広い部屋にある調度の数は、朽木家の当主の主室にしては少ないと言っていい。
 部屋の殆どを空間が占めるその部屋は何処か空虚で、色はない。
 ただ、一つ。
 無彩色のその部屋に、ただ一つだけ。
 緋色の花が一輪、活けてあった。
 その緋色の花は決して絶やされる事なく、必ずこの部屋に在る。
 ―――緋真が逝った、その日から。





 儚気な少女だった。
 初めて目にした時から、心惹かれた。
 けれどその想いは、朽木家の時期当主が、ただの娘に抱いて良い感情ではなかった。
 許される筈もない。
 認められる筈がない。
 それでも、心は引き寄せられる。
 気付けば、その少女の姿を目で追っている。
 忌まわしいこの「身分」が纏わり付くこの世界で、決して言葉を交わすことなど出来ない―――ただ見詰めるだけの、秘めた恋。
 それを相手に悟らせず、ただ遠くから見詰めていた。
 望みなどなかった。
 力尽くで手に入れることは出来ただろう、それだけの力は、当主となっていない白哉でも充分にあった。無理矢理手折って妾として囲う事など造作もなかったし、実際そうしている貴族も多い。
 貴族にとって結婚とは、心を通わせた結果ではなく、単に政略的なものに他ならない。故に、貴族の男達は常に自分の好みの女を囲っているのが常だった。
 けれど―――白哉には出来なかった。
 あの少女を、穢したくなかった。
 彼女の微笑みを、いつも優しく、けれど何処か儚気に笑う少女の姿を見ているだけで充分だった。





 そうして見つめる瞳にいつしか少女が気付き―――少女も白哉の姿を目で追うようになり―――ふたりは互いの名前も知らず、声も知らず、ただ相手の姿を求め、密やかに視線を絡めあう。
 白哉も少女も知らない、誰も知らない恋が―――ゆっくりと目を覚ます。





 霧のように舞い散る血飛沫の中、頭上の月の化身のように、静かに佇む男の姿に、少女は自分でも解らない感情が込み上げて、気付けば涙を流していた。
 ようやく出逢えた、と。
 少女はただ涙を流す。
 夢で何度も出逢えた、けれど現実ではただその姿を目で追うしかなかった美しい人。
 少女の涙に何を見たのか、す、と身を翻して、男は何も言わずに少女の前から遠ざかる。
「―――待って下さい!」
 少女の声に、男の歩みが止まった。
「お名前を―――どうか、お名前をお聞かせください」
 必死なその声に、一瞬だけ躊躇いを見せ、男は短く告げた。
 その背負うものは隠し。
「―――白哉」
 綺麗な声だった。
 それは少女が夢で聞いた声の何倍も。
「白哉さま―――」
 胸が痛くて、少女の目から、次々と涙が零れて落ちる。
「何故泣く?」
「―――解りません」
 そうして月の光の中、ただふたりの時間は止まって、互いの姿を求め合う。
 許される想いではない。
 認められる想いではない。
 諦めるしかない、見詰めるだけの想い。
 ―――だけど。
「お前の名は―――?」
 手を差し伸べる。
 その時、白哉が手を差し伸べなかったのなら、まだ間に合ったのかもしれない。
 その時、少女が手を取らなかったのなら、まだ間に合ったのかもしれない。
 けれど、白哉は手を伸べた。
 けれど、少女は手を取った。
 触れた暖かさに、怖れるように互いの手は止まる―――けれどそれは一瞬の事。
 白哉の手は少女の手を引き寄せる。
 少女の身体は、白哉の腕の中にあった。
「お前の名は―――?」
 再びの問いに、眩暈がする程の幸福感の中、少女は喜びと僅かな怯えの混じったかすれた声で、名前を告げる。
「緋真、と申します―――白哉さま」


 そうしてふたりは、罠に堕ちた。


 

 










 僅か5年の短い蜜月。
 けれども幸せだったと微笑んで緋真は逝った。
 白哉に、妹であるルキアを護ってくれるよう頼んで。



 

 それから、ルキアの気には常に気を配っていた。
 誰にもそうと気付かせず、白哉は常にルキアを護る。
 日に幾度と無くルキアの気を探し、その無事を確かめる。
 それが緋真との約束―――ルキアを護る、それが緋真の、最期の願いだった故に。





 そのルキアの気が、―――乱れていた。
 明らかに何か変異があったのだと解る、その異常な霊圧。
 白哉はそこへ向かう―――緋真との約束を護る為。
 そこで目にしたのは、赤い髪の男の腕の中で、意識を失くしたルキア―――その力なく垂れた腕も、蒼ざめた顔も、あまりにも緋真に似過ぎていた。
 瞬時に甦る、あの絶望。
 緋真が逝った、あの絶望の―――。
 

 その時、自分を見つめる赤い髪の男の視線に気がついた。
 ルキアを腕に抱いて睨みつけるこの男が、ルキアを護ったのだと。
    

 まだそれ程の力もない。霊圧など、遠く離れていれば気付き様がないだろう。
 それでもこの男は、誰より早くルキアの元へと駆けつけた。
 誰より確かに、ルキアを護り抜いた。



「阿散井恋次、と言ったか」
 揺ぎ無いあの瞳。
 決してルキアを放そうとしなかったあの男。
 その根底にあるものは、恐らく―――。



 物思う事をそれ以上は放棄して、白哉は立ち上がると、開け放してあった窓を閉めた。
 緋色の花は、今日も白哉の部屋に在る。
 その花を眺め、その花の姿に白哉は緋真を追い求める。
 ―――ただ緋真だけを、追い求め続けた。
  





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