浅くはなかった。絶え間なく赤い血が傷からあふれ出す。征浩に破られたブラウスの襟を染め、白い肌を伝い落ちていく。一定の速さで流れ出る緋真の赤い血を、ざらりとした舌で「何か」は丹念に舐めとっていく。
 僅かに視線を下に向ければ、獣のような人外の者が自分の首筋に顔を埋めて音を立てて血を啜っている。その悪夢のような光景が夢ではなく現実だということは、猫の舌を思わせるざらりとした痛みを伴う感触と、出血と共に抜けていく力でよくわかる。 
 ――死にたくない。
 視界の隅に、銀の鎖に繋がれた指輪が光った。
 この指輪が緋真を護ってくれていた。
 指輪が離れた瞬間……征浩が鎖を引き千切った瞬間に「何か」が現れた。
 ずっと護っていてくれた、と……知った今は。
 ――死ねない……!
 願うのは自分の生ではなくあの人の。
 自分が死ねばあの人が悲しむと知っている。
 何度も何度も哀しませている。
 先に逝くのはいつも私。
 ひとつ前の生では病で、その前の生では……
 白いドレスを血に染めて。
 私の死を看取る度、その度にあの人を苦しめて――その度にあの人は心を殺して。
 もう二度と。
 あの人にそんな思いは……!
 緋真の右手が上がった。首筋に顔を埋める「何か」の身体を引き離そうと、渾身の力を込めて押し退ける。
「触らないで……!」
 この異常な状況下で、怪我をしているその身で、恐怖に心を壊すことなく睨み付ける緋真に感心したのか、「何か」は緋真の首筋から顔を上げた。
 興味深そうに緋真の顔を覗き込む。
「触らないで……退いて……っ!」
 生きることを諦めない。
 死ねるはずがない、あの人を置いて。
 ぬるりとした熱い傷口に手を触れたのは無意識にだった。血を流せば死に繋がると、出血を止めなければという本能にただ手が動いた。――その手が。
 淡い光を放つ。柔らかな白い光――その光が傷口を覆い、そして数秒後、光が消えたそこにはもう――傷はなかった。
「人ノ身デ、治癒ノ技ヲ使ウトイウノカ」
 傷を治した――そのこと自体には何の興味も示さず、「何か」は「人」が治癒を行った事に対して興味を持ったようだ。拘束から逃れようともがく緋真の上からあっさりと退くと、倒れている緋真を抱き起す。
「喰ウノハ惜シイ……カ?」
 肩を掴み、自分の目線に合わせ緋真を引き寄せる「何か」の目が真正面にある。異形の瞳を怒りの目で見据える緋真の淡紫の瞳に、「何か」はいたく興味をそそられたように小さな緋真を凝視する。
「造作モ悪クナイ」
 元は人であったモノ――人の道を外れ、虚ろな穴を胸に開け、現世に漂うその存在。
 虚ろな心を満たすために人を襲い霊を襲う。
 それは執着なのだろう。眩しさの、暖かさの、優しさの、美しさの、生への、人への。
 失ってしまったものへの。二度と手に入らないものへの、執着。
 もう一度手にしたくて、「それ」はすべてを襲う。眩しさを、暖かさを、優しさを、美しさを、生を、人を欲して。
「ソノ想イノ強サモ、ソノ気ノ強サモ、悪クナイ」
 再び雷鳴のような音を発し、「何か」は笑ったようだった。唇を重ねる数秒前のようなそんな距離の、緋真を前にして「何か」は笑う。
「オ前ハ俺ガ飼ウ」
 必要な時に、気が向いた時に、その血を啜る。決して殺さず、弱らせたまま、自分の寝床で、欲しいままにその血を味わう。霊力を持つその血は甘美で、そしてその霊力を含んだ血は啜る度に力をもたらす。
 とてもいい案だとその「何か」は緋真に言って聞かせた。
 殺さない自分に感謝しろ、と。
「お断りします……っ」
 両肩を掴まれて緋真は動けない。けれど、引き寄せられた身体は「それ」に届く距離にあった――唯一の、動かせる足が。
 身体を丸めるように両膝を曲げ、次の瞬間足を揃えて「それ」の胸に向かって蹴りつけた。強い毛に包まれた胸に足は届き、胸を蹴る勢いを利用して両肩を掴む拘束から脱出しようと全身の力を込める。
 けれど――勿論。
 唯の人の子である緋真の力が、異形の何かに適う筈もなく。
「家畜ハ、命令ニ従エ」
 抵抗されることを楽しみながら――「何か」は緋真の肩に鋭い歯を立てた。ぞろりと並んだ鋭い歯を躊躇なく――その歯はキツネ狩りに使う罠のようにしっかりと緋真の肩に食い込んで、逃れようとする緋真の身体を離さない。
 肉を噛み裂かれる痛みに緋真は絶叫した。先程とは比べ物にならないほどの血が溢れる。ぎりぎりと喰い込む鮫のような「それ」の歯が与えるあまりの激痛に気が遠くなり、そしてあまりの激痛に遠くなった意識を呼び戻される。
「あ、ああああああああああっっ!」
 血が流れる。痛みに仰け反り悲鳴を上げる緋真の肩から一度口を外し、「それ」は緋真の血を音を立てて啜りあげた。時折差し込まれる舌が傷口をえぐる。その度に緋真の身体は痙攣するようにがくがくと震えた。
 肩ごと腕を引き千切られるような痛み――痛みに何も考えられず、緋真はただ悲鳴を上げ続ける。
「嫌、いやあ、痛、痛い、痛いっ……離し、あ、あああああああっ!」
 再び傷を抉られ、緋真の身体から力が抜けた。悲鳴も消え、それまでは全身の力で必死に抵抗していた宙に吊られた緋真の手足が、「それ」の動きに合わせてただ力なく揺れる。
 焦点を失った瞳から、静かに涙が流れ落ちる。その涙の雫も「それ」の激しい動きによって霧散した。 
 自分の無力さに絶望する。
 戦えない自分に慟哭する。
 圧倒的な暴力の前で、為す術なく蹂躙されるしかない己の弱さに怒りを覚える。
 弱い自分が嫌だった。
 強い自分になりたかった。
 護られるだけの無力な女になりたくなかった。
 今心からそう思う。
 強さが欲しかった。あの人を哀しませないためにも。自分の身を護るだけの力があれば。あの時も、あの時も、そして今も――




「貴様」




 僅かな言葉、その静かな声で発せられる一言に壮絶な怒りを隠すことなく表して。
 その声に緋真の意識は一瞬で覚醒する。
 いつでも心に響いていたその声。幼い頃に一度聞いたその声と全く同じその声音。
 そして、この瞬間に決して聞いてはいけないその声の音。


「緋真を離せ」



 背後から聞こえるその声に、緋真は言葉を振り絞る。
 ここにきてはいけません。
 はやくにげて――ここからはなれて。
 けれど声は言葉にならず――緋真は目の前の異形の何かが歪んだ笑みを浮かべるのを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。






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