気付いた時には、ソレは背後に忍び寄っていた。
 ハッ、ハッ、ハッ、と繰り返される荒い息遣いと獣臭さに、恐怖で身が竦んで動けない。
 棒のように立ち尽くし、僅かな、そしてそれが全てである小さな風呂敷包みに縋るように胸にぎゅっと抱きしめる。あまりの恐怖に気が遠くなる。
 そして、それは自己防衛――本能だろう。
 このまま意識を失ってしまえば恐らく楽に死ねるだろうことが分かっていた。
 意識がないまま、喉笛を噛み切られ一瞬で絶命。苦しさも痛みもなく、死んだことに気付かずに死ねる、瞬時に楽になる。
 けれど、だから――私は死ねなかった。
 私にはしなくてはいけないことがある。私には見つけなくてはいけない子がいる。
 手放してしまった、それが私の罪。背負うべき私の咎。
 大切な私の妹。たった一人の私の妹。
 
『取引しましょう、お嬢サン』

 お嬢サン一人でも大変なのに、こんな赤子を連れて生きていけないでしょう?
 アタシがこの子を引き取りますから。
 住まいも食べ物も着るものも、この子の為に私がすべて用意しましょう。
 アタシは怪しい者じゃありません。
 瀞霊廷に住んでる者です――ご存知ですか? この黒い着物がその証。
 このままだとお嬢サンも小さな小さな妹サンも、揃って生命を落とすしかないと、貴女も気付いているでしょう?
 だからアタシに――その子を任せてくれませんかね?

 黒い着物、帽子に下駄履き――冗談のようなそんな口調で私の前に現れたその人は、行き倒れていた私に林檎を差し出してそう言った。
 死の一歩手前で。私はその人に救われた。
 だから私は――その人に妹を預けてしまった。
 このままでは二人ともに死んでしまうと気付いたから。
 手放してしまった。私のたった一人の妹を。大切なたった一人の妹を。
 

 ――私は死ねない。   を見付け出すまでは。


 もつれる足で必死に走り出す。生きることを諦めたりしない。決して諦めない。走って走って走る――すぐに来ると思った獣の斬撃は何故か来ず、よろめきながら必死で私は森に向かって走り出した。
 こんな平地では身を隠すこともできない。あの森なら、もしかしたら隠れ場所があるかもしれない――そんな淡く儚い期待を胸に、森に向かって走る。
 背後からは何の気配も追ってこない。
 獣の息遣いも聞こえない。
 もしかして――もしかしたら、生き延びることが、

「!!」
 
 森まであと数歩――その距離で、突然背後から勢いよく地面に押し倒された。衝撃に息が詰まる――同時に熱く生臭い呼気が首筋に掛かる。そして耳元に嘲笑。
 ――遊ばれている。
 猫が鼠を弄ぶように。
 逃げられる、と仄かな希望が見えたその瞬間を見透かして――あの距離を一気に跳躍し、私を地面に引き摺り倒した。
「ザん……ね、ン、デ……し、タ」
 不明瞭な声で、耳元で「何か」が囁いた。ぽたぽたと首元に落ちる熱い雫は、この「何か」の――涎、だろうか。
 俯せだった私の身体は、強引に仰向かされ、そのまままた地面に押し倒された。
 真上に――異形のモノ。
 胸に大きな穴の開いた、巨大な身体――顔の半ばを覆った白い仮面状の、もの。
 人の形を模した、人ではないもの。
「あ……、あ、あ」
 悲鳴を上げたいのに、全身が強張って言葉を発することができない。がたがたと震え、泣きながら異形のモノを見上げることしかできない。
「ヤわ、ラ……KA、ソう……Da」
 首筋に、ねっとりと舌が這う――獲物を嬲る、肉食獣の戯れ。
 恐怖に目を見開くしかない私の前で、「それ」は大きな口を開いた。びっしりと奥まで続く鋭い牙。私を切り裂くための鋭利な刃物。
「いたダき、mA、ス」
 首筋に熱い息がかかる。瞬きすることすらできない私は、喉を噛み切る為に私の首筋に顔を埋める異形のモノの身体越しに――
 銀の光が一閃するのを、呆然と見ていた。
 同時に視界が開け――そして同時に視界が赤く染まる。噴水のように吹き上がる赤い水流の向こう、何かが――誰かが、いた。


「無事か」


 低い、感情のこもらぬ声。
 けれどとても美しい声が耳に入る。
 その瞬間、――私の全身が、細胞という細胞が、一斉に叫ぶ――「見つけた」と。
 逢いたかった。
 ようやく逢えた。



 自分ではない誰かの声が聞こえる。
 自分ではない誰かの記憶が蘇える。 









『貴方さえいれば他に何も要らない。
 神さま、他に何も望んだりは致しません。
 私はこの方を、何よりも大切に想います』


『貴方に逢えたのは必然。
 目に見えない糸で定められた絆。
 それは過去も現在も未来も揺ぎ無い、たったひとつの真実』


 遠い日、冬の日――暖かだったあの日。
 背中の痛みと紅い血。
 懐かしい気持ち。
 ようやく逢えた。
 待っていました。
 貴方に逢う日を、もう何年も何年も何年も何十年も待ち続けて、そして――




 












「何故このような所に一人でいる?」


 咎める声に「ごめんなさい」と謝ろうと、私は立ち上がろうと、して――
 極限の恐怖から助かったという安堵の感情の振幅に耐えきれず、……私は意識を失った。
 耳に残る貴方の声。
 今ではない遠い昔、私ではない私の名を呼ぶ、悲痛な声。
 私に手を差し伸べ、蒼白な顔で私を呼ぶ貴方の声。
 そしてもうひとつ……脳裏に浮かぶ私ではない誰かの記憶。
 白い淡雪のような装いの、私ではない別の誰かの、心からの――声。
 生命を失うその瞬間、想ったことは――貴方が無事でよかった、と。
 そして心から想う――心からの感謝を最期に。


『 ――貴方と出逢えて、よかった…… 』






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