相談の時間は長いほどいいという夏樹の提案で、帰り道に二人は食材を買いにスーパーへと立ち寄った。
 普段は夏樹の母親が帰宅してから夕飯の支度をするらしい。それを待っていれば話しを聞いてもらう時間がそれだけ減ってしまう。時間を有効活用するためのその提案に、緋真はせめてのお礼に、と夕飯の支度を願い出た。
「何が食べたい? 夏樹ちゃん」
「カレー! っていうかあたしそれしか作れない!」
 二人で一緒に作ったら楽しいよ、と笑う夏樹の笑顔につられ緋真の顔にも笑みが浮かぶ。
 楽しみながら材料をかごに入れ、夏樹の家へと帰る。どんなに帰りが遅くなったとしても伯母は緋真の心配などしないだろうが、何も言わずに遅くなれば棘のある言葉をぶつけられるのは過去の経験上わかっていたので、夏樹の家の電話を借り緋真は夏樹の家で夕飯をご馳走になること、帰りが遅くなることを伝えた。伯母は興味がなさそうに「そう」とだけ言い電話を切ったが、それもいつものことなので憤慨したのは夏樹一人だけだった。
「母さんにはメールしたから、いつもよりは早めに帰って来ると思うよ。7時くらいかなあ。親父は何もなければ7時半かな」
「何もなければ?」
「ん、親父医者だから。全然見えないけど。でも祖父ちゃんの方が医者に見えない。ガタイよくてさ。頭脳派じゃないよあれ。何で国家試験受かったんだろう」
「お母さんもお医者さま?」
「母さんは道場で空手教えてる。強いよー」
 勝てねーいまだに勝てねー、と嬉しそうに夏樹は言いながらじゃがいもを剥いている。豪快に剥いている夏樹のじゃがいもの皮は、緋真の剥く皮の厚さの3倍はあるだろうか。
 両親が鬼籍に入り、暖かい家庭というものと縁遠かった緋真を思い、今まで夏樹はあまり家族の話はしたことがなかった。だが今日は緋真が聞きたがったので、夏樹も問われるままに話している。夏樹が家族の話を面白おかしくする度に、緋真は楽しそうに笑っている。
 夏樹の家族に関しては逸話が多く、話す話題に事欠かない。医者に見えない父親、大抵の男に負けない母親。二人は幼馴染で、高校を卒業してすぐ結婚したこと。若い二人の結婚に周囲は驚いたが、それは早過ぎると反対するのではなく、父親が母親にそんなに早くプロポーズできるとは思っていなかったようである。
「何だかねー、小学生の頃からずーっと好きだったらしいんだけど、告白できたのが高校2年とかだったって聞いた。どんだけヘタレなんだっての。だから結婚するまでも何だかんだで時間かかると思ってたのが、学校卒業してすぐ結婚申し込んだんだって。親父、大学生だったくせに」
 この辺りの話は祖父と叔母が何度も自分と兄に話してくれた。その度に父は嫌そうな顔をして祖父に怒っていたが、代わりに叔母が話し始めると憮然としながらも遮ることはしなかった。双子の叔母たちに対し、父は非常に甘い。
 やることは多い。唯の大学生ではなく医学生なのだ、授業も課題も多い。実習にも出なければならないし、論文も書かなくてはいけない。しかも学生だ、収入は全くない。
 それでも、どうしても籍を入れたいと。
 父は言ったそうだ。一緒にいたいから。一秒でも長く。
 体育会系そのものの祖父。祖母は父が小学生の頃に亡くなったそうだ。写真で見た祖母はとても可愛らしい人だった。性格は見事に正反対な双子の叔母。結婚して1年後に産まれた、自分とは4歳違いの兄。兄はやはり医者になるべく今は自活しながら大学に通っている。
 そんなことを話しながらカレーを作り、弱火で煮込みながら、空いた時間は期末テストの勉強を二人でした。
 久々に、緋真が心から楽しいと思える時間だった。
 夏樹の家は心地よい。それは夏樹の家族がとても暖かい所為だろう。
 いつか、と緋真は思う。いつか、自分もこんな風に暖かい家庭を作ることが出来たなら。
 無意識に胸元に下げた指輪に触れる。幼い記憶の中の美しい人。現実にはいない、夢の中の佳人。月の化身のような――
「緋真、好きな人いないの?」
「えっ!?」
 脈絡なく何気なく問い質した夏樹は、予想以上の緋真の反応に驚いた。驚く緋真に夏樹も驚き、その夏樹を見て更に緋真が慌てている。――そんな緋真を目にして、夏樹の唇に笑みが浮かんだ。それも、にやりと形容していいような険呑な笑みが。
「へえ? そうなんだ、いつの間に」
「違っ……」
「どんな人? あたしの知ってる人? うちの高校の? そういえば緋真、サッカー部の部長に告られてたでしょ。でもなあ、緋真、あんまり年近い人好きになるイメージないんだよなあ。年上っぽいイメージ」
「違、あのね」
「いっそのことその人と住んじゃえば? あ、でもその前にどんな人かあたしが見極めてあげるから。で、誰?」
「夏樹ちゃん……」
 困り顔の緋真を充分に堪能し、けれど更に苛めようとした夏樹の耳に、階下から「ただいま!」と威勢のいい声がして「残念。追求はまたあとで」と囁き、「おかえりなさーい!」と立ち上がった。内心安堵しながら緋真も立ち上がる。
 夏樹に続いて階段を下りていくと、玄関で靴を脱いでいる夏樹によく似た女性がいた。よく日に焼けた健康的な女性。若々しいその姿は夏樹の姉と言っても通るかもしれない。その女性が靴を脱ぎ、顔を上げた所で夏樹は背後の緋真を紹介する。
「おかえりー。で、メールに書いたけど」
「初めまして、突然お邪魔して申し訳ございません。夏樹さんと同じクラスの……」
 緋真の挨拶の言葉に被せるように「朽木さん?」と声をかけられ緋真は言葉を止めた。見れば、夏樹の母は驚いた顔で緋真を見詰めている。
「え? 何時こっちに? 全然知らなかった、言ってくれればいいのに! 一護も何にも言わないんだから……ってもしかして一護も知らないの?」
「……何言ってるの母さん」
 呆れる夏樹と戸惑う緋真の視線に曝され、夏樹の母は「あれ?」と首を傾げた。
「あ、あれ? 朽木さんじゃ……ないの?」
「誰、朽木って」
「あ……れ? もしかして名前隠してた? 極秘任務?」
「……母さん大丈夫? 疲れてる?」
 呆れを通り越し本気で心配し始める娘の視線と、その横で困惑しながら夏樹と自分を見つめる知人に酷似した少女に、夏樹の母はようやく人違いと認識したようだ。「ご、ごめん!」と勢いよく頭を下げる。
「人違い! ごめん! 初めまして、夏樹の母です!」
「あ、初めまして、久儀緋真です! 夏樹さんと仲良くしていただいてます!」
「母さん、インパクト強すぎだよ……」
「ごめんって! 本当にそっくりなんだもん、びっくりしちゃって」
「そんなに?」
「うん。あ―吃驚した。一護も驚くよ。面白いから帰って来るまで黙ってよ」
 カレーありがとね、準備はするからそれまで部屋で待っててね、と楽しげにぱたぱたと台所に向かったのは、夫が驚くさまを想像している所為だろうか。
「……えーと、なんて言うか。騒がしくてごめん。何かうちの母親、直情径行というか猪突猛進ていうかなんて言うか」
「夏樹ちゃんにそっくりだよね」
「………………」
 それに対しては何も答えず、夏樹は自分の部屋へと緋真を促した。



 ちょっとごめんね、と夏樹の母が部屋にアルバムを持ちこんだのは、先程の自分の醜態の汚名を返上するためなのだろう。
「ほら、見て」
 開いたそのページには、結婚式の時の写真があった。今の夏樹によく似た顔立ちの純白のドレス姿の夏樹の母と、その隣の背の高いオレンジ色の髪の青年と。
 夏樹も初めて見るのだろう、興味津々の顔で、自分と歳の近い写真の中の両親を見つめている。
「母さん若い―。親父ちょー緊張してる―、笑える―」
「あたしたちはいいっての。あんたたちが見るのはこっち」
 隣のページを指で示され、夏樹と緋真はそのページを覗き込んだ。
 夏樹の両親の横に立つ二人の人。
 一人はとても背の高い男性だ。夏樹の父親の髪の色も目立つが、それ以上に目立つ鮮やかな色。その長い髪を肩に流し、そして精悍な顔に刻まれた黒い文様。
 そしてもう一人。
 紅い髪の男性とは対照的に、とても小柄な女性だった。肩までの髪、大きな瞳。嬉しそうに微笑んでいるその姿はどう見ても――
「緋真だ! え、何で!?」
「その人が朽木さん」
「うわー、超そっくり! すごいね緋真! もしかして親戚かもよ!?」
 興奮する夏樹の隣で、緋真も驚きながら写真に見入った。自分と瓜二つの顔がそこにある。強いて言えば、自分よりも意志が強そうだ。背も写真の中の女性の方が幾分低いような気がする。
 それでも、緋真の知人にこの写真を見せれば、ほぼ全員がこれを緋真だと信じて疑わないだろう。
「ほら、あたしが間違うのも仕方ないでしょ?」
「でもさあ、母さんの友人って言うなら母さんと年が近いってことじゃん。この人だってもう40前でしょ、なんでその人と緋真を間違えるかなあ」
「あー、ええと、そうだよねー」
 お茶を濁すように夏樹の母は笑う。そんな母親を「大丈夫か?」と胡乱そうに見つめる夏樹は、再びアルバムへと視線を戻し頁を繰る。
 披露宴なのだろうか、二次会なのだろうか――同じ年頃の招待客の写真が多い。恐らく新郎新婦の友人たちなのだろう、どの写真も皆心からこの結婚を祝福している表情の者たちばかりだ。
「っていうか柄悪い人が多いのは何故っ! さっきの写真の紅い人も何してる人!? ビジュアル系ロックバンド!? 顔の模様は何!?」
 ものすごい数の友人たちだ。眼鏡をかけた神経質そうな青年、その横にぴたりと寄り添う少女はカメラではなく隣の眼鏡の青年を見詰めている。禿頭の青年とサングラスをかけた男性は、競うように目の前の料理を平らげており、その横には呆れたような視線を向けている綺麗な男性がいる。服飾関係の仕事をしているのだろうか、眉に付けているらしい飾りが印象的だ。かと思えばその背後には酒の瓶が乱立し、かなり独特の――道で出会ったのならば回れ右をして逃げ出しそうな――髪型の、大きな男性が酒を飲んでいる写真がある。その肩に乗った、あまりにも不釣り合いなピンクの髪の少女の人形が――人形だよね? と夏樹は言った――映っている。パンク系の格好をした美形、その前には気弱そうな青年。背の低い少年と、その隣には金髪のモデルのような美しい女性がいる。そして夏樹にもわかる「織姫さん」と「チャドおじさん」、他にも色の黒い猫を思わせる、露出の多い服を着て豪快に酒を煽っている美人と、TPOを無視した帽子に下駄履きに扇子の謎の人物、その帽子の男性に食って掛かっている小柄な女性。白い長髪の暢気そうな男性、その隣の和服の落ち着いた女性、その他にも個性的な人たちがまだまだ写っている。
「カオス!」
 思わず呟く夏樹の隣で、緋真は一枚の写真に目を奪われていた。


 他の人々とは少し離れた場所に立ち、一人グラスを手にして立つ長身の人。
 黒いスーツに、長い黒髪が流れている。
 写真の奥に立つその人の顔ははっきりとは見えない。
 見えない、けれど。
 指先が震える。
 鼓動が速くなる。
 涙が――溢れそうになる。
 
 違う、そんな筈がない。
 あれは夢。幼い頃に見た夢。
 現実であるはずがない。




 夢と現実の境界が、ひどく曖昧な気が、した。






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