突然、今まで感じなかった霊圧を感知して一護は目を通していた本から顔を上げた。
 周囲の人々の発する霊圧に関しては把握している。自分が知覚できるレベルの霊圧を持つ人間は稀だったし、その稀な人物は殆どが自分の知人であるがために、こうして見知らぬ霊圧を突然感じたことに驚いた。
 余程の霊圧を持った子供が生まれたのか。
 そうとしか思えないほどの唐突さでその霊圧は現れた。生れ出た、と表現して間違いない。今まで何もなかった空間から突然感じる霊圧――自分が知覚するほどの霊圧ならば、それは若い頃のたつきや井上、茶渡クラスの霊圧だということだ。
 それが突然現れた。――そんな現象は今までになく、一護は眉間に皺を寄せて目を閉じる。
 意識を集中して気配を探る。――死神代行を辞めて久しい一護だったが、それでも霊圧の発生源は感じることができる。意識を空に拡散させ、遠く広く俯瞰する。感じる霊圧の色を捕らえ、その色を辿る――不意に一護は眉を寄せた。
 この霊圧には覚えがある。
 否、正確に言えば覚えはない――この霊圧は知らない。けれど手繰っていく内に、何故か知っているような――霊圧から受ける印象、この色から浮かぶイメージ、それは確かに知っている人物のもの――知っている筈なのに思い出せないもどかしさにさらに眉間に皺を寄せ、もっと明確にその霊圧を探るべく意識を向けた次の瞬間、同じ方向に虚の気配を感じた。
「不味い……!」
 手にしていた本を放り出す。午後の診療は休みの今日、診療所に残り医学書を読んでいた自由な時間が幸いした。一護は白衣のまま診療所を飛び出す。
 突然現れた霊圧の次に現れた虚の気配――その意図することは明白だ。
 霊的濃度の高い人間を虚は襲う。その人間を食すれば、食した虚の力も上がる。喰らえば喰らうだけ、吸収すれば吸収するだけ、虚の能力は格段に上がるのだ。たった今生れ出たこの霊圧の所持者を吸収すれば、恐らく虚の力は飛躍的に上昇する。虚からしてみれば、何の防御も持たない生まれたばかりの霊圧の高い赤子など、襲ってくれと言っているようなものなのだろう。自分がこの霊圧の誕生に気付いたのだ、当然虚も気付く。
 敷地内に止めてあったバイクに跨った瞬間にエンジンをかける。フルスロットルで発車したバイクで一護は霊圧を辿る。同時に右手で伝霊心機を開きボタンを押す。繋がるのは最後に通話をした相手。
「虚が出た! 場所は俺を辿ってくれ!」
 相手の返答を聞かずに通話を切る。霊圧を探り辿りながら猛スピードでバイクを駆る。
 以前の自分ならば、何の問題もなく虚の相手は出来ただろう。けれど今は――あの日々から二十年以上過ぎた今となっては、そこまでの力は無い。それでも応援が来るまでの足止め程度にはなるだろうと走る一護は、ふと気が付いた。
 この道を知っている。この道は最近通ったばかりだ。
 車で、たつきと――そう、緋真ちゃんの荷物を、
 そして、気が付いた。
 この霊圧。
 この色のイメージ。
 緋色の、穏やかな暖かなこの霊圧は。
「な……んで突然! こんな霊圧、持ってなかっただろ緋真ちゃん!」
 叫んでアクセルを回す。はやく、はやくと心が急く。緋真の霊圧を狙い虚がいる――既に相対しているのかもしれない。
「無事で……っ」
 バイクであと数分の距離。焦る一護は、次いで現れたよく知る霊圧に、今度は安堵の息を吐く。
「……はあ。もう大丈夫か」
 アクセルを緩め幾分スピードを落とす。状況を把握するために緋真の家には向かうが、もう安心だと一護は思う。見知った霊圧――白哉の霊圧を感じたが故に。
 白哉がこの程度の虚に負ける訳がない。
 それは事実。
 白哉は強い。
 白哉が敗れることはあり得ない。
 
 ――緋真を盾にとられていなければ。




「緋真を離せ」
 静かな声の中に冷たい焔を眩めかせながら、白哉は目の前の醜悪な存在に命じた。その右手にはすでに剥き身の斬魄刀が握られている。切先は下に――感情は怒りで支配されているというのに、あくまでも白哉の動きは美しい。
 白哉の声に、虚は埋めていた緋真の肩から顔を上げ、ゆっくりと振り返った。顔だけを白哉に向けた虚は緋真の姿を白哉に見せない。それは恐らく意図的に――手の中の人間が、背後の死神への切り札になることを虚は気付いていた。
 先程虚が放棄した銀の鎖、それに連なった銀の指輪――それには明らかに所持する人間を守護する力が込められていた。
 それもかなりの高位の霊圧の。――その圧倒的な霊圧を隠しきってしまうほどの、それ以上に圧倒的な高度な力。痕跡すら周囲に悟らせない程の、細心の注意を払って施された守護と秘匿の技。
 たかが人間に。
 瞬く間に寿命が過ぎる、何の力もない卑小な存在、その人間に。
 それだけ高度の術をかけていたのだ、この手にしている人間が背後の死神にとっていかに大切な物かは容易にわかる。
 事実、死神はすぐに現れた――現世と尸魂界の距離をものともせずに。この速さが更にこの人間が死神にとって重要な存在かが見て取れる。
 そうして虚はその顔に笑みを浮かべる――歪んだ笑みは歪んだ歓喜から生まれ出る。
 力を。
 取り込む力は大きければ大きいほど――死神の力を、しかもこの眼前の、途方もない霊圧を持った死神の力を取り入れたならば、一体自分の力はどれだけ飛躍するというのだろう。
 自分と目の前の死神の力量の差は圧倒的だ。本来ならば瞬殺されているはずだ。この死神を目にした瞬間、一刀に切り伏せられていただろう――この手に人間の女が居なければ。
 死神は自分を斬り捨てることができない。
 人間の女の生命を、自分が握っているからだ。
 死神が刀を振れば、間違いなくその数瞬後に自分は死ぬ。けれどその時自分は女の首を切断している。
 死神の動きは速い。その動き、銀の一閃より先に女の首を落とすためには、目の前の死神が動こうとした瞬間、僅かな動きを察知して瞬時に女の生命を奪う。その考えが分かって居る為に、目の前の死神は動くことが出来ない筈だ。実際、死神は刀の切先を下に向け、全く動こうとはしない。距離を保ち、出方を見ている。
「優先順位ハ?」
 虚は、人として生きていた頃とは身体の構造は全く違う。イヌ科の獣のように突き出た口と、その内部にずらりと並ぶ鮫のように尖った牙、その隙間から赤い唾液――緋真の血を啜ったその名残――を滴らせながら虚は問う。
「オ前ノ、最モ優先スル物ハ」
 聞かなくてもわかっている。答えずとも分かっている。目の前の死神の最優先事項は――女の生存だ。
 女を救出すること。
「コレダナ?」
 右手で首を掴み、緋真を宙に吊りあげる。緋真の顔は死神には見せずにその背中だけを見せた。苦しげな呼吸、腕から逃れようと弱々しく動く右手、左肩から大量に流れている血の色、乱れた衣服に、虚は無表情だった死神の顔に怒りの表情が浮かぶのを見る。
「貴様……」
 刀の柄に力が入ったのを見るや、虚は掴んだ右手の爪を動かした。深くはない――けれど決して浅くはない傷が緋真の首に走った。途端に流れ出る新たな血流に、死神は刀の柄から力を抜く。
「俺ハ、コノ人間ヲ喰ウ」
 たどたどしく言葉を口にする度に、しゅうしゅうとその口から息が漏れる。かつては人間だった、今は身体ばかりか心までも異形の者に成り果てたその存在。
「喰ウト強クナルカラダ。ダガ、オ前ヲ喰ウナラモット強クナレル」
 目の前に掲げた女の眼が見開かれた。虚が言わんとすることが分かったのだろう。首の傷、肩の傷の痛みを無視して必死に虚の手から逃れようと全力で抗う。
「オ前ヲ喰ウナラ、コノ女ハイラナイ。喰ウ必要ハナイ」
 女を助けたければ、此処で死ね。
 そう告げた虚の目の前で、死神は躊躇なく切先を己に向けた。
 虚が哂う。
 その哂いが、緋真の絶望と恐怖と焦りに拍車をかける。
「だめです、そんなことをしてはだめ……!」
 背後の白哉を見ようと、緋真は必死に身を捩った。けれど、首を掴まれ固定されている緋真には白哉を見る術はない。僅かでも動かせば気が遠くなるような痛みを与える左の肩を無視して、自分を拘束する異形の手を引き剥がそうと力を込める。
「お願いです、お願いですからそんなことはしないで、ここから離れてください、私は大丈夫ですから、だから……!」
 背後を振り返ることが出来ない緋真は、唯一動かすことのできる唇で必死に懇願する。
「お願いです、あなたが傷付くなんて、そんなこと……」
 何か暖かな液体が、緋真に降り注いだのがわかった。
 血の気が引いた緋真の眼前で、異形の者が歓喜している。
 長い舌で、緋真の髪を舐めている。次いで、引き寄せられ、首を、背中を、太腿を、足を――身体の後面を舐めていく。暖かな何かが降り掛かった緋真の身体を、その何かを舐めとる為に。
 僅かに口にしたそれに、言葉もなくただ歓喜する異形の者。――起きてしまった事実に怯え震え、全身を舐めまわされる不快さも感じられない。
「刀ヲ捨テロ」
 次いで、躊躇なく投げ捨てられる音――ごとりと重い金属の投げ捨てられる音。
「嫌! いやです、いやです、お願いですから……!」
 懇願する。ただひたすら泣きながら懇願することしかできない。逃れたくても伸ばした手は目の前の異形には届かない。宙に浮いた身体はただ揺れることしかできず、唯一届く異形の腕に渾身の力で爪を立てても、一筋の傷さえつけることが出来ない。
 私さえいなければ、あの人が傷付くことはない。
 私がいるから、あの人は動けない。
 私がいるから、あの人が――死ぬ?
 足手纏いの私。何の役にも立たない、害にしかならない。
 私が居なければ、私が死ねば。
「私、が――!」
 舌を噛み切ろうとした瞬間、勢いよく壁に叩き付けられた。投げつけられたのではなく、掴まれたまま一瞬で壁際に移動した虚が、その勢いのまま緋真を壁に叩き付けたのだ。人の身には出し得ないそのスピードで壁に衝突した緋真は、あまりの衝撃で息が詰まる。
「く、は……!」
 肺から吐き出された呼気に唇が開く。その口に無理矢理指を数本捻じ込まれ、緋真は苦悶の表情を浮かべた。
「ぐっ……う、ぅ……っ」
「勝手ナコトヲスルナ」
 緋真の生命の無事は虚の身の安全の保障だ。緋真が死ねば死神の枷が外れてしまう。死神が動けないのは自分が緋真の生命を握っているからであって、その切り札を失えば次の瞬間に自分の生命はない。
 この場において、死神と虚の利害は一致している。
 利は、緋真の生。
 害は、緋真の死。
 唯一人、緋真だけが己の生命を断ちたがっている。
 弱々しくもがく緋真のブラウスの袖を造作もなく虚は破り、その切れ端を緋真の口に填めた。舌を噛み切ることの無いよう猿轡を噛ませ、虚は緋真の右腕を掴みやはり無造作に――握りしめた。
 ばき、と。
 骨の折れる音が部屋に響く。
「――、――――――――っ」
 想像を絶する痛みに、それでも緋真は声を上げない。白哉に悲鳴を聞かれることを厭い、必死で声を、悲鳴を殺す。
 左は肩の激しい裂傷で、もう腕を上げられない。
 右の腕はたった今砕かれた。
 布を食まされ、舌を噛み切ることもできない。
 自分の無力さに絶望するのは――何度目の事だろう。
 自分が傷付けば、あの人も苦しむ。
 だから自分は強くなければならないのに。いつだって自分は足手纏いで、いつだって迷惑をかけて、いつだってあの人を哀しませて。
 昔も――今も。
 生まれるもっと前から――今とは違う別のどこかで。
「貴様……っ」
 白哉の声が緋真の耳に聞こえた。虚に上から押さえつけられ、白哉の姿は見えない――ただ声だけが聞こえた。憤る声だけが。
 懐かしいその声。
 緋真、と名前を何度も読んでくれた美しい声。
 極限状態にある緋真の脳裏は――記憶は、千々に乱れて混乱する。今を、過去を、記憶を、知る筈のない世界を行き来する。
 冬の青い空。
 広い屋敷。
 桜の樹。舞い散る花弁。さくら、さくら、さくら。
 幸せだった日々。
 それは短く――儚い日々。
 たった数年、それでも愛しくそれはとても幸せな。
 此処ではない何処か。 
 自分ではない誰か。

 ――貴方に逢えてよかった。
 ――どうかあなたは倖せに。
 ――私はとても倖せでした。

 どうか泣かないで、いとしいひと。
 あなたのしあわせがわたしのしあわせ。
 わらってください、いとしいあなた。
 わたしはいつまでもあなたのそばに。


 
 だらりと床に投げ出されていた緋真の指が何かに触れた。縋るように無意識に手繰り寄せる。痛みが激しすぎて痛覚が麻痺したのか脳が壊れたのか、あまり痛みを感じなかった。清涼な冷たさ、それが緋真に今手に触れているのが何かと気付かせる。
 指輪。
 引き千切られた銀の鎖。それが自分の手の中にある。
 目を開ければ、自分を抑えつける紅い血に染まった異形の存在。
 その身に浴びているのは、愛しい人の流した血。
 許せるはずがない。
 あの人を傷つける存在など、決して許せるはずがない。
 感情が爆発する。溢れるままにその感情を言葉に変える。
「私は――『拒絶』する……!」
 強い想い――白哉を護りたいという願い。それが指輪を媒介に形となる――「完現術」。
 握りしめた指輪から眩い光が溢れだす。金と緋に眩めくその光は、緋色の焔と烈風を生み出し一気に噴き上がった。それは緋真を抑えつけている虚の巨体を軽々と吹き飛ばすほどの。
 同時に緋真の身体が床から攫われた。肩の傷と骨折の痛みよりも、ふわりと包まれた懐かしい香りに安堵する。
 視線を上げれば、そこに――夢に見た、夢でしか逢えなかった顔がある。
 自身の血にまみれてもなお美しい――月の化身のような人。
 細心の注意を払って、最速の動きで、白哉は虚の元から緋真を取り戻す。
 そしてその瞬間に、虚の死は決定付けられた。




 


「……白哉、さま」
「緋真」
 白哉は緋真の名前を呼んで――しばらく無言だった。
 緋真が白哉の腕の中に包まれた後、見上げる緋真の前で白哉は視線を壁の方へと向けていた。決して緋真に向けることの無い冷たく無慈悲な氷の視線で一瞥した後、低く「双蓮蒼火墜」と一言呟き、部屋の中は一瞬にして蒼く染め上げられる。
 蒼い焔が消えた後には、そこには何も残っていなかった。――悲鳴も絶叫もなく、一瞬にして虚の存在全てが蒸発していた。
 部屋にあったほとんどの物が瓦礫と化した中、奇跡的に無事だったベッドの掛け布団をはがし、上に降り積もった数多の破片を床に落としてから、白哉は緋真を静かに横たえて緋真を見下ろした。
「あ……」
 虚に引き裂かれた無残な傷に白哉の唇が触れる。そこから暖かい波がゆるりと身体に浸透し、傷の痛みがゆっくりと遠ざかっていく。次いで、右手の指先に唇で触れられ、やはり骨折の痛みが遠のいていく。
「私より、白哉さまの傷を……」
 血に濡れた白哉を心配し、声を震わせる緋真の唇に白哉の白い指が触れる。
 俯いたまま、白哉は一度目を閉じた。そして再び開き、緋真を見つめる。
 その場に居る緋真を確認し、もう一度「緋真」と呟いた。
「お前の名が呼べる」
 白哉の手がそっと緋真の頬に触れる。その暖かさを指で確かめた後、「お前に触れることが出来る」と万感の想いを込めてそう呟いた。
 その短い二言で解る――どれだけ永い年月を、白哉が一人で過ごしてきたかということを。
 愛しい人の記憶だけを胸に、名前を呼んでも返ることの無い声をただ待ち続けて、百を超える年月を。
「先程は緋真に助けられた。――私が緋真を助けに来たというのに」
 感情のままに口にした言葉と共に発せられた緋色の焔と烈風――それは「白哉を護りたい」という強い意志が、指輪に込められた緋真を護るための白哉の強い霊力と結びつき、強い力となって現出した「完現術」だということを緋真が知る由もない。ただ、何故そんなことが出来たのかはわからないが、それで白哉の役に立てたというのならもうそれだけで緋真は充分だった。
 ありがとう、と礼を言う白哉に緋真は慌てて首を振る。
「私の方が……! 助けてくださって、ありがとうございました」
 いや私が、いえ私が、と主張し合い二人は目を合わせて笑い合う。
 夢じゃない。
 目の前に「あの方」がいる。
 言葉を交わして視線を交わして――確かに此処に居る。
「――迎えに、来てくださったんですね」
 幼い日の約束――「必ず迎えに来る」その言葉だけを支えに辛いことを耐えてきた。苦しかった日々も今この瞬間の為にあったというのならば、それは幸せなことだと言えるほど。
 微笑む緋真の頬に触れる白哉の指が僅かに震えた。
「白哉さま……?」
 不安に駆られ身体を起こそうとした緋真を白哉は「動くな」と制止する。
「私は回道――治癒術が得手ではない。動けば痛みが戻る」
 すまぬ、と白哉は緋真に詫びた。
「私が関わった故のこの事態だ。――私はお前に逢うべきではなかった」
 思いがけない白哉の言葉に緋真は目を見開いた。逢うべきではなかった、とう白哉の言葉に衝撃を受けた。
 虚に噛み裂かれた肩よりも、折られた腕よりも胸に受ける激しい痛み。
 逢わなければよかった、逢うべきではなかった、と口にした白哉の声で、それが白哉の心からの言葉と知った。
 逢えて嬉しかったのは自分だけだったと、その言葉がその事実を緋真に突き付ける。
「違う、緋真」
 緋真の大きな瞳に溜まっていく涙に気付き、白哉は「違うのだ」と繰り返した。
 元来白哉は口数の多い方ではない。伝えたいことをうまく伝えられずに白哉は口を閉じる。「朽木緋真」ならば白哉の思うこと、言わんとすることは間違いなく汲み取れただろうが、今の緋真は「久儀緋真」で、過去――前世の記憶も不完全だ。朧げに白哉を想い出しているだけで、白哉と過ごした「朽木緋真」とは違う存在。 
「隊長」
 突然割って入った人の声に、白哉はその方向へ顔を向けた。
 緋真もその声へと顔を向ける。――大きく開いた壁の穴から、危なげなく入り込む大きな身体の青年。長い紅い髪を翻し、するりと緋真の部屋――瓦礫が散乱した部屋に立ったのは、白哉と同じ黒い和装の青年だった。その青年に向かい白哉は「恋次か」と返答する。
「大丈夫ですか。――虚ですか?」
「ああ」
 気心の知れた仲なのか、白哉の怪我、部屋の惨状を目にしても動じることなく問いかける青年――恋次と呼ばれた青年に短く返答する白哉に、緋真は僅かに息を吐く。
 白哉の言葉はいまだ心に突き刺さっている。
 その言葉の意味を今はまだ考えたくはない。
「何故此処がわかった」
「一護が連絡してきました。ルキアが周辺住人の記憶の処理をしています。にしても隊長がこんな傷を負う程その虚――」
 そこで声が途切れた。呆然としたような表情で「え?」と声を上げた恋次が見ているのは自分の顔だった。凝視していると言っていい。
「隊長」
 声が動揺している。真直ぐに緋真を見つめ、「この人は」と喘ぐように恋次は言った。
「隊長、この人は――この人、は」
「ルキアを呼んでくれ。彼女にも処置を」
 遮るように命じた白哉の言葉に恋次に驚きの表情が浮かぶ。
 恋次が何かを口にする前に「規定を破るつもりはない」と静かに白哉は言葉を封じた。
「……でも、隊長」
「人の生を送るには不要の物だ。むしろ害になる」
 淡々と語る白哉の一言に白哉の決意を悟り、恋次は唇を噛み締め「はい」と頷いた。続いて懐から携帯電話のようなものを取り出し操作する。
「俺だ。悪ぃが先にこっちに来てくれるか」
 それだけ告げて通話を終える。
 それ以降恋次は何も言わず、無言で二人に背中を向ける。――まるで此処に自分が、部外者が居ることを詫びるように。
「白哉さま」
 激しい不安が湧き上がる。先程までの幸福な気持ちは消えてしまった。処置。記憶の処理。不穏な言葉に震え上がる。
「白哉さま」
 左手を支えにして身を起こした。途端、激し痛みが身体を突き抜ける。動けば痛みが戻ると言った白哉の言葉は嘘ではなく、再び襲われる激痛に、それでも緋真は唇を噛んで悲鳴を押し殺した。
「緋真」
 動くな、と命じる白哉の袖を掴んで縋りつく。
 二度と離れたくない。ようやく逢えたのだ、ようやく――ずっとずっと待ち続けてようやく逢えた。
「もう離れない、ですよね? これからはずっと一緒ですよね?」
 ぽろぽろ流れる涙を止められない。離れたくないと縋る手に白哉の手が重なり、――緋真の唇に白哉の唇が重なる。
 優しい静かな口付け。――五秒の僅かな。
 封じられた唇が解放され、「白哉さ……」と名前を呼ぶ緋真の耳に静かに「白伏」と白哉が呟いた。
「え……」
 淡い金の光に包まれるのを感じた瞬間、圧倒的な力で意識が落ちていく。 
 白哉が何をしたのかはわからなかったが、白哉が何かをしたのはわかった。抗いようもないほど、強制的に意識が落ちていく。 
 白く霞んでいく意識の中で、視線を彷徨わせる。もう身体を支えることが出来ない。無理に動かした身体は痛みを取り戻す。だがその痛みさえ、緋真の意識を覚醒させることが出来なかった。
 霞む目で必死に白哉を見つめる。静かに見下ろす美しい顔が見える。意志を曲げることの無い、厳しく――哀しげな。
「兄さま。――恋次」
 落ちる意識を必死で引き止めようとする緋真の耳に、少女の声が聞こえてきた。それに返す二人の声は聞こえない。ただ、小走りに駆けよる小さな足音がする。
 先程の白哉の言葉――「彼女にも処置を」という言葉が緋真の耳に甦る。
 逃げなくては、と必死で身体を動かす。途端、激痛に思わず悲鳴を上げた。それでも落ちていく意識は止めることが出来ず緋真は絶望の声を上げる。
 そのあまりにも悲痛な声に、見知らぬ少女は「大丈夫だ」と優しく緋真に声をかけた。シーツを握り締める緋真の手に暖かな手が重なる。
「大丈夫だ、すぐに傷を治す……から……」
 途中から声が呆然としたものに変わる。振れる手が震えているのが伝わり、途切れそうな意識を必死に繋ぎ止め開いた緋真の目の前に、緋真が居た。
 緋真とそっくりな――緋真とは別の少女。
 その少女が呆然と緋真をを見ていた。見開いた目。唇が震え、かすれた様な小さな声で少女は、 
「姉さ……」
「ルキア!」
 恋次に叱咤され、緋真とよく似た少女ははっと息をのんだ。そして詫びるように目を伏せる。
 自分とよく似た少女。自分よりも幾分小柄な、――甦る懐かしさと歓喜と懺悔の感情に、緋真は何かを言おうと言葉を探す。
 何かを言わなければいけない。頭にあるのは謝罪と、生きていてくれたことへの感謝と、歓喜と――
「……ごめんなさい」
 緋真が謝る前に、目の前の少女が顔を伏せたまま謝罪の言葉を口にした。ごめんなさい、と小さく呟き、カチリと何かを作動させる音がする。
 そして次の瞬間、視界が白くなった。匂いはなく、ただ視界が煙で白く浸食される。――それと同時に、これまで緋真が必死で引き止めていた意識も遠くなる。痛みで意識を覚醒させようと折れた右腕を動かしてみたが、もうその痛みも感じなくなっていた。 
「あ……!」
 必死で抗う。今ここで意識を失ってはいけないと頭の中で緋真の意識が叫ぶ。忘れてしまう、消えてしまう。大切なものが何もかも。
 霞む目を必死で開ける緋真の目に、緋真を見下ろす白哉が映った。
「すまない」
 傷付いた身体で、傷付いたような声で。
「これからもお前をずっと護る。いつかお前が尸魂界へと来るその日まで」
 白哉が何を言っているのかわからない。ただ緋真に解るのは、今ここで意識を失ってはいけないということだけ。
「それまで、……お前は、人の生を」
 苦しげな声は――恐らく傷の痛みのせいではなく。
「どうか幸せに。――どうか、いつまでも幸せに」
 お前の幸せが私の幸せ。
 けれど白哉の表情は、白哉の声は、とても幸せそうには見えず――
「どうかお前が、いつまでも幸せであるように」
 緋真。
 最後に緋真の名前を呼んで、そっと緋真の頬に触れ――「眠れ」と白哉は緋真に囁き。
 緋真は抗うことが出来ずに眠りの底に沈んでいった。






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