乱暴な、激しく叩き付けるような扉の開く音に緋真は驚いて扉を見る。その1秒に満たない時間の中、既に男は緋真の部屋の中に這入り込んでいた。
 驚く緋真の顔が、一瞬にして怯えたものになるのを見て、男の中に嗜虐心を起因とする満足感がせり上がる。怯えながら一歩後退り、震える声でその珊瑚色の唇から「征、浩さん」と呟かれた己の名前に興奮した。
「どうして――まだ、学校」
「早退したんだよ。お前が来るっていうから」
 昨夜、母が征浩に「明日4時過ぎ、あの娘が来るから」と告げたのは、征浩が緋真に会うことがないようにという親切心だっただろう。
 征浩が緋真を嫌っていると知っている、それ故の情報提供。万一の予定外の事態――午後の授業がなくなるなどの不測の事態があったとしても、早くに帰宅して緋真のかち合わないようにという親切心。
 それを聞き、征浩は母に感謝しながら「わかった」と笑顔で答えた――「教えてくれて、ありがとう」と。
「私も会いたくないしね。だから念の為に明日はちょっと他に色々寄ってから帰るわ。6時には帰るようにするけど、征浩ちゃんもゆっくり帰っていらっしゃい?」
「わかったよ。何だったら明日は夕飯一緒に外で食べる?」
「そうねえ。征浩ちゃんと外でお食事するの、最近なかったものね? お母さん嬉しいわ」
「じゃあ7時にさ、空座駅で待ち合わせしようよ。それまで母さんデパートでゆっくり買い物してればいいよ。服でも買えば? 夏用のさ」
 日頃は苛々としていることの多い、いつからか母親を疎んじているような態度を取り始めていた息子のいつになく優しい言葉に、征浩の母は嬉しそうに満面の笑顔で「そうね!」と頷いた。
「そうしましょう! ああ、楽しみだわ。何を食べましょうか?」
「母さんの食べたいものでいいよ。――じゃあ、明日はゆっくりしてきて」
 すでにその時にはもう、征浩の中で計画は進んでいた。
 ――母という邪魔者が介入しないように、と。
 緋真は嫌いだ。子供の頃から嫌いだった。自分が必死に勉強しても取れない点数を、然したる苦労もなく取ってしまう緋真が大嫌いだった。周囲の人間が緋真ばかりを誉めそやすことに腹が立った。可愛らしい、聡明な、優しい――緋真が誉められるたびに、征浩の中に黒いものが溜まっていく。
 だから徹底的に苛めた。殴る蹴るは当たり前にした。他人に気付かれないように、外に見える部分に痣を作るようなことはしなかったし、大怪我をされても困るので本気で暴力をふるうことはなかったが、適度な力で適度な日数を置いて適度に痛めつけた。
 征浩に対する緋真の態度が、徐々に怯えから恐怖、やがて諦めに変わっていく過程はとても面白いものだった。長い年月の間の密室での暴力は、緋真から反抗心や敵対心を奪い、従順な奴隷へと変化させた。緋真が征浩に逆らうことなどない。征浩の暴力にただじっと耐え、暴力の時間が過ぎるのを待つだけだった緋真。
 その緋真が、人よりも秀でた容姿をしていると気が付いたのは、つい最近のことだった。
 今まで征浩の中で緋真は緋真でしかなかった。突然現れた厄介者。こいつの所為で誰も自分を誉めなくなった。邪魔で腹立たしい存在。虫けら、屑――そう思っていた緋真を、家に遊びに来た学校の友人が「すっげえ可愛い!」と興奮したように言ったことに非常に驚いた。
 紹介して、と懇願されたのを本心から「めんどくさい」と突っぱねた征浩に、「そっかお前もあの子狙いか」と諦めたように肩を落とす友人に「はあ?」と思った。
「いいよな、あんな可愛い子と一緒に生活できてさ。――なあ、風呂上りとか、下着姿とか、見、見ちゃってんの? お前」
 鼻息を荒くして詰め寄る友人の言葉に、緋真が「女」なのだと、征浩は初めて気が付いた。
 一度気が付いてしまえば、確かに緋真の容姿は群を抜いている。友人曰く、擦れてない感じ、気弱そうなところがいいらしい。憂いを含んだ大きな目、化粧など必要ないほど肌理の細かい白い肌。腰は細く、ブラウスの盛り上がりから見て恐らく胸の大きさ形は申し分ない。そして決して反抗などしない従順さ。苛めれば泣き出してしまいそうなか弱さ。
「そそるよなー」
 夢見るように友人は言った。恐らく彼の中では、色々な妄想が広がっているのだろう。
 その友人に感化されるように、やがて征浩も緋真を「女」として見るようになった。そして「見る」はやがて「観る」、そして「視る」に変わる――絡みつくように、ねっとりと。
 緋真の顔に、今までとは別の意味の「怯え」が見えるのがまた面白かった。親のいないところで卑猥な言葉を囁く、見えない場所で身体に触れる――偶然を装って触れた緋真の胸の柔らかさに、征浩はその夜興奮し、それ以降何度も自慰行為に緋真を使った。そして気付く。
 ヤればいいじゃないか、と。
 自慰行為などする必要はない。緋真はそこにいるのだから。
 今までこの家に置いてやったのだから、緋真には拒絶という選択肢など在り得ない。自分の命令には絶対に従わなければならない。何故なら――自分はこの家の人間で、緋真は居候だからだ。
 そう気付けば、毎日が楽しくて仕方がなかった。偶然を装って緋真に触ることもしなくなった。装う必要などない、緋真は逆らえないのだから。これは自分の当然の権利だ。堂々とすればいい、これは自分の所有物だ。自分よりも下の人間だ。触って何が悪い。いや、触られることを喜ぶのが普通だろう。俺のために奉仕することが緋真の仕事だろう。
 それなのに、征浩が緋真の胸を掴むたび、緋真の形のいい尻を触るたび、緋真は怯えと共に嫌悪の表情を浮かべて自分から距離を取る。最近では棒を使い、自室の扉を外から開けられないようにする始末だ。
 緋真のくせに。
 そう毒づきながら、一向に緋真と二人きりになるチャンスもなく――故意に母親が征浩と緋真二人きりにならないようにしているのは子供の頃からのことだ。部屋の中で二人きりになることはあっても、家の中には必ず母親がいる。たとえ自室で緋真に襲い掛かっても、同じ家に居れば母親も気が付くだろう。そして緋真を疎んじ自分を溺愛している母親は、そんな事態になったことを知れば「征浩の為に」躊躇なく止めに入り、緋真をこの家から追い出すだろう。征浩を誘惑した性悪女と罵りながら。
 それでは駄目だ。征浩が望むの行為の完遂で、継続的な関係だ。最中に邪魔をされても困るし、緋真を家から追い出されても困る。使えねえ邪魔な婆あだと己の母親に毒吐きながら緋真に襲い掛かる算段を征浩が画策しているさなか、予想外の出来事が起きた。
 緋真がこの家を出ていくこという。
 友人――征浩も見たことがある、日に焼けた、緋真とは正反対の生意気そうな女――の家に泊まると言って緋真が外泊した次の日、そのままそいつの家に居候し、一人暮らしをすることになると、厄介者を追い払うことができたと大喜びする母親から聞いた。
 腸が煮えくり返るようだった。
 緋真のくせに――緋真のくせに。
 自分を拒絶し、逃げ出したのだ――緋真のくせに。
 その時に見た、これから緋真と一緒に暮らすことになる男が、まだ40前の、髪をオレンジ色にした洒落た感じの男だったことにも腹が立った。
 もしかしたら、あの男に縋り付いたのか、と思う。
 あの男が緋真の身体目当てで引き取ったのだろうと、歪んだ心の持ち主である征浩は信じて疑わなかった。
 毎晩のように、緋真があの男に抱かれていると、征浩は妄想しては歯噛みする。緋真のくせに、緋真のくせに、と目を血走らせ吐き捨てる。
 吐き捨てながらその二人の行為を妄想し、そして緋真を浚い屈服させ泣いて懇願するまで犯しまくる妄想で毎夜自慰に耽る。
 それは一種の愛なのだろう。歪んだ、歪な愛情。
 征浩は認めないだろう。
 けれど確かに――征浩は緋真に恋をしていた。
 幼い頃から一緒に居た従妹。初めて会った時のことも覚えている。征浩の父親に連れられ、緊張したようにこちらを見ていた。目が合った瞬間、ぺこりと頭を下げて「よろしくおねがいします、おにいちゃん」と可愛らしい声で言った小さな緋真。
 何でもできる緋真。優しい緋真。自分が緋真に勝てることは、両親が揃っていることぐらいしかない。――その両親でさえ、実際には父親は家には殆ど帰らず、恐らく外に女がいるのだろうと征浩も薄々わかっている。そしてその父親にあてこするように、母親は完璧な主婦を演じ、習い事に勤しみ、征浩を溺愛した。
 歪んだ家庭。歪んだ愛情。
 征浩の緋真への想いも、歪んで捻じれて縺れて捩れて――征浩自身もそれが愛情だと気が付かずに。
 ただ、緋真への独占欲と所有欲に支配され。
 緋真に愛されることよりも、緋真を従わせること、自分の意のままにすることを重要視し。
 緋真が自分を見る度に浮かべる怯えの表情に、緋真を支配しているのは自分だと認識しては安堵していた。
 そんな緋真が叛逆した。征浩の存在に怯えることしかできなかった無力な兎が、こともあろうに征浩の支配下から逃げ出したのだ。奴隷にあるまじき行為――許されない反逆行為。
 事の成り行きに歯噛みしても、事態は征浩の想像の範疇を超えて素早く進んで、あっという間に征浩には手が出せない状況になっていた。
 他者が介入しこの家から緋真が出てしまえば、征浩の力は及ばない。緋真に影響を与えることは出来ない。
 悔しさに、緋真を連れ去ったあのオレンジ色の髪の男を呪いつつ、それでも何も出来ずに半月。
 征浩に絶好の機会が訪れた。
 緋真を思い知らせてやるとてつもないチャンスが。
 征浩を虚仮にした性悪女に制裁を下す機会が。
 そして半月ぶりに上機嫌に、征浩はその日の午前を過ごし――午後は「体調を崩し」早退し、獲物が罠に掛かるのを自室で息を潜めて待っていた。
 二階に上がらずそのまま帰ろうとする物音に一瞬焦り、緋真が靴を履く前に階下に駆け下りて捕まえようと部屋を飛び出そうとした瞬間、階段を上がる小さな音に笑みを浮かべた。
 事態はそうあるべく進んでいる。
 征浩の望むとおりに。――何故なら、それが正義だからだ。当然のことだからだ。しなくてはならないことだからだ。摂理だからだ。道理だからだ。
 音をたてぬよう、静かに部屋を出る。この為に自室の扉は半開きにしていたのだ。そのまま緋真の部屋に行き、静かに静かにノブを回す。
 微かに開いた隙間から覗き込むと、半月ぶりに見る緋真の姿があった。学校の制服姿。空座高校の制服は、周囲の男子学生の評価が高い。
 今は夏服なので、白い半袖のブラウス一枚だ。赤いリボンの下に形よく盛り上がった緋真の胸と、短いプリーツスカートからすらりと伸びた白のハイソックスに包まれた細い足に目を奪われ、これから数十分後にはあの身体を自由にしている自分の未来を想像し征浩は生唾をのむ。
 凝視する征浩の視線の先、緋真は胸に手を置き俯いている。何かを願うように、何かを想うように――そしてその唇が動いた。
「――白哉、さま」
 それを聞いた瞬間、征浩は隠れることをやめ、叩き付けるように一気に扉を開いた。
 


 知らない男の名前を緋真が口にした――それも、征浩が見たことのない、切なげな表情で――征浩にすらわかる、恋する者の顔で。
 怒りに我を忘れ乱暴に開いた扉の音に、目の前の緋真がこちらを見た。視線が合う――その緋真の表情が、征浩の知らない恋する少女の顔から征浩の知るいつもの緋真の顔に戻る。
 見慣れた――怯えた顔。
 自然と笑顔になる。その笑顔が歪んでいることも自覚する。そしてその笑顔は、緋真を更に怯えさせることを確信している。
 読み通りに緋真は一瞬大きく目を見開き、助けを求めるように左右に視線を走らせた。勿論助けなど在る筈もない。逃げる場所もない。出口は自分の背後の扉だけだ。
 後ろ手にドアを閉めながら、征浩は更に一歩、緋真との距離を詰める。同時に緋真は一歩後退する。無力な動物を追い詰める快感。人を支配することの快感。
「征、浩さん」
 緋真の、震える声で呼ばれる自分の名前に興奮する。緋真のか弱さは、いつだって征浩の加虐性を加速させた。緋真自身に非はない。けれど緋真のその大人しい性格は無意識に征浩を煽る――狂わせる。
「どうして――まだ、学校」
「早退したんだよ。お前が来るっていうから」
 緋真の言葉が終わるのを待たずに被せるように言葉を吐く。それも緋真を追い詰めていくことは間違いない。
「久しぶりだからな。お前も会いたかっただろ? 俺に」
「…………」
 緋真は言葉を返さずに横を向いた。そこに、今までには見たことのない緋真の反抗――征浩への嫌悪を見出して、征浩の余裕は吹き飛んだ。一瞬にして怒りに支配される。
「随分といい態度だな、緋真ァっ!」
 突然怒鳴りつけた征浩の声に、緋真の身体が硬直したのが分かった。十年来の躾が、半月で消える筈などないのだ――そう確認して、征浩は緋真をいたぶり始める。
「たった半月で礼儀を忘れたのはどうしてだ? 犬だって飼われた恩はもっと覚えてるだろうよ、お前は犬以下か? あぁ?」
 大きな瞳を潤ませて、小さく震える緋真に気を良くし、征浩は一歩踏み出した。同時に緋真も一歩後退する。
「『びゃくや』ってのは誰だ? この間のおっさんか? そいつがお前の新しい飼い主ってわけだな? そんで毎日そいつとヤりまくってんのか? それこそ犬みてえによ!」
 その瞬間、緋真の表情から怯えの表情が消えた。今にも泣きそうだったその顔は、征浩の目の前で征浩の見たことのない表情に変わる。
「私に親切にしてくれる人たちを、あなたなんかと同列にしないで」
 強い瞳で緋真は征浩を真正面から見据えて言った。
 何の見返りもなく、純粋な親切で緋真に手を差し伸べてくれた一護を、征浩が侮辱したことが許せなかった。
「あの人たちはあなたなんかとは違う。あなたみたいに心が汚くなんてないもの」
「手前……っ!」
 緋真の胸倉を掴み、殴りかかる勢いで引き寄せても、緋真は怯えることはなかった。強く征浩を睨み付けている。淡い紫色の瞳に燃えているのが征浩への怒りと嫌悪だとはっきりとわかる。
「私、あなたが嫌いです。大嫌い」
「…………っ」
 予想以上に――否、予想などしていなかった。
 緋真が自分を嫌っていることは知っていた。嫌われるよう自ら仕向けてきたこともある。自分だって子供の頃から緋真が大嫌いだった――憎んでいたといっていい。
 けれど、実際緋真にこうして真正面から嫌悪を突きつけられて――征浩は。
 自分が衝撃を受けていることに気が付いた。
『あなたが嫌いです。大嫌い』
 その言葉に、激しい衝撃を受けていた。
 そして、ショックを受けている自分にも――動揺した。
 別に緋真に好かれようなどとは思っていない。こんな屑に好かれたいとも思わない。「だからどうした」と哂えばいい。「屑が何言ってんだ、クソが」と言えばいい。塵が何を言っても関係ない。
 そうだ、そのはずなのに。笑うべきところで俺はどうして――笑えないのか。
「ふ……ざけんなよ、手前ッ!」
 胸倉を掴んだまま、殴るように緋真の身体を大きく突き飛ばすと、勢いで赤いリボンが千切れた。征浩の手に残った赤いリボンに、緋真の乱れた襟元に、緋真と征浩の動きが止まる。……何かに気付いたように。
「…………っ」
 先に動いたのは緋真だった。余計な物のないこの部屋は空間が多い。ベッドの横に立つ征浩を迂回するように、扉に向かって走り寄る。
 指先がドアノブに触れた瞬間、背後から襟を掴まれてそのまま引き摺り倒された。容赦ない力で、ベッドの上に投げ飛ばされる。
「………っ、っ、」
 緋真は悲鳴も上げずに必死で抵抗し、征浩は怒声も上げずに緋真を抑えつける。
 征浩は運動とは無縁の生活をしていたので、本気で抵抗する緋真の動きを封じるのはそう簡単には出来ない。思い通りに事が運ばないことに苛立ち、征浩は悪態を吐く。
「くっ!」
 緋真の爪が征浩の頬に傷を作った。その頬を走る痛みにかっとなり、征浩は緋真の頬を張飛ばす。不安定な姿勢からの平手打ちはあまりダメージは与えられなかったが、それでも緋真が一瞬怯んだことに勢い付いて、征浩は右手を伸ばして緋真の襟を掴んだ。そのまま勢いよく引き千切る。
 布地の避ける音がした。非力な征浩の力では、僅かにボタンが二つ弾け飛んだだけだったが、それでもその僅かな隙間から緋真の清楚な下着が垣間見え、征浩の欲情に油を注ぐ。
 暴れる緋真の上に跨り、腹の上に腰を下ろした。左手で緋真の右手をシーツの上に縫い付ける。これで緋真は足は使えず、利き手の右手も使えず、ようやく征浩は緋真の動きを封じることにほぼ成功した。
「……軽蔑します」
 ベッドの上に組み伏せられながら、緋真は征浩を睨み付けた。未だ怯えの表情はない。怒りの方が激しいのだろう。
「力尽くで人を思い通りにしようとするのは卑怯です。最低です」
 緋真は真正面から糾弾する。その真直ぐな瞳が卑怯な征浩を貫く。
「……煩い、黙れ」
 ぎりぎりと唇を噛んで、征浩は緋真を見下ろした。肌蹴られた胸元に、銀の鎖に繋がれた指輪が見える。
 緋真がそんなものをしているのは初めて知った。何時からしているのか、誰に貰ったものか――緋真にあの切ない表情を浮かべさせている男か。
 腹から湧き上がるどす黒い感情を嫉妬だと認めることなく、征浩は緋真の胸元に手を伸ばした。胸に触れられると身を固くした緋真は、頭上の征浩を睨み付け――征浩の視線が指輪にあることに気付いた。
 その瞬間、緋真の顔から怒りの表情が消えた。
「それに触らないで!」
 初めて緋真は悲鳴を上げた。その声に驚き征浩は一瞬手を止める。思わず見下ろした緋真の瞳に懇願する必死の思いを見つけ、――歓喜に打ち震えた。
 緋真にとってこれは相当大事なものらしい。
 そうとわかれば、それで充分だ。
「『それ』ってこれか?」
 胸の谷間に置かれた指輪を指でつまむ。鎖の長さの範囲で持ち上げると、緋真が「やめて、触らないで!」と身を捩った。涙さえ浮かべている――先程までの怒りの感情はそこに見出せない。
 これさえ手に入れれば――もう、緋真は自分に逆らえない。
「――おいおい、『お願い』するには言葉使いがなってないんじゃないか? 緋真」
 指でつまんだ指輪を強く引く。銀の鎖は緋真の細い首に食い込んだ。このまま引けば、鎖はあっさりと引き千切れるだろう。
「いや……っ! お願い、指輪は……それだけは……」
「まあだ言葉使いが足りてねえなあ」
 にやにやと見下ろす征浩の下卑た顔ももう緋真には怒りの感情を掻き立てない。指輪を――夢の人が自分にと送ってくれた指輪を護ることに全ての意識が向いていた。
「鎖を切らないで……取らないで……!」
「『お願いします、征浩さん』、だろ? いや、『征浩さま』……だな?」
 『びゃくやさま』と緋真が呟いていたことを思い出し、征浩は言い直した。
「お願いします……征浩さま」
 即座に緋真は征浩の言葉を繰り返す。そこまでこの指輪を取られたくないのかと征浩は内心驚いた。
 この指輪さえ盾にとれば、緋真は思うが儘になる。事を上手く運ぶ魔法の道具を手に入れて、征浩は舌舐め摺りをした。
「へーえ? そんなにこの指輪が大事なのかよ?」
 指先で指輪を弄びながら、左手で緋真の胸元の奥に手を差し込む。視線は指輪ではなく緋真に向ける――鎖を引き千切られることを躊躇して、緋真は抵抗することができない。途方に暮れた、涙を溜めた目で征浩を見上げている。その表情が男を煽るなどと、緋真は知る由もない。
 下着越しに触れる緋真の胸は片手ではあふれる大きさで、弾力のあるやわらかいその手触りに征浩の下半身は熱くなる。
「もう緋真はそいつとヤってんのか?」
 形の良い胸を鷲掴みにして捏ね回す。容赦ない力で胸の形を変えられ、緋真はその可憐な顔を痛みに歪ませる。
「な……何を……」
「そのびゃくやって男とヤってんのかって聞いてんだよ」
 指輪を引っ張る――鎖が引かれる。首に食い込む鎖に、緋真は「やめて!」と悲鳴を上げた。 
「何もしていません! どこにいるかもわからない方です、だから……!」
 何もしていない、だから――許されると、許してくれるのではないかと緋真は僅かな希望に縋り付いた。こんな暴力があっていい筈がない。
「へえ……じゃあ緋真はバージンか」
 緋真の必死の懇願も虚しく、征浩は嬉々として緋真のスカートの中に手を差し込む。躊躇いなく下着を引き下ろそうとする征浩の手が肌に触れ、緋真の全身が怖気だった。
「やだ! いや! やめて、離して!」
「指輪とバージン、どっちを俺に捧げるか、お前に選ばせてやるよ」
 心底楽しそうに緋真を見下ろす征浩の視界で、緋真の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。次から次へととめどなく。
 そんなことが選べるはずはなかった。
 再び、必死で抵抗を始める緋真を見下ろして征浩は哂う。
「決められねえなら、どっちも俺が貰ってやるよ!」
 愉悦に歪んだ笑みを浮かべ、征浩は銀の鎖を引き千切る。緋真の目が見開かれ、「やめて、お願い返して……!」そう叫んだ緋真の声に被さるように、壮絶な破壊音が二人の耳に轟いた。




 部屋中に破片が乱舞する。
 壁を破壊して、何かが突如現れる。
 猛然と立ち込める粉塵の中、巨体が佇んでいるのを、征浩に組み伏せられたまま緋真は見た。
 大きな――あまりにも大きな。
 決して人ではありえない大きさの。
 決して人ではありえないかたちの。
 決して人ではありえない恐ろしい「何か」が。
 


 咆哮した。






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