仕事場である実家を出たのは19時を少し過ぎた頃だった。
 黒崎医院は、現在は一護が継いでいる。とはいえ先代でもある一心も診療はしているので、医師二人という状態は比較的心身の余裕も時間の余裕も出来、一護にとって何よりも大切な家族との時間は十分に確保されている。
 夕方に受け取った妻のたつきからのメールには、娘の夏樹の友人が遊びに来ていることと、夕飯は夏樹とその友人の手によるカレーであることが書かれていた。
 娘の夏樹はたつきにとてもよく似ている。無事空座高校を合格し、その制服を着た夏樹を見た時、学生時代のたつきを思い出し感慨に耽っていたことはたつきにはお見通しだっただろう。
 あの、普通の人間は体験することのない貴重な時間から、既に二十年以上過ぎている。
 あの時に比べ、今では時間は緩やかに緩やかに流れ――すでに人生の半分ほどの位置に差し掛かっている。
 なんとなく感慨深くなりながら、玄関の扉を開けた。途端に鼻先をくすぐるカレーの美味そうな匂いに空腹を刺激されながら「ただいま」と声をかける。
「おっかえりー」
 学生時代から変わらない溌剌とした声が一護を出迎える。何よりも大切で愛しい妻の顔が、どこか――何か楽しそうに、もっとはっきり言えば何かを企んでいるように見えて一護は「何だよ?」とたつきに尋ねた。
「何って何?」
「いや、何か企んでるだろ、その顔は」
「企むって何。別に何も企んでないよ」
 とぼける妻の嘘を見破りながら、さて何が出るのかと予想する。一体どんなサプライズがあるというのか。お義父さんとお義母さんが来ているとか? いや、夏樹の友人が来ているらしいしそれはない……と思ったところではたと気が付いた。
 友人――夏樹が改まって紹介したいという友人。つまり。
「夏樹の友人ってのは男か!?」
「何叫んでんのよ、バカ一護!」
 靴を脱ぐ前のそのやり取りに、「もう恥ずかしいからやめてよね」と夏樹が階段を下りながら呆れたように言う。その背後に一緒に階段を下りてくる人の姿は、夏樹よりもやや小柄な少女なことを見て取って、一護はほっとし――次いで、その顔を見て「ルキア!?」と驚きの声を上げた。
「久しぶりだな? なんだよ、恋次と喧嘩でもしたのか」
 くくっ、と堪え切れずにたつきが声を漏らした。やっぱり間違えるよね、あたしだけじゃないよね、と笑い転げる妻の言葉と、もう一度見直した夏樹の背後の少女に、自分の記憶の中のルキアとの微妙な違和感を覚えて一護は「ルキアじゃない……のか」と誰とはなしに問いかけた。
「さっき父さんたちの結婚式の写真見せてもらったけど、うん、びっくりするほど似てたよねー。あたしも驚いた」
「まあ、じっくり見りゃ……確かにちょっと違うけどな。背の高さとか、雰囲気とか……」
 まじまじと見つめる一護の視線に、件の少女はぱっと頬を赤らめた。恥じらうように俯くその少女に、過去から今まで、自分の周囲の女性たち――男と対等に渡り合う、精神的にも肉体的にも強い女性しか見たことのない一護には、あまりにも新鮮に感じるその反応に一護もどぎまぎとする。
「あ、申し訳ない……不躾でした」
「あ、いえ……私こそ、失礼しました」
 ご挨拶もせずに申し訳ございません、と頭を下げる少女からは上品さがうかがえる。これは持って生まれたものなのだろうか。
 世界に三人は自分にそっくりな人間がいるっていうしな、ルキアに今度教えてやろう……と呑気に考えていた一護は、「久儀緋真です」と名乗った少女の言葉に動きを止めた。
「……え?」
「え?」
 愕然とする一護の表情に、緋真が戸惑ったように一護を見返した。薄い紫の瞳――ルキアよりもやや薄い、菫色の大きな瞳。
 たった一度だけ見た少女。
 豪奢な部屋の机の上、桜の花が供えられたその横にあった写真立て。
 微笑んだ少女――その笑顔が幸せそうだったのは、写真機を向ける相手への想い故か。
 幸せそうな、けれど儚げな――その少女の名は。
「ひさな……さん?」
「はい……そうですが」
 困惑しながらこくりと頷く緋真を前に、一護はただ呆然と立ち尽くした。



「一護?」
 たつきに名前を呼ばれて我に返った一護は、慌てて靴を脱いで家に上がる。
 訝しげに自分を見る妻と娘と、戸惑っている少女の姿を見、「いや、悪い」と何でもないように笑った。
「知人と同じ名前だったから。ごめんな、緋真さん」
「いえ、そんな」
「父さん早く着替えてきてよー。あたしお腹空いちゃった」
「ああ、すぐ行く」
 穏やかに笑うと、夏樹と緋真はそのまま台所へと入っていった。配膳をするのだろう、しばらくして食器の触れ合う音と楽しそうな笑い声がする。
 ――白哉は知っているのだろうか。
 白哉が、もう何年も――百年を超える永い永い時を、亡き妻を想って生きていることは一護も知っていた。
 貴族の当主であるという立場上、後継ぎを作ることが義務だと周囲から言われているのを聞き流し、決して後添いを娶らないということも、ルキアから聞いて知っている。
 純粋な、一途な想い――あの端正で無表情の、ともすれば冷たいと称される朽木白哉の、人に見せない激しい情熱を知っている。
 その朽木緋真が、転生している。
 写真に話しかけても決して返事はない。
 けれど、今なら。
 ヒトとして現世に在る緋真には。
「―― 一護?」
 遠慮がちにたつきが「入っていい?」と声をかけるのに、一護は苦笑する。流石にたつきは騙せない―― 一護が動揺していることは伝わってしまう。
「ああ」
 するりと入って来たたつきは「どうしたの?」と単刀直入に聞いてきた。一護が自分に隠し事はしないことを知っている口調で。
 隠し事はもうしないと、一護はたつきに誓っている。それは一護が想いを打ち明けた時に、たつきが出した条件――「もうあたしに隠し事はしないで」。それは高校時代に、嘘をついてたつきを泣かせたせいだから、一護は真摯にその約束を守っている。
「あの子――緋真さん。多分、白哉の亡くなった奥さんだ」
「白哉――朽木さんのお義兄さん、だっけ? え? 奥さん? 亡くなった?」
 混乱しながら呟いたたつきは「あ、そうか」と顔を上げる。
「転生、っていうんだっけ。――生まれ変わり?」
「ああ。ルキアそっくりな外見といい、緋真って名前といい――」
「そうなんだ。そっか、じゃあ白哉さんに教えてあげるの?」
 無邪気に喜ぶ妻に、一護は思案気な表情を浮かべる。その顔を見、問いかけの視線を送る妻に向かって一護は「それがな――悩み処だよな」と溜息を吐いた。
「どうして? だって白哉さん、ずっと奥さんのこと」
「そう。そうなんだけどよ。……尸魂界に転生してたら、何の問題もなかったんだけどな」
「問題が……あるの?」
「そうだな。まず尸魂界と現世だ。普通に行き来できない。白哉と緋真さんの寿命の長さも違う」
「……ああ」
「余程の霊力がないと、死神を見ることは出来ない。さっき見たけど、緋真さんは普通の人だよ。お前みたいに飛び抜けた霊圧は感じない。白哉が傍に居ても、きっと緋真さんには白哉を見ることができない」
「でも、白哉さんが義骸っていうのでこっちに来れば……」
「まあ、それは可能だと思うけどな、白哉がそれをするかどうかはともかく。ただ、それをやったにしても、死神と人じゃ一緒になれない」
「……」
「それと―― 一番の問題はよ、緋真さんに白哉の記憶がないってことだ」
「あ。――そっか」
「ああ。『君は前世で私の妻だった』なんて言ってもな、普通の人間は引くだろ。白哉に緋真さんの記憶があって、緋真さんには白哉の記憶がない。それって白哉にとっちゃ辛いんじゃねえか? 自分が忘れられてるってのは」
「……うん。そうだね」
 扉の向こうで夏樹と緋真の声がする。笑い合う声、楽しそうな。
 ――普通の少女だ。
 普通の高校生。そして普通に大人になり、普通に結婚し、普通に生活し、普通に老い、普通に寿命を全うするだろう。
 それが一番幸せなことだと知っている。
 普通の人間は尸魂界の存在など知らない方が幸せだ。
 前世だの死神だの。
 死神と人が結ばれることなど在り得ない。自分の両親のようなことは在り得ない。否、母は普通の人間ではなかった。だからこその――それでも僅かな確率でそれを成し得たに過ぎない。
 そして白哉にとっては?
 自分の愛する存在が、自分の記憶もなく、触れることもできず、他人の妻となることをただ見ていることしかできない、そんな状況を。
 ――知りたいと思うだろうか。
 知らなければ幸せなことは確実にある。
 例えば、と自分に置き換えてみる。
 たつきが何処かで記憶喪失になって、自分を忘れたまま生活し、そして誰かの妻になったとしたら。
 とても平静でいる自信がない。気が狂いそうになるだろう。いや、きっと気が狂う。
 そんな辛さを、白哉に味あわせるのは――あまりにも酷だ。
「とりあえず、どうすればいいのかしばらく考えてみる」
「そうだね。よく考えてから決めた方がいいよ」
 父さん、まだー? と夏樹の焦れたような声がする。「いま行く!」と返事を返し、一護は慌てて部屋着に着替え始めた。




「遅いよ、もう」
 あたしお腹ペコペコなのに、と怒り気味の夏樹と、準備を手伝ってくれた緋真に一護は謝り、皆はテーブルに着いた。
 和やかな食卓。主として夏樹が緋真との馴れ初めを一護とたつきに聞かせている中、一護はさり気なく斜め前に座る緋真を見る。
 ルキアと同じ顔立ち。けれど決定的に違うのはその雰囲気だろう。
 ルキアからは強い意志を感じさせる。前を見据える瞳――出会った当初はルキアから悩みや劣等感――主として養女の自分の立場から発生する屈託――を感じることはあったが、それも白哉の想いを知り、関係を強め、力を付け、それに見合う地位を自力で得、修羅場をくぐり生き残ったこの時間の流れの中で、そういった揺らぎは見えなくなった。
 対して目の前の緋真からは、どこかしら儚さを感じさせる。あまり自分の意見を言わないような、大人しいイメージがある。いつも穏やかに微笑んでいるような。
 彼女は理不尽なことを人にされても、怒るよりも哀しげに俯くのだろう。
「ところで。父さんと母さんに聞きたいこととお願い事があるんだけど」
 食事も終わり、たつきが淹れたお茶を前に、夏樹が改まったように言う。横を見れば、緋真も心なしか緊張しているようだ。
「あのね。――緋真、一人暮らししたいそうなの。どうしたらいいか、何をしたらいいか、あたしたちに教えてください」
「一人暮らし?」
 たつきが首をかしげる。大人しげな緋真が、家を出て一人で暮らしたいという理由が分からないのだろう。
「ご両親は緋真ちゃんが一人暮らしをすることは了解してるの?」
 夏樹と緋真が顔を見合わせる。――そして緋真が小さく頷くと、「あの」と遠慮がちに話し出した。
「私、両親はいないんです。――私が子供の頃、事故で」
「あ……ごめん」
「いえ。――それで私、伯父の家に住まわせてもらっています。でも、……私、迷惑をかけているみたいで」
 その言葉に夏樹は何か思うことがあるのか、一瞬右の眉を跳ね上げる。だが緋真の話を邪魔をするつもりはないのか、頬を膨らませて横を向いた。耳のいい一護には、夏樹が「迷惑かけてるのはあいつらの方だよ」とぶつぶつと呟いているのが聞こえたが。
「私、あの家を出たいんです。でもどうしたらいいのかわからなくて……」
「織姫おばさんもうちの高校に居た時一人暮らしだったんでしょ? その時のこと教えてよ。それと、じいちゃんに部屋を見つけてほしいんだけど、あたしからお願いしてもいいかなあ?」
「部屋探しの件は親父に言ってもいいけどな、一人暮らしは……ちょっと大変だぞ? 井上はまあ……一人で暮らしてはいたが……大体生活費はどうするんだ? 伯父さんは出してくれるのか?」
「それは……」
 まだ伯父には何も言っていないのだ。生活費を出してくれるかはわからない。両親が事故死した時の保険金などは伯父夫婦が管理しているので、緋真には今それがどれだけ残っているのかはわからない。
「家賃に生活費。それに学費だってかかる。子供が簡単に出来るものじゃない、一人暮らしなんて」
 悄然とうなだれる緋真にやや胸を痛めながら、一護はそれでも諭すように「あと2年。もう少しだ、頑張れるんじゃないか?」と問いかけると、反論は緋真ではなく娘からあった。それもかなりの怒り方で。
「頑張れないから相談してんじゃん! あの家にこのまま住んでたら緋真が危ないから、だから家を出る相談してんじゃん!」
「危ない? ……どういうことだ」
「今の家に、緋真の従兄がいるのよ。すっごい嫌な奴。そいつが緋真を……って空気読めバカ親父!」
 途端、たつきの表情が一変した。勿論一護の表情もだ。
 共に正義感の強い、卑劣を嫌う性質だ。事情が分かるや、すぐに一護は自分の言葉を撤回する。
「わかった。そういう事情ならすぐにでも出た方がいい。……悪い、率直に聞くけど、実際に乱暴――性的な意味で乱暴はされてないか?」
 一護が興味本位で聞いているのではないとわかる、真摯な、真剣な表情だったので、緋真は素直に頷く。夏樹の手が緋真の手を握り締めてくれた。
「はい。今まではただ意地悪をされたり、打たれたり蹴られたりするだけだったんですが、ここ最近急に……部屋を覗いたり、その、お風呂に入っていると脱衣所に入ってきたり……お風呂場には鍵がかかるので、そこまで入ってくることはないんですけど。あと、すれ違いざまに、さ、触ってきたり……『この家にいる限り逃げ場はないだろ』って」
 小さな声で説明する緋真の話を聞くにつれ、黒崎一家三人の表情はみるみる阿修羅の顔になっていく。ここにいない緋真の従兄に激怒しつつ、「わかった」と緋真と夏樹に頷いた。
「何とかする。早急に。何だったら部屋が見つかるまでこの家にいてもいい」
「ホント!? ありがと父さん!」
 小躍りする夏樹の横で、緋真は安堵の溜息を吐いた。常に警戒していなければならないあの家で暮らし続けるのは既に限界に近く、夏樹の家に居てもいいと言ってくれたことは本当に救われた思いだ。
「本当に申し訳ございません。かけてしまったご迷惑は、いつか必ずお返しします」
 深々と頭を下げる緋真に、夏樹が「遠慮しないでいいよ」とさばさばと笑う。この家の空気はとても澄んでいて羨ましい、と緋真は伯父の家の淀んだ空気と比べて心からそう思った。
 緋真が伯母に夏樹の家に泊まる旨を連絡すると、やはり緋真の行動に興味がない伯母はあっさりと了承し、何も聞かずに電話を切った。その電話の短さが相手の態度を一護たちに伝え、黒崎一家はやはり憤慨している。
 それから今後にしなくてはいけないことを4人で話し合い――今後の展望が明るくなってきたことに緋真の顔にも笑顔が浮かび始めたころ。
 お茶を淹れにたつきが席を立った時に、緋真が一護に向かい「あの」と声をかけた。
「……あの、図々しいとは思うのですが、もしよかったら……教えていただきたいことが」
「ん、何?」
 意を決したように――実際それは、緋真にとってはかなり大きな勇気を必要としたのだろう。顔を上げ、真正面から一護を見つめ、緋真は言った。
「黒崎さんの結婚式の写真に写っていた、髪の長い男の人――背の高い、真直ぐな黒い髪の」
 緋真の言うその黒髪の男。
 それが誰だか一護には瞬時にわかる。そしてそれは、丁度お茶を持って入って来たたつきにも。
「その人の名前を、教えていただけませんか――?」
 その言葉に、一護とたつきは思わず目を見合わせていた。
 




next