半月振りに足を踏み入れた伯父の家の空気は相変わらずくすんだ灰色で、夏樹の家のさわやかな明るさに慣れた緋真にとって、肌に触れる空気すら淀みを感じる耐え難さだった。
 不思議と半月振りに「帰った」という気持ちにはならない。いつだってここは緋真の家ではなかった。緋真とは伯父一家にとってあくまでも「仕方なく置いてやっている厄介者」であり、「家族」ではなかったのだから。
 それでも、この家に置いてもらったこと、衣食住に不自由ない生活をさせてもらったことには感謝している。受けた仕打ちの数々と冷たい言葉、謂われない暴力を許し愛することは出来ないけれど。
 緋真の相談を受けた一護の行動は迅速だった。翌日には伯母に電話し、来訪の予約を取り付け、その日の内に一護とたつきは緋真に付き添いこの家に上がった。
 慇懃無礼な伯母の対応は、ただ世間体の為でしかない。あからさまに透けて見える緋真への無関心さに憤りながら、それでも一護とたつきはこちらも完璧な対応で返し、一見それは完璧な礼儀作法の応酬だった。流れる空気は穏やかでなかったとしても。
 言葉を選び、一切の揚げ足を取られぬよう細心の注意を施し、一護はまず自分の身分と緋真との関係――娘の夏樹が緋真の世話になっていることとそのお礼、そして一護が医者であると知り緋真の伯母がいくらか態度を改めた頃に、緋真が一人暮らしをしたいと言っていること、自分たちがそれをサポートすること、部屋が見つかるまでは自分たちが緋真を預かるということを彼女に告げた。一瞬険しい顔をした伯母に緋真は身が竦んだが、費用の負担などはすべてこちらで持つと一護が口にした途端、伯母の顔は元の取り澄ましたものへと戻り、安堵すると同時に自分が伯母にとって本当に邪魔な存在だったのだと思い知る。
 今更――と緋真は自分を叱咤する。
 そんなことは解っていたことだ。自分が伯母に好かれていないということは。欠片も愛情など緋真に対して持ってはいないことは。
 俯く緋真の手を、たつきがそっと握りしめてくれた。伝わる暖かさに心も暖かくなる。
 ものの30分程度で、伯母は一護の申し出にすべて了承した。緋真がこの家を出て一人暮らしをすること、部屋が見つかるまでこのまま黒崎家で生活すること。荷物は当座の物だけ運び出し、部屋が見つかってから残りの荷物を運び出すこと、それまで責任もって緋真の荷物を預かっていること。緋真にかかわる様々な事柄――学校のことや支払い、緋真の両親が残した緋真の財産など、きちんと処理しなければいけないことは近日中に緋真の伯父と会い決めること。そこまで約束し、一護は立ち上がった。
「とりあえず、着替えとか必要なものを運ぼう。大きなものは後日部屋が決まってから改めて取りに来るから」
「はい。お手数おかけして申し訳ございません」
「いや、全然。気にしなくて大丈夫だから。――俺、部屋に入らない方がいいよな?」
 後半部分は妻へと問いかけた一護に、たつきは頷く。
 男性に見られたくないもの――具体的には下着類などのことを慮って言った一護に、「うん。纏まったら電話するから、それまで車で待っててよ」と片手を上げて配慮に感謝する。
 急がなくていいから、と緋真に声をかけ一護は車へと戻っていった。それに向かって頭を下げてから、緋真は2階にある自室へたつきを案内する。
「すみません、すぐに終わりますから」
「ううん、急がなくていいよ」
 申し訳なさそうに言う緋真の後から部屋に入ったたつきは、その、16歳の少女の部屋にしてはあまりにも殺風景な部屋に眉を潜める。
 ベッドと机、タンス、本棚――家具はその4つだけだ。少女めいたぬいぐるみも雑貨も何もない。カーテンは飾り気のない無地のもの、ベッドのシーツも実用的なものでしかない。明るい色合い、柔らかな色合いのものはこの部屋には皆無だ。
 好きなものを自由に買う、そんなことができる空気ではないのだろう、この家では。
 緋真が取り出す「取り急ぎ必要なもの」、着替えと下着類も、お洒落とは程遠い地味なものだった。外の目を気にしてかみすぼらしいものなどはなかったが、色も形も同じようなものばかりだ。パステルカラーは一切ない、白と茶色と灰色と黒と。
「……あとは教科書とか、学校の物だけです」
「わ、何だその参考書の数!」
「あ、ごめんなさい……」
「いや、怒ってるんじゃなくてね? え? 三年のとかあるじゃん! すご!」
「ごめんなさい、あの、やっぱりこれは置いていきます」
 緋真の成績が良いことを疎んじていた伯母の所為で、緋真自身が本屋で高額な参考書や問題集を買うことはない。全て古本屋で購入したり、緋真の境遇を不憫に思った教師や先輩たちが譲ってくれた参考書類だ。一度人が使ったものはかなり使い込まれ、ぼろぼろになったものも多い。
「いやだから怒ってるんじゃないってば! びっくりしてるの! 緋真ちゃん、夏樹から頭いいって聞いてたけど、いや、すごいわ……」
 家にいる間、夏樹の勉強見てやってくれる? と真顔でお願いするたつきに緋真がはいと頷くと、嬉しそうにたつきはシャツの袖を捲った。
「さて、運び出しますか! って、この量だと入れるものがないね……ちょっと伯母さんに袋か、あったらダンボールもらってくるね」
 捲った袖を直し、緋真に見せていた溌剌とした表情を消し、対伯母に有効な「医者の奥様」の仮面を被り、たつきは階下へと降りていく。
 すぐに詰められるよう、教科書と本棚の本を纏めている緋真の耳に、部屋の扉が開く音がした。たつきが戻ってくるには早すぎる。反射的に振り返った緋真の視界に、無表情で床に座った緋真を見下ろす従兄の姿があった。
「……征浩、さん」
「何してんだよ」
 後ろ手に扉を閉めながら言う無表情な征浩の眼だけが、確かに憤っている。それを感じて、緋真は竦み上がって言葉が出ない。
「何だよ、あの男。あいつ、お前の何? そんでお前何してんの? 何荷物纏めてんだよ。は? お前出てく訳? 勝手に何してんの? どこ行く気だよ? あいつの家に行く訳? 誰だよあのおっさん。何勝手なことしてんだよ? 手前、自分の立場解ってんのかよ? あ?」
 徐々に荒くなっていく征浩の言葉に緋真は怯えた。今まで従兄がここまで激しく怒ったことはない。征浩の凶暴性を垣間見て、逃げ場を求めて緋真は床から立ち上がった。
 その瞬間、腕を掴まれ緋真は小さく悲鳴を上げる。
「お前、俺に逆らっていいと思ってんの? 緋真のくせに?」
「っ、ご、ごめんなさ……っ」 
「ざけんなよ? 今までここに置いてやったのに、」
「緋真ちゃん?」
 ノックの音と共にかけられた場違いなほど朗らかな声に、征浩は掴んでいた緋真の腕から手を離した。ワンテンポ置いて、緋真の部屋の扉が開かれる。そこに紙袋を何枚か手にしたたつきの姿を見つけ、緋真の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「あら? もしかして緋真ちゃんの従兄のお兄さん? 初めまして、黒崎です。 もしかして手伝いに来てくれたの?」
 にこやかに笑うたつきの全身から発しているのは、言葉とは裏腹の完全なる闘気だ。殺気と言い換えていいのかもしれない。
 現役の空手家の闘気を浴び、自分よりも弱い相手にのみ強くなる典型的な卑怯者である征浩は何も言えずに青褪める。
「でももう終わるから大丈夫よ? ありがとう、その気持ちだけいただくわね」
 発する空気だけで征浩を退散させたたつきは、何事もなかったように「さ、本、詰めちゃおう!」と袖をまくる。恐らく聞こえていただろう征浩と緋真のやり取りをあえて聞かず、聞こえていない振りをしてくれるたつきの心遣いに感謝しながら、緋真は本を袋に詰めだした。  





 ――その日から、およそ半月振りの伯父の家だった。
 たった半月だ。季節すら変わっていない。カレンダーもめくられていない。たった半月。それでも緋真には、この十年弱過ごした筈のこの家よりも黒崎家の方を「家」と感じる。
 用事を済ませてはやく「帰ろう」と思う。
 学校に提出する書類に、緋真の後見人である伯父の署名と印鑑が必要なため、緋真はそれを届けに来た。
 伯母には事前にその旨を伝えていたが、伯母の返事はいたって簡潔で、「火曜日の夕方4時に家に来てダイニングテーブルの上に置いておけ」というものだった。火曜日は伯母の通っている生け花教室の日であり、征浩も学校から帰るのは6時過ぎなので、丁度誰も自宅にいない時間を指定したのだろう。それは勿論緋真の為ではなく自分たちの為なのだろうが、緋真も伯母や特に征浩には会いたくなかったので異を唱えることはしなかった。
 夏樹は今日も空手部の練習がある。もうすぐ夏の大会なので気合もかなり入っているようだ。緋真はひとり学校帰りにそのまま伯父の家に寄り、まだ持っているこの家の鍵を鞄から出し玄関の鍵を開ける。
 綺麗に整えられた玄関を上がる。どこも整頓されて美しいはずの室内、けれど感じる空気は灰色に淀んでいる。
 この家に良い思い出は殆どない。
 孤独と悲しみの記憶ばかりだ。
 ダイニングのテーブルに書類を置く。少し考えてから、ノートを切り取り「よろしくお願いします。ご連絡をいただければ、書類は取りに参ります」と書いて書類の横に添えた。
 これで用事は済んだ。この後は買い物をして、黒崎家に帰り夕飯の支度をする。――居候をさせてもらっている間は緋真が夕飯を作っている。それはそうさせてほしいと緋真から頼んだことで、たつきはそれを受け入れた。
 夏樹は料理からきしだからね、私も帰りは六時くらいになっちゃうし、そうしてくれると助かる――そう笑顔でたつきは了解してくれた。それが、緋真に余計な気遣いをさせないためのたつきの優しさだと緋真は勿論気付いている。
 そのまま帰ろうとした緋真は、靴を履こうとしてふと背後の階段を顧みる。――二階へと続くその階段の向こうに、緋真に与えられた部屋がある。
 この家に良い思い出は殆どない。
 たったひとつ――良い想い出はたったひとつ。それは幼い頃に見た夢だけだ。
 月の化身のようなあの人に逢った幼い頃の夢。
 夢だとわかっている。辛い毎日が見せた都合のいい自分の夢だと。それでも緋真は、その夢があったからこの家で耐えてこられたのだ。
 階段を振り返る。
 伯母の帰宅時間にも、征浩の帰宅時間にも、時間の余裕はまだかなりある。
 手にしていた鞄を床に置き、緋真は自分の部屋へと向かって階段を上り始めた。






『その人の名前を、教えていただけませんか?』
 夢の人に良く似た黒い髪の美しい人――黒崎夫婦の結婚式の写真に写っていた人。
 その人の名前が知りたくて、思い切って一護に問いかけた緋真は、しばらく沈黙する一護に、自分の言葉は不躾だったと俯いた。
 写真を見ただけで名前を教えてくれなど――相手はとても美しい人だ。まるで雑誌に載っている芸能人の名前を尋ねるような行為。軽薄だと一護にとられても仕方ない。呆れられた――俯き恥じ入る緋真の耳に聞こえた一護の声は探るような声だった。
「どうして名前を知りたいと緋真さんは思ったんだ?」
「あ、あの……失礼でしたよね、ごめんなさい」
「何だよ親父! んな怖い声出すなよ、いいじゃん別にっ。あの人かっこいいし、あの人の名前ならあたしだって知りたいしっ」
 一護とたつきの空気が普通と違うと敏感に察し、夏樹はすぐに緋真のフォローへと回った。
 人見知りの激しい緋真が、写真の人の名前を初めて会った一護に聞くなど、相当の覚悟で言ったことは間違いない。それに緋真は異性関係については驚くほど奥手だ。その緋真がその写真の人に興味を持ったのだとしたら――名前くらいいいじゃないか、と思う。
 何故、父がこの程度のことで空気が張り詰めるほど緊張するのかわからない。
 緋真をいじめるやつは許さないぞ、と牙を剥いているような、噛み付かんばかりの娘の形相に一護は慌てたように「違うって」と手を振った。
「怒ってない怒ってない。怖い声なんて出してない。あー、その、なんつーか」
「えーとね、私たちはね、その……緋真ちゃんがその人にどうして興味を持ったのか知りたくて。知ってる人? 見たことある人?」
 咄嗟にフォローするたつきにサンキュと目配せし、一護は「そうそう」と緋真に向き直った。
「緋真さんはあの男を知ってる? まずそれを聞かせてもらっていいか?」
 それに答えたら教えてあげる、と暗に言っていることは、敏い緋真にはすぐに分かった。けれど「その人を夢で見たんです」などとても言えない。
「……昔、お会いしたような気がするんです。何というか……随分と昔に……」
 たどたどしく話す緋真の顔を見つめる黒崎夫妻の真剣な表情に、緋真の方が不安になってしまう。
「でも記憶違いかもしれないし……だから、そっくりな人を見つけて、驚いて……でも、違う人ですよね。二十年以上前の写真ですものね……」
 写真の人物は20代の人に見えた。自分が夢で逢った十年前の人と全く同じ雰囲気なのだ。それでは年齢が合わない。
 項垂れる緋真の様子に、一護は意を決した。自分がとる行動が、今後どうでるか……吉と出るか、凶と出るか。
「朽木白哉」
「え?」
「あの写真の男。朽木白哉っていうんだ」
「朽木……白哉……」
 知っている。
 その名前は知っている。
 けれど記憶の何処を辿っても、「朽木白哉」の名前と接した覚えはない……それなのに。
 知っていると断言できる。
 記憶になくてもその人を知っていると……魂にその名が刻まれているかのように。
 逢いたくて逢いたくて……ずっと待って。
 最後に目にしたお顔は、今にも泣きだしそうな――貴方が泣かれるお姿など見たことはないのに――見たくないのに。
 そのお顔を、私がさせてしまっているのがつらい。何もできない私が不甲斐ない。貴方にはいつだって倖せでいてほしいのに。
 貴方がそばに居て、私が倖せだったように。 
 この世界の誰よりも。
 全ての世界の何よりも。
 ああ、私は何て――
「緋真?」
 戸惑ったような夏樹の声に、はっと緋真は顔を上げた。一瞬、何もわからなくなる――此処が何処か、今が何時か――そして自分が誰か。
「緋真!?」
 今度ははっきりと慌てる夏樹の声が聞こえた。どうしたの、と狼狽える夏樹の言葉に自分が泣いていることに緋真はようやく気が付いた。
「え……?」
 あとからあとからあふれる涙に驚き、緋真は頬に触れた。濡れた頬――涙。
 ――きっとあの時も。
 ――私の頬にあの人の涙が。
 胸が痛む。あまりの哀しみに胸が張り裂けそうだ。この哀しみは一体何なのか、何もわからずに緋真は混乱する。
 自分ではない誰かの記憶が滑り込んでくる。記憶だけでなく感情までも――この激しい哀しみの感情は、一体誰の。
「私……私、」
 呆然と涙を流す緋真に、一護は優しく「もう寝た方がいい」と告げた。
「急に事態が動いて、感情が乱れているんじゃないかと思う。今日はもう寝た方がいいんじゃないか? 明日からまた忙しくなるし」
「そうだね。夏樹、パジャマ出して、緋真ちゃん寝かせてあげなさい。布団は今運んであげるから」
「え? あ、うん」
 有無を言わせぬ両親の言葉を不審に思いながらも、緋真の様子が普通ではないことは夏樹にもわかったのでそれ以上は何も言わずに緋真を部屋へと連れて行く。
 緋真はその後のことをあまり良く覚えていない。「朽木白哉」という名前を聞いてから、圧倒的な感情の渦に自分を見失ってしまった――ただ呆然としていたといっていい。
 夏樹が促すまま、たつきが用意してくれた布団に横になり目を閉じる。
 眠いとも眠れるとも思わなかった――というよりも何も考えることができなかった。何かを想い何かを想い出しているようなのだけれど、自分の記憶と感情と繋がらない。自分がどうなったかもよくわからないまま、今自分が起きているのか眠りについているのかもわからないまま、緋真は心の内に激しく渦巻く「誰か」の感情をただ呆然と――茫然と感じていることしかできなかった。





 十年の間、自分が過ごした小さな部屋に足を踏み入れる。
 居場所のなかったこの家で、唯一緋真が息を付ける空間だったこの部屋――家具などはずっと変わっていない。
 そう、このベッドもあの日と同じ。――あの夢を見た日と同じ。
 暗い部屋の中、突然ベッドの横に現れた。それでも怖いとは感じなくて――美しい声が今でも耳に残っている。
 自ら生命を断とうとした自分を、怒り、諌めてくれた。そして言ってくれた――「お前をずっと見ている――見守っている。必ずお前を迎えに来る」と。
 その言葉だけを頼りに生きてきたのだ。
 誰かが自分を見ていてくれる。誰かが自分を見守ってくれてる。独りじゃない。そしていつか迎えに来てくれる、そう信じて。
 夢だとわかっていたけれど。
 哀しみが作り出した幻だと知っていたけど。
 それでも、夢を見た次の朝に覚えのない指輪が机の上にあった、そのことに――「もしかしたら」と。
 ほんの少しだけ――この夢のような話が事実であったと信じたかった。
 そして見つけた――夢の中の人とそっくりな人。
 その人が夢の人本人かわからない。けれど――既に緋真の心の中にはその人のことでいっぱいだ。
 その人を想うと胸が痛む。
 逢いたくてたまらなくなる――声を聴きたくて仕方がない。
 視線を合わせて――その手に触れて。
 名前を呼んでほしい。
 名前を――呼びたい。
「……白哉、さま」
 そっと呟いた次の瞬間、部屋の扉が激しい音と共に突然大きく開かれた。






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