その姿を見るのは、二度目だった。
 あの時と変わらぬ巨大な霊圧、僅かも揺らぐ事の無い静かな水面のような面。
 ルキアを連れ去ったあの時のまま、秀麗なその男は答えぬ事を許さずに、静かに問う。
「―――何をしている?」
「白哉さま―――」
 膝を付き、白哉を見上げながら老人は言葉を詰まらせた。白哉は視線を恋次へと向け、腕の中のルキアを目に留める。
 意識の無いルキアに表情を変えることなく。
「ルキアは如何した」
「ルキア様は―――」
 返事に躊躇する老人に透明な視線を向けると、白哉は言葉を待たずに、流れるように優雅な足の運びで前方の小屋に向かう。そこで目にした小屋の中の凄惨な状況にもやはり眉一つ動かさず、恋次へ視線を向けた。
 恋次も白哉の視線を受け止める。
 全身にかかる激しい霊圧。それでも恋次は目を離す事はしなかった。有らん限りの力を使って、白哉の視線を―――霊圧を受け止める。
 全身の筋肉が緊張して膨れ上がる。物理的なほどの重い霊圧に、背中に冷たい汗が流れ落ちる。
 ―――先に視線を外したのは白哉の方だった。
 何も言わず、恋次に向かって歩く。知らず、恋次はごくりと喉を動かした。
 白哉は恋次の横を通り過ぎるその瞬間、ただ一言、
「来い」
 ―――ただ一言、そう告げた。





 広い部屋に通されて、恋次は身動ぎもせずにただ座していた。
 豪華な、けれど品良く重厚な調度の数々。
 活けられた豪奢な花、開け放たれた障子の向こうに見える、広い、手入れの行き届いた庭。
 戌吊の、あの場所とは同じ世界にあるとは思えないこの景色。
 その戌吊の、灰色の景色の中で、『来い』と……そう恋次にただ一言声をかけ、白哉は振り返ることなく歩いた。
 恋次は腕にルキアを抱いて、白哉の背後に従う。
 ルキアは精霊邸へと戻るその間に意識が戻ることは無かった。意識の無い理由が恋次の手刀だけならば、こんなに眠り続ける事も無い。やはりあの薬とその後の体験が、ルキアの精神に激しい疲労をもたらしたのだろう、ルキアは恋次の腕の中で昏々と眠り続けていた。
 その場の誰もがただ無言で歩き続け、精霊邸に入って直ぐに白哉は老人に「医師の用意を」と告げた。老人は背後の二人と共に、直ぐに姿を消す。
 恋次には何も言わず、白哉は再び歩を進める。恋次も黙ってその後を歩く。
 ―――精霊邸の中心部、貴族達の邸宅のひしめくその一角の中でも、朽木家は一際大きな佇まいを誇っていた。
 巨大な門、屋敷を囲む、延々と続く壁。
 それはさながら、住人が外に出る事を、屋敷自体が拒むような。
 ―――いや、ルキアにとっては……
 まさしく―――檻、だろう。
 監視され、閉じ込められた―――巨大な、檻。
 白哉はその中へと入っていく。門から屋敷まで、更に歩く。その広大な敷地の一番奥に、白哉達本家の者―――それは即ち白哉とルキア、二人の住居として使われている邸宅があった。
 扉を開くと、数多の屋敷に仕える―――白哉に仕える者達が、一斉に頭を垂れて主人を迎え入れる。
「白哉さま、医師は今こちらに向かっていると―――」
 そう報告を受けて、白哉は頷いた。背後の恋次へ視線を向ける。その意を汲んで、男が恋次の前に立った。
「ルキア様をお預かりいたします。ルキア様の自室へお連れ致しますので」
 内心どう思っているかは解らないが、目の前の男は丁重に恋次に話しかける。それへ、恋次はじろりと視線を向けた。
「俺が連れて行く」
「しかし―――」
「……構わん。案内してやれ」
 白哉は既に一人廊下を進みながら、静かに言った。その背中に「畏まりました」と一礼をして見送ると、男は「それでは」と恋次の前を歩き先導する。
 磨き上げられた長い廊下。
 塵一つ無い清浄な空間。
 けれど、どこか無機質で―――冷たい。
 ここが、ルキアの住む家。
 ―――俺が選ばせた……ルキアの家。
 恋次はルキアを抱く手に力を込めた。
 長い廊下の奥まった場所で、男は歩を止めると、
「こちらでございます」
 からり、と開けられた襖の向こうに、広い部屋があった。
 何部屋も続く大きな部屋。箪笥も机も鏡も行李も、掛け軸も花瓶も花も、どれも贅を尽くしたものだった。
 その奥の部屋の中央に用意された布団へ、ルキアの身体をそっと横たえる。
 されるがままの、意識のないルキアの力ない身体に、恋次は布団を掛けてやる。
 頬にかかった幾筋かの黒い髪を、起こさぬように静かに直し、その頬に触れた。
 暫く寝顔を見詰めた後に立ち上がった恋次へ、背後で控えていた男が、入ってきた所とは別の襖を指し示した。
「白哉さまがお話があるとのことですので、どうぞこちらへ……」
「話?……何のだよ」
「わたくしには―――私はただ、白哉さまのお言葉をお伝えするだけでございますから」
 それ以降は堅く口をつぐみ、男は恋次を先に立って導いた。
 そうして通された部屋で、恋次は身動ぎもせずにただ座している。
 白哉はすぐに来る気配がなかった。
 一人を持て余し、恋次は周りの景色へ意識を向ける。
 先ほどのルキアの部屋と同様―――もしかしたらそれ以上に、贅を凝らした部屋。
 品良く纏められた、落ち着いた調度品の数々。
 恋次は周りに目を向けながら、先程から感じていた違和感の理由に気が付いた。
 ―――この屋敷には音がない。
 そうしつけられているのか、仕える人の数は多いというのに、全く音が聞こえない。
 外に吹く風さえも、ここでは音を消してしまうようだ―――そんな事を恋次は考える。
 時が止まっているかのような感覚。
 時を止めているかのような感触。
 それが当主である白哉の意向なのだとしたら、白哉は一体何を留めたいのだろう。
 一体いつから時を止めてしまったのか。
 襖の開く微かな音に気が付いて、恋次は窓の外へと向けていた視線を戻した。そこに、白い羽織を着た白哉が居た。
 途端、恋次は緊張に包まれる。
 変わらぬ霊圧。圧倒的なまでの力の差。視覚出来ると錯覚するほど、強大な内包されたその力に、再び無意識に身体が緊張する。
「…………お前がルキアを助けたのか」
 それは質問ではなく、確認だった。恋次は無言で頷く。
「礼を言う……幸い、あれは大した怪我もないようだ。目覚めれば普段と変わりないだろう」
 淡々と、表情も無く語られるその言葉に、それでも恋次は気付く。
 ここに来る前に、恐らく―――ルキアの傍へ行ったのだ。
 ルキアを気にしているのだと―――そう、解った。
「お前の望みの物を。地位でも金でも、望む物を用意させよう―――」
 言葉だけ見れば尊大と取れるこの言葉も、こうも淡々と告げられると反感の思いも浮かばない。
 その白哉の姿を見て、恋次は、
 ふと、気付いた。
 自身にも覚えがある。
 この声は―――この静かさは。

 自分が、ルキアを失ったと、そう思った時の―――空虚さに似てはいないか。
 唯一と思ったものを、失くしてしまったあの時の自分に、似てはいないだろうか。

 しかしそれを確かめる術も、確かめる理由もない。
 それは間違いなく無礼な事だろう。
 思いついたその考えを振り払うと、恋次は白哉の瞳を挑むように見つめる。
「俺の望みは―――」
 地位も名誉も金も、勿論要らない。
 今、願う事は。
「―――ルキアと、話をさせて下さい」
 白哉の表情はやはり変わらない。
 ただ、凪いだ水面のように、静かに恋次を暫く見詰め、
「あれが目覚めたら、伝えよう」
 そう恋次に告げた。
「私はこれから仕事に戻る。お前は好きな時に帰るといい」
 その言葉に、恋次はようやく自分が仕事を抜け出している事に気がついた。
 山積みだった書類。
 時計を見る。
 ―――時刻は疾うに勤務時間を過ぎていた。
「やっべえ……っ!」
 蒼ざめ思わず呟いた恋次に、
「……事情は、更木に私から申し伝えておこう」
 白哉はやはり表情は変えぬままそう言うと、もう恋次には省みず、音を立てずに部屋から出て行った。





「あ―――っ!!れんれん、見つけたっ!!」
 十一番隊隊舎入り口を入った途端、大きな声で呼ばれて恋次は飛び上がった。
「ふ、副隊長……」
「一体何時まで休んでたのっ!もう勤務時間終わっちゃったじゃないかー!」
「すみません、えーと、その……」
「れんれんの仕事、あの書類、あれ明日までに必要なんだよ!どうするの、あれから手付かずじゃない!間に合わないよう!」
「あー……じゃあこれから……」
 あ、と恋次は声を上げた。やちるがそれに気付くより前に、やちるの頭にべしっとやや強めに手が置かれる。
「痛いよう、剣ちゃん」
 抗議をしながら、やちるはどこか嬉しそうだ。
 そのやちるを遥かな高みから見下ろして、剣八は、
「その書類はお前ぇの仕事だろーが」
「えー。だって私嫌いなんだもん、あーゆうの」
「いいから手前ぇでやれ。じゃなかったら一角にでも手伝わせろ」
「むー」
 膨れるやちるは無視して、剣八は恋次をじろりと見る。
「阿散井は今日は帰れ。朽木から連絡が入っている」
「え?れんれんどうしたの?何で?朽木隊長と一緒にいたの?」
「いいからお前ぇは仕事してろ」
「ひどいなあ、剣ちゃん。終わるまで待っててよね、先帰ったらお仕置きだからね!」
 不承不承、隊舎に戻るやちるを見送って、恋次は剣八に頭を下げる。
「今日はすみませんでした」
「あぁ?別に構わねーよ、今日は暇だったしな……それより朽木が俺に依頼をするっつー方が面白ぇ。前代未聞だぜ?」
「依頼……っスか?」
「ああ、お前が昼間仕事を抜けたのは事情があるから、責任は問わないようにだってよ」
「……そんな事を?」
「相変わらずすかした言い方しやがって、やっぱり貴族ってのは解らねえ……お前、解るか?」
 無表情な、静かな顔を思い浮かべる。
 感情を持たないような、冷たいとも思える整った顔。
 物事には何の関心も持たないようなその白哉が、何故。
「―――解らないです」
 如何してあの家はあんなにも無機質なのか。
 如何してあの家の時は止まっているのか。
 如何して白哉はルキアに―――
「解らねえ……」
 もう一度呟いて、恋次は首を横に振る。





 長かった一日は、ようやく終わろうとしていた。 





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