砂漠近くに生える樹は少なく、この街の建物は全て土と水で出来ている。砂漠と同じ色のその黄色い土の色の壁は、見るものに乾いた印象を与えるのに酷く役に立っていた。
 その一角に、少年の家がある。
 空き家になっていたその家に少年が住み着いたのは今から5年ほど前のことだ。まだ10歳程度の子供の頃、辿り着いたこの家の住人がどうしてこの家を捨てたのか少年は知らない。揃って別の町に行ったのか、ここに住んでいられなくなったのか―――町の外れに、人目を避けるように建てられたその小さな小屋は、初めて目にした時から何かしら事情があるのが察せられたが、少年は特に気にする様子もなくこれ幸いとそこを自分の住居と決めた。
 その自分の家の前に、小さな姿があることに気付いて少年は小さく舌打ちをした。そのまま来た道を戻ろうと背中を向けるより先に、家の前の小さな影が少年を見つける方が早かった。
「恋次!」
 既に詰問調のその声に、恋次と呼ばれた少年は溜息を吐いた。
 今、少女に見つかった後の今からこの場を離れれば、より一層の詰問が待っている事を経験として知っていた少年は、諦めて小屋の前まで歩を進める。小屋が近付くに連れ、家の前で怒りを浮かべている少女の顔がはっきりと目に入り、少年は再び溜息を吐く。
 少女の歳は、少年よりも二つ三つ下だろう。この辺りの住人と同じ、粗末な、けれどしっかりと洗濯された清潔な衣類―――装飾などは何もない、簡素な服に華奢な身体を包んで、この強い日差しの下には奇跡のような白い肌の細い腕を組み、近付く少年を見据える瞳は―――暁の紫。
「んだよ、ルキア」
「何だよ、じゃない!またお前―――カリフさんから盗んだだろう、果物!」
 怒りに紫色の瞳を燃え上がらせ、小さな身体で少女は少年に詰め寄った。
「カリフさん怒っていたぞ!?どうしてお前はいつもそう―――」
「うるせーな、盗まれる方が間抜けなんだよ」
 ふん、と少年は懐からこれ見よがしにひとつ赤い果実を取り出した。少女の顔が紅く染まる。
「それを盗んだのか!」
「まーな。あいつ、無駄に太ってっから動き遅ぇからよ、いい鴨だぜ」
「盗みはいけないことだと、何度言ったらわかるんだお前は!」
 火のように怒るルキアを前に、恋次は動じる事無く手の中の果実に歯を立てる。
 甘酸っぱい爽やかな果実特有の香気がルキアの元にも届いた。
「お前も食うか?」
「盗んだものなど、いらぬ!」
 自分の言葉に耳を貸そうとしない恋次に、憤慨してルキアは強く吐き捨てる。
 それを聞いた恋次の顔に笑みが浮かぶ―――口元だけの、歪んだ笑み。
「そりゃあ恵まれてる奴の言い草だぜ、ルキア」
 あ、とルキアは息を呑んだ。
「盗んだものだろーが捨てられたものだろーが、腐ってようが施されたものだろうが、俺には選択の余地はねーんだよ。選択できるのは―――余裕のある奴だけだ、お前らみてえな」
「恋次―――」
「お前もいい加減ここには来るな。お前の親父だっていい顔しねーだろうが。俺のことはほっとけ」
 拒絶の言葉に、ルキアの気の強そうな顔が僅かに曇る。自分の先程の失言を悔いているのだろう。それでも、ルキアは躊躇った後にもう一度恋次を見つめ言う。
「放っておいたら―――またお前はそうやって罪を重ねるだろう」
「罪?罪って何だ?食い物か、それ」
「恋次!」
「いいから帰れよ、説教なんて真っ平だ。何の腹の足しにもならねーよ、時間の無駄」
「お前のために言ってるんだぞ?このままじゃいつかお前―――捕まったらどんな酷い目に合うか、だからもうこんなことはやめて、もっと別の」
「うるせえな!」
 強く怒鳴りつけられルキアは立ち竦んだ。少年の瞳に射竦められ、その強い視線に身動きが取れない。
「別のなんだよ?俺にはこれしか出来ねーんだよ、これしか生きる道はねえんだ!物知り顔で説教垂れてんじゃねーよ!!」
 恋次の言葉に、哀しそうに俯きながら、それでもルキアは小さく「……でも」と呟いた。
「なんだよ?」
「でも……悪いことしたら駄目だ。悪いことをしたら……地獄に堕ちるって。神殿の偉い人が、そう言って……」
「地獄?ここよりも住みやすいかもな。っつーかここより酷い場所はねーだろ」
 貧困と戦乱。
 この世界は争いに満ちている。
 幾年も続く戦いに、人々の心は荒み病み荒廃している。
 盗みさえ些細な罪でしかなく―――たった一つのパンの為に殺人さえ日常茶飯事に起きるこの世界。
 生き抜くには力が必要だ。誰にも虐げられないほどの強さ。
「そんな甘い事言ってたら生きていけねえぞ、ルキア。力のない奴は死ぬしかねえんだよ。金か力。どっちかがなきゃ『人間』として扱われることもねえ、塵のように死んでいくだけだ。―――そんなのは俺は真っ平なんだよ」
「でも。でも」
「んだようるせえな」
「でも……人は、平等だって。魂は平等だって―――身分とか、そんなのはこの、現世の事だけで、……嘘だって。私たちは皆―――同じなんだ、王様とか貴族とか、本当は関係なくて、そう言って―――」
「誰が言った?」
 目の前の恋次から怒りの色が消え、驚いたような表情が浮かんでいる。その恋次の表情に、ルキアは喜びで顔を輝かせた。
「こないだ父さんと隣町に行ったんだ。そこの寺院の人が―――」
 その時の感動を思い出し、ルキアは嬉しそうにその場で聞いた話を恋次に話す。
 人は皆平等で、そして人は皆幸せになる権利がある。
 例え今苦しくても、良いことをすれば必ずいつか幸せになれる。
 初めて聞いたその思想、暗いだけのこの世界で始めて触れたその思想に、ルキアはひどく感銘を受けた。その時の感動と感激をこの幼馴染の少年に伝えるたくて、ルキアは熱を込めて寺院で聞いた言葉を恋次に伝える。
「だから、お前ももう盗みなんかやめて……」
「わかったよ」
 やわらかい表情で頷きながら恋次は言う。その穏やかな恋次の顔にルキアは喜びで顔を輝かせた。
「わかってくれたか、恋次」
「ああ、わかったよ」
 ぽん、とルキアの頭に手を載せる。
「そいつが詐欺師だって事がな」
「―――恋次!」  
「そんな寝言が通じるかよ―――こんな汚ぇ世界に住んでる俺に」
 目の前に塞いでいたルキアの身体を押し退けて小屋へと入る。呆然と立ち尽くすルキアを振り返る事無く部屋に入ると、閉じた扉の向こうで烈火の如く怒り狂うルキアの「恋次の莫迦ッ!」と怒鳴る声がした。
 その歳相応のルキアの怒鳴り声に、一人の部屋の中で、恋次は小さく笑いを溢した。







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