緋真の様子がおかしいということに、夏樹はとうに気が付いていた。
思い詰めるような、怯えるような――普段からあまり感情を見せない緋真の、その変化に気付けるのは自分だけだと夏樹にはわかっている。
緋真が感情を見せない、と言えば語弊があるかもしれない。緋真は決して無表情ではない。夏樹の家であった話をそのまま伝えると緋真はよく笑う。一緒に出かけようと誘うと嬉しそうに頬を染める。怒る姿は見たことがないが、哀しそうな顔は見る――それは殆どが緋真の家の話絡みで浮かべる表情だったが。
爆発的な感情を見たことはない。大きな声で笑う、飛び跳ねるように喜ぶ、烈火のように怒る、激しく泣き叫ぶ――その元の感情のままに表すことは決してない。何時如何なる時も、緋真の感情の表現は儚いものだ。そう、「儚い」――それが緋真という人物を表現するのに一番適切な言葉なのだろう。夢のように、消えてなくなりそうな、誰も掴めないような、いつか消え去ってしまいそうな――そんな、「夢のような人」。
それが緋真の置かれた状況の所為だと夏樹は思っている。この十六年、いや、せめて緋真が伯父の家に引き取られてすぐに緋真と出逢えてたのならば、こんな「儚い」印象を決して緋真に身につけさせはしなかったのにと夏樹は思う。
けれどまだ遅くはない。今からでも間に合う筈だ。
だから夏樹は放課後の誰もいない教室で、いつものように自宅に帰る時間を引き延ばすために勉強をしている緋真の前に腕を組んで立つ。
「――夏樹ちゃん?」
驚く緋真に、夏樹は怒った顔のまま憤然と言葉をかける。怒りを隠すことをせずに。
「あたしは緋真の友達だって思ってたけど。いや、それどころかただの友達ってレベルじゃないと思ってたけど。友達以上の存在だって思ってたんだけど。そりゃまだ知り合ってたかだか3ヶ月だけど、それでもあたしは緋真のことが大好きだし大切だよ」
言葉とは裏腹に刺々しい態度の夏樹に、「夏樹ちゃん? 怒ってるの?」と緋真は一度目を大きく見開いて、すぐに俯いた。ごめんなさい、と小さく呟くその緋真の言葉に夏樹は右目を細めて左の眉を跳ね上げる。
「ごめんなさい? それは何に対して言ってるの?」
「それは……」
「あたしが何に対して怒ってるのかわからないで謝ってるの? わからないけど謝っておけばいいや、ってこと? それって馬鹿にしてるの?」
「ちが、」
「じゃあ何で謝ってるの? 理由を言ってよ」
「それは……な、つきちゃんが、」
俯く緋真の声は震えている。違うでしょう、と夏樹は歯痒い。緋真が夏樹を馬鹿にすることなどないと、夏樹は自分が一番よく知っている。
「な、つきちゃん、が……怒るなら、それはきっと正しいことだから。夏樹ちゃんはいつも正しいから。だから夏樹ちゃんが私に怒ってるなら、それは私が間違ってることだから……」
「そう? ありがとう、そんな高評価に値するだけの自分でいられるようにこれからも律して行かなくちゃね。で、緋真のお墨付きも頂いた訳だし、私が怒ってるのは正しいよね? 緋真が間違ってるよね? じゃあ反省してちゃんとあたしに話して!」
畳みかけるように言葉を続ける夏樹に、緋真は戸惑ったように顔を上げて夏樹を見た。涙が滲んだ大きな瞳に見上げられ、内心夏樹はややたじろいだ。その表情だけで「ごめんあたしが言い過ぎた本当は怒ってないの緋真がもどかしいだけなの!」と暴露してしまいそうになる。
「っ、だからっ、その……っ」
うろたえる夏樹を緋真はじっと見上げている。ごめん! と本当に口に出してしまいそうになって、慌てて夏樹は殊更怖い顔を作って緋真を睨みつけた。
「ここ最近、ずっと緋真はあたしが何言っても『何もない』『大丈夫』『何でもない』しか言わないよね? 全然大丈夫じゃないの、あたしはわかってるのに。ずっと何か悩んでるの、気付いてるのに。でも緋真はあたしに何も言ってくれない。あたしは緋真に取ってその程度なの? 相談も出来ない? 心配しちゃいけないの? 心配されるのは迷惑なの?」
言葉を連ねる夏樹に、緋真ははっと目を見開いた。自分が夏樹に対してとっていた態度が、夏樹を傷付け侮辱する行為だと気付いたのだろう。
勿論夏樹にはそれが緋真の優しさ、遠慮がちな性格から来ていることを知っている。夏樹に迷惑をかけられない、かけたくない――夏樹が大切だからこそ、緋真は何も言わなかったのだろう。
けれどそれは夏樹にとってみれば、酷く傷付くことだった。そしてそれを緋真も悟ったのだ。
「――ごめんなさい。夏樹ちゃん」
夏樹の腕組は解けない。
「それと、遅くなってごめんなさい。ちゃんと話さなくてごめんなさい。……聞いてほしいことがあるの」
その緋真の言葉に、ようやく夏樹の顔が笑顔になった。
ところが緋真の話を聞いた夏樹は先程以上の怒気を漲らせた顔で「何でもっと早く言わないのよ!?」と緋真を叱りつけた。
「ごめ……」
「何かあったらどうするの!? ってか確実にヤバいでしょ、むしろこの数日に何もなかったのが僥倖だわ!」
夏樹は怒りのあまり肩を上下させながら、思わず立ち上がっていた自分に気付きすとんと椅子に座りなおした。形の良い長い脚を組んで、陽に焼けた顔を歪ませる。潔癖な夏樹にとって、緋真から聞いたその話はあまりにも許せない話だった。
緋真の従兄の陰湿な行動。
幼い頃は、大人の見えないところで緋真に暴力を振るっていた従兄――大きな怪我をさせるようなことはなかったが、抓ったり足を引っ掛けて転ばせたり、突き飛ばしたりは日常茶飯事だった。
それが最近、方向性を変えている。
最初の出来事は、部屋の扉の僅かな隙間――視線を向けた緋真のすぐあとに走り去っていく足音。
そして緋真に気付かれたと知った相手は、隠れることをしなくなった。
勿論、己の母の前ではすることはない。ただ、緋真に隠すことはなくなった。舐めるような視線で緋真を見る。そういった視線は女は敏感に感じ取る。しかも相手は隠そうとしていないのだ。
ねっとりと緋真を見つめ、卑猥な指の形を作り緋真に見せる。すれ違いざまに身体に触れる、入浴している間脱衣所の前にいる。
そしてその度に怯える緋真に哂うのだ。緋真にだけ聞こえる小さな声で耳に囁く。
『逃げる場所もねえよなぁ?』
この家にいる限り。
けれど緋真には此処にしかいられない。他に逃げ場はないのだ。
せめてと棒で自分の部屋の扉が開かないようにするだけだ。
眠っていても些細な音で目が覚める。
心が安らげる時間が、家の中では全くなくなった。
常に警戒し怯えている。
そして緋真のその姿を、従兄は楽しんでいる。
緋真を怯えさせる存在となった自分を愉しんでいる。
「――家を出た方がいい」
暫く考えた後、夏樹はきっぱりとそう言った。
それは緋真がいつも考えていることだ。あの家を出る――けれど自分はまだ十六でしかなく。
あと2年、高校を卒業するまで耐えるしかないと思っていた。
「学費は奨学金出てるから問題ないし。あとは家賃だよね。――なんだったらうちでバイトすればいいし」
「でも……子供に貸してくれる部屋なんて……それに学校もなんていうか……」
「大丈夫、前例あるから。あたしの母さんの友達、この高校に通ってた時、一人暮らしだったって」
そうだ、と夏樹は立ち上がった。
「今からうちにおいで。その人がどうしてたか母さんに聞こう。部屋の借り方とか色々聞こう。それにうちの祖父ちゃん結構顔が広いから、どっかいい所探してくれるかもしれない。確か兄貴の部屋、祖父ちゃんの知り合いに探してもらったって親父に聞いたし」
でも、と言いかけて緋真は黙った。でもそれじゃ夏樹ちゃんに、夏樹ちゃんの家族に迷惑がかかっちゃう――そう言いかけた自分に首を振る。
頼っていいのだ、夏樹には。
助けて、と縋っていいのだ。
「うん。お願い。ありがとう、夏樹ちゃん」
そう言って立ち上がる緋真に、夏樹は「正解」と片目を瞑って笑って見せた。