自分が最後に叫んだ言葉を、たつきは思い出して苦笑する。
 最後の最後に叫んだ言葉が、家族の名前でもなく悲鳴でもなくその言葉だったことが、全く自分らしくないとたつきは笑う。
 目の前に突然現れた巨大な影、ヒト以外の生物、醜悪な外見のその存在が、勢い良く胸を突いた途端、身体が二つに引き裂かれる感覚を覚え、気付いた時には自分の精神が肉体を離れて宙に浮いていた。
 今まで良く見かけていた幽霊と同じ状況になったことで、自分の身に起きたことを知った。


「何で今まで、こんなご馳走が誰の目にも触れなかったのかねえ……」
 突然たつきの目の前に現れたその化け物は、牙の突き出た大きな口を動かして、不明瞭な声でそう言った。しゅうしゅうと空気の漏れる音がする。
 見れば見るほど、人とはかけ離れていた姿だった。3メートルはある背丈、地面に届くほど長い手、白い陶器のような肌、突き出た牙、20センチも伸びた爪。
 そんな外見の化け物が、自分と同じ言葉を話していることにたつきは当惑する。
「俺はすこぶる運がいい。これほどの霊力を持つ人間を喰えたら、あの方のお役に立てること間違いない……」
 もしかしたら十刃入りも夢ではないかもしれない、とたつきの前で化け物は笑った。
 そして、目に見えぬ速さで化け物はたつきの胸元に手を伸ばした。は、と身構える暇もなく、虚の手は、たつきの胸に到達し―――
 鎖を引き千切った。
「あ―――!!」
 全身を駆け抜ける痛みと、果てしない虚無感。確かなものから引き離されたという虚脱感。あまりの痛みと全身を蝕む絶望感に耐えられず、膝を付くたつきの身体を、大きな手が掴み取った。まるで子供が人形を手にするように、無造作に乱雑にたつきの身体を握り締める。
「痛ぅ……っ!」
 苦痛に身をよじるたつきを無視し、虚は地面を蹴った。
 何の予備動作も見せずに一気に10メートルほど飛び上がると、屋根の上に着地し再び飛び上がる。
 一瞬で姿を消した虚の後に残ったものは、目を見開き倒れているたつきの身体―――ピクリとも動かないたつきの身体だけだった。





 耳元で風の音がする。
 それだけの凄まじい勢いで移動する虚の手に掴まれて、たつきは為す術もなく、虚の手の中で唇を噛む。
 己の無力さを実感した。
 人は、なんて無力で小さいのだろう。
 この化け物と対峙して、身に付いた空手の構えをすることもなく、ただ呆然と立ち尽くしあっさりと襲われた自分の不甲斐なさに情けなくなる。
 胸の鎖の切れ端が、風に煽られて金属音をたてる。その音を聞きながらたつきは(ああ―――)と心の中で呟いた。
 あたし―――死んじゃったんだ。
 今まで道端で見てきた幽霊と同じ姿の自分を見つめ、驚くほどあっさりとたつきは自分の状況を受け入れた。恐怖も怯えも惑いもない。ただ現実を受け入れる。
 それは、死ぬ直前、たつきが酷く現実に絶望していた所為かもしれない。
 目の前の現実を見たくなくて背けていた目―――現実を見たくないのならば、違う世界を見るしかなかったのだろう。
 これが運命。
 ―――ごめんね、父さん母さん。
 誰か泣いてくれるかな、とたつきはぼんやりと考えた。
 織姫―――何処に行ったんだろう。消えてしまった織姫の気配。こんな場所にいなければいいな、とたつきは思う。 
 一護―――一護は。
 何も思わないか、とたつきは笑った。関係ないと言い切った一護の目は本気だった。俺に関わるなと言ったときも。
 いつからこんな風になったんだろう。子供の頃のような関係にはもう決して戻れない。決定的な拒絶の言葉、仲間じゃないと告げた冷たい瞳。
 お前に関係ない。
 その言葉が耳に再び蘇る。
 顔に当たる風の勢いが弱まった―――そのまま勢いよく放り投げられ、受身を取る余裕もなくたつきは地面に身体を打ちつけた。衝撃に息が詰まる。
「この辺でいいだろう。待たせたな、餌」
 無力な人間を嘲笑い、虚は地面に倒れ付すたつきの元へと近寄った。長い爪がぎしぎしと音を立て、たつきに伸びる―――
 次の瞬間、虚はバランスを崩し、その勢いのまま地面に倒れこんだ。砂煙が舞い上がる―――その中に。
「ふざけんな化け物!」
 地面に付いた両手を軸に、勢い良く足を回転させ虚の足を払ったたつきは、虚の身体に押しつぶされる前に敏捷にその場から飛び退っていた。
「あんた、見たことあるわ―――あんたみたいの、見たことある。あの馬鹿が黒い着物着て追っかけてた化け物の仲間ね?」
 用心深く間合いを取りながら、たつきは虚を睨みつけそう言った。
 その瞳には、先程の何の感情もない無機質な光はなく、いつもの光が―――一護が眩しがる、その光が輝いている。
「丁度いいわ、あんたに聞きたいことがあるのよ……!」
 あんたが関係ないと言い切るなら。
 こっちから関係を作ってやる。
「関係ないなんて―――言わせるもんか!!」
 立ち上がった虚に向かってたつきは走る。さっきは見えなかった虚の動きが、今は不思議とゆっくりと見える。振りかぶった太い腕、振り下ろされる長い爪―――その隙間を縫い、風のように迅速に、たつきは虚の懐に飛び込んで、巨大な腹に肘を入れた。硬質の手応えと共にぱりんと陶器の割れるような音がする。
 驚愕の叫びを上げ後ずさる虚を追いかけ、たつきは蹴りを入れた。息をつかずにもう一撃、次いで拳を虚に叩きつける。
 その瞬間、自分の拳から何か光が虚の身体に吸い込まれていくのを感じた。
 先程の比ではない絶叫。
 虚の、身体の内部から破壊されていく光景を目の当たりにして、たつきはやや呆然と自分の拳を見つめた。
 自分の拳から放たれた閃光。それが虚の体内に入り、四散した。
 もう戦意などないのだろう、呻きながら血を吐き倒れこんだ虚にたつきは近づいた。小山のような巨体を前に、「さあ教えてもらうわよ」と睨みつける。
「あんたは何?何でそんな姿なの?この胸の鎖は何?あんたみたいのを追っかけて、あいつは一体何をしてるの?」
「お、俺は―――」
 掠れた小さな声に、たつきは虚の巨体に一歩近づいた。聞き取りにくい声を拾おうと身を寄せ―――次の瞬間、自分を見上げる光に気付き舌打ちし身を放した。
「―――っ!!」
 僅かに、間に合わなかった。
 虚の手が、たつきの身体を引き倒した。抵抗するよりも早く、肩に爪を立てられ―――それ自体が小さなナイフのようなその爪が、たつきの肩を抉り―――たつきは絶叫した。
 血が、噴水のように溢れ出る―――その傷口を長い舌で舐め、虚は歓喜の声を上げた。この程度の量の血を口にしただけで、体中に霊力が満ちるのを感じる。自分の力の限界値が上がっていくのを実感し、虚はたつきの傷口に口を寄せ、夢中になってその血を舐め上げた。
 傷口を抉るように、虚の舌がたつきの身体の内部まで侵略する。ぴちゃぴちゃと血を啜る音がする。よりその血を受け止めることが出来るよう、虚は小さなたつきの身体を両手で掴み抱え上げ、僅かも取りこぼすことなくたつきの血を舐め続けた。
 虚の舌がたつきの傷口を抉るたび、たつきは小さな悲鳴をあげ身体びくびくと痙攣させる。傷口から、血と共に力が抜け出ていくのがたつきにもわかった。それが虚の傷を治し、体力を回復していることにも。
「すげえ―――なんて霊力だ」
 牙に伝うたつきの血が地面に落ちる。多量の出血にたつきの身体は力を失い、糸の切れた人形のようにぐったりと虚の手の中で白い顔を仰向かせている。
「おおっと、折角のご馳走、味わって食べねえとな」
 下卑た声、下品な笑い。
「肉は勿論、骨まで全部喰ってやる。一欠けらも残すことなく味わってしゃぶりつくしてやるから安心しな」
 虚の長い爪が自分の喉にかかるのを感じて、たつきは痺れた身体で頭上の虚を見上げた。
 死んだ後にも死ぬのは妙だ、と考えながら、結局、またも生命を失うときに浮かぶ顔は同じなんだ、と苦笑する。
 自分の一番欲しいもの、自分の一番大切なもの。
 今になって素直に認められる。
 死ぬ間際のこのときになってようやく、本当に……自分はなんて可愛げのない。
「……一、護」
 ずっと手に入れたかったのは、一番身近な幼馴染。
 欲しかったものは―――本当はすぐ目の前に。
「一護……」
 一護の気配が―――すぐ近くに在るような気がした。






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