五人の子供達は、必死になって走っていた。
背後から迫ってくる男に捕まれば、全力で走っている今の苦しみよりももっと辛い事態に追い込まれる事は明白だった故に、子供達は必死で走る。
子供達は全員、年の頃は10歳前後だろう。粗末な身なりをしていたが、ここ戌吊では特に奇異には映らない、当たり前の格好だ。
しばらく走り続けた後、五人の中で一番小柄な子供が足をよろめかせると、一瞬の後にざあっと土煙を上げて倒れこんだ。すぐに走り出そうと立ち上がったが、再び地面に倒れこむ。そのまま足首を掴んで苦しそうに顔を歪めていたが、背後から男の哄笑が聞こえて、はっと身を強張らせた。顔を上げると、男が右手に持ったナイフを振り上げニヤリと笑う姿が眼に映る。男の背後から太陽の光が自分を照らす。
―――殺られる……
絶望から反射的に目を閉じた。自分の身体に食い込む銀色の凶器の痛みを覚悟する。しかしその衝撃は身体には受けずに、どさっという鈍い音と、男の舌打ちする音がルキアの耳に入った。
すぐに目を開ける。そこには、バランスを崩した男と赤い髪の少年がいた。
「恋次!」
「莫迦野郎、さっさと走れっ!」
縦も横も、自分の倍はある男に体当たりをした恋次は、足首を押さえているルキアを見ると、「這ってでもいいから速く行け!」と怒鳴りつける。
「しかしっ……」
「うるせー!お前がいると邪魔なんだよ、さっさと行け!」
確かに今の自分は恋次の足手纏いにしかならないと覚ると、ルキアは痛む足を引き摺りながら必死で移動する。恋次以外の3人は既に姿を消していた。
恋次はそのルキアと男の間に割って入る。
「とうとう捕まえたぞ、子鼠共。散々俺の土地を荒らしやがって、覚悟は出来てるだろうな?」
右手のナイフをこれ見よがしに左右に揺らしながら、男はニヤニヤと笑う。その残忍な笑みに、恋次は「けっ」と毒付いた。
「その鼠に散々振り回されるお前が間抜けなんだよ。大体あの場所は誰の土地でもねーぞ。お前が勝手に管理人気取ってるだけじゃねーか」
「……何だと?」
「あそこにある物で、お前の持ち物なんて何ひとつねーんだよ、ボケっ!」
「この、糞餓鬼!!」
ぶん、と音を立てて振り下ろされるナイフの下を掻い潜って、恋次は男の足に蹴りを入れた。狙いは間違いなかったが、如何せん子供の力では大の大人を倒す事は不可能だ。男をよろめかせる事が精一杯で、恋次は舌打ちをして飛び退る。その僅か1秒後に、恋次のいた場所を銀色の光が切り裂いた。
「目障りなんだよ、お前等」
「目障りなのはおめーだ、ぶくぶく太りやがって」
挑発しながら、恋次は男の振り回すナイフを右に左にかわしていく。何時までも切り裂けない恋次に苛立った男は、足を引き摺りながら離れていくルキアの後姿を捉えた。
「手前から殺ってやる!」
獣のような咆哮と共に、男はルキア目掛けて走り出した。一瞬虚を突かれた恋次は、男を追って走り出す。
恋次に躊躇いはなかった。
ルキアの上に振り下ろされるナイフ―――そこに向かって、恋次は自らの身体を投げ出した。
突然飛び込んできた恋次に男は怯んだが、すぐに目標を恋次に変える。しかし恋次は一瞬の男の動きの空白を見逃さず、男の右肘を渾身の力で殴りつけた。
狙いの逸れた刃先は恋次の胸を切り裂く事はなかったが、振り下ろした勢いのまま恋次の右腕を切り裂いた。ぱっと赤い血が、まるで花弁を撒いたように辺りに飛び散っていく。
体制を崩した恋次に、男は勝ち誇った顔でとどめの一撃を浴びせようとして―――次の瞬間、「ぐわあっ!」と叫ぶと、大きく仰け反った。
「恋次!」
傷口を押さえた恋次の目の前で、ルキアが地の砂を掴み男の目めがけて投げつける姿がそこにはあった。
腕の傷からは絶え間なく血が流れ、ルキアの足は動かす事が出来ず、絶望的な状況に変わりはない。それでも恋次は諦めなかった。逃げ場を探して周りを見渡すその耳に、「恋次!ルキア!」という呼び声が聞こえてくる。
「伏せろ!」
その声に恋次は躊躇う事なく無事な左手でルキアを地面から掬い上げると、身を屈めて声の主の方へ全力で走った。その二人の頭上を、拳大の大きな石が次から次へと飛んでいく。
「こっちこっち!」
手招きする仲間の少年に、恋次はにやりと笑いかける。
「すまなかったな」
「ううん、遅くなってごめんよ。なかなか大きな石が見つからなくて」
「いや、助かったぜ。ま、とりあえずさっさとずらかろうぜ」
ルキアを下ろすと、左手で石を一つ手に取る。そのまま大きく振り被って男に向かって放り投げた。それは狙い過たず、男の頭に直撃すると、男は地響きを立てて昏倒した。
「ざまあみろ!!」
恋次達は大声で笑うと、さっさとその場から離れた。
腕の傷はかなり深く、血はどうにか止まったが、その晩恋次は高熱を出した。
交代で看病しようという他の少年の言葉に、ルキアは自分が一人で見ると言って聞かなかった。ルキアが自分のせいで恋次が怪我をしたと責めているのに気が付いていた少年達は、ルキアがそこまで言うのならと折れ、それでルキアの気が済むならばと了解した。
看病といっても出来る事は限られている。高熱から発する汗をこまめに拭き、水分を補給させ、額においた手拭いを水に浸して冷たくするくらいしか出来ない。苦しそうに呼吸をする恋次を、ルキアは唇を噛み締めて見守った。
長い長い夜がやっと明け始める頃、荒かった恋次の呼吸が徐々に落ち着いた物に変わって行き、全身を包んでいた熱が収まり始め、ルキアはようやく安堵する。ほっとすると同時に目から涙がこぼれ落ちた。
「……ルキア?」
思いの他しっかりとした声で呼びかけられ、慌ててルキアは頬を拭った。それを見て恋次は「泣いてるのか?」と尋ねた。
「な、泣く訳ないだろう、莫迦者」
「そっか、ならいーけどよ」
何時もと変わらぬ恋次の声に安心すると同時に、ルキアの胸の中には抑えきれない程の激しい感情が込み上げてきた。それは一晩中、恋次を看病しながらずっと心の内で叫んでいた事だ。
「……お前が傷ついてどうする!私の事など放っておけば良かったのだ、莫迦者!!」
自分の為に恋次が傷ついた。それがどうしても許せない。何故ああもあっさりと、自分と刃の間にその身を滑り込ませたのか……悪くすれば即死だったかもしれないというのに。
「し、死んでいたかもしれないのだぞ!?如何してお前は……っ」
胸が苦しくて、呼吸をするのも辛い。感情を爆発させて、ルキアの目から隠しようもなくぽろぽろと涙がこぼれた。
「やっぱり泣いてるじゃねーか」
「うるさい、莫迦!」
そういえばルキアの泣き顔は始めて見るな、と恋次はふと気が付いた。いつも偉そうにふんぞり返っているから、こんな風に泣きじゃくるルキアの姿を見ているとまるで別人のように思える。ルキアがとても弱く儚いものに思えた。
「大丈夫だって、心配するなよ」
泣いているルキアを見ているのがどうにもつらくて、恋次は上半身を起こすと動かせる左手を上げてルキアの頭を撫でた。普段のルキアならば子供扱いをするなと怒り出すであろう行為だが、今日は黙って俯いていた。ぽたぽたと落ちる涙は変わらない。
「本当だって、俺は死なねーよ。俺が先に死んだら、誰がお前のこと護るんだよ。俺はお前とずっと一緒にいるんだからな、だから絶対死なねーんだ」
幼い二人は、互いを強く想うその感情の名前をまだ知らない。だから恋次は素直に誓いを口にして、ルキアは真摯にその言葉を受け止める。
「本当だな?ずっと一緒にいるんだぞ?」
「ああ、俺がずっとお前を護ってやるからな!」
それは、幼い日の、遠い約束。
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