1カ月。
 1カ月、一護の姿を見ていない。



 今までこんなに離れたことがあったっけ、とたつきは川原でぼんやりと水面を見つめている。
 空手部は現在、活動は休止になっている……実質廃部と言っていいだろう。何しろ、たつき以外の部員殆どが居なくなってしまったのだから。
 何故誰も騒がないのか―――まるでそんな事はありふれたことだというように。
 突然多くの人の生命が奪われたというのに、不自然なほど―――実際、あまりにも不自然な周囲の反応だった。原因不明、部活の途中で突然自分以外の部員が急死したというのに、何の騒ぎもなく―――失った意識を取り戻したとき、全ての処理は終わっていた。
 誰に原因を聞かれることもなく、誰に理由を聞かれることもなく―――数十人の部員の死はうやむやになった。
 明らかにおかしい。不気味と言っていい―――有り得ない話。
 けれどたつきは何も言わず、自分の身に起きた出来事をただ自分の心だけに止めていた。
 ヒトで無い存在。
 異形の生物。
 一瞬でヒトの生命を奪った白い影。
 意識が遠くなる最後の瞬間、自分を庇うように目の前に現れた見慣れた長い髪―――姿。
 有り得ない話―――けれど、実際にあった話。
 その記憶さえ、最初は持っていなかった。この事実を忘れることの方が有り得ない。
 それでも、実際にたつきは忘れていたのだ―――若しくは。
 消されていたのか、記憶を。
 他の人々と同じように。
 疑問を持つことを許されず。
 日常の生活を続けるように。
 別の世界を気付かせないように―――。
「……何が起きてるってのよ」
 自分が酷く、弱い存在だと―――たつきは思う。
 自分はこんなに弱かったのか、と。
 心細くて堪らない。
 誰かに傍にいてほしい。
 ……に、傍にいて欲しい。
「……ばかみたい」
 川原に腰を下ろした自分の膝に顔を埋める。ぽたぽたと落ちる小さな雫が、かわらの小石の色を濃く変えていく。
「あたしは……弱くない、こんなのあたしじゃない。あたしは、あたしは……」
 寂しさは消えず、心細さは消えない。
 独りきり。
 誰の心も見えない。一護の心も、織姫の心も、
 ―――自分の心も。






 
 近づく気配に、たつきははっと顔を上げた。
 一護に似た感覚―――似ているけれど、明らかに違う感じ、その気配が近づいてくる―――二つ。

「はやくしろよ、とれえなお前」
「だって……私のほうが荷物多い……」
「何か言ったかよ、雨」
「…………」

 小さな子供だった。男の子と女の子。その二人が買い物袋を提げて川原の道を歩いている。
 その二人の気配が―――何故か、一護に似ていた。
 一見、ただの子供だ―――よくいる普通の子供。男の子は気の強そうな、逆に女の子は気が弱そうな。小さな身体に似合わない大きな荷物を、二人は腕にぶら下げて歩いている。
 無意識に緊張するたつきの横を、二人の子供は通り過ぎてゆく。
 しばらく後、二人を追ってたつきは歩き出した。何のために、という意識もなく―――ただ、一護に似た気配に惹かれるように。
 そう長い時間後を追う必要もなかった。二人の子供は、背後のたつきに気付く様子もなく、直ぐに川原から離れ住宅街へと足を向け―――程なく付いた先は。
「…………」
 つい数日前、同じ場所に自分は立っていた。
 小さな個人商店。
 何を売っているのかわからない、一昔前の店構え。
 あの時感じた気配はあの子達のものだったのか、と納得し―――更に複数。
 ぞく、と背筋を寒気が走る。
 あまりにも大きな―――どう表現していいかわからない、『感覚』。桁が違う。殺気、本気の闘争、力のぶつかり合い―――?
 地下から感じる、一護と似たような『感覚』。
 ―――何が……起きてる?
 茫然と立ち尽くすたつきの肩に、背後から手が置かれた。







「たつきちゃん?」
「―――織姫」
 いつもと同じ、明るい笑顔の織姫は―――こんなところでどうしたの、と不思議そうに言った。
「どうしたのって―――そりゃあたしの台詞よ。織姫こそ―――どうしたのよ、ずっと学校休んで」
「あ―――ごめんね。心配、かけちゃったよね」
「謝らなくていいから―――ねえ、どうしたの?何があったのよ?」
 思わず両肩を掴んで顔を覗きこんだたつきが、織姫の顔に見たものは―――一番見たくない表情だった。
 困ったような……笑顔。
 本当のことを言うつもりは無いと如実に語るその表情。
「ん、ちょっと今色々忙しくて……ごめんね。でも、なんでもないんだよ。もう少ししたらまたみんなで学校行けるようになるから」
「みんな……?」
「うん。きっと。きっと戻ってくるから」
 安心させるように―――事実、織姫はたつきを心配させまいとしているのだろう。何も理由は言わず―――それすらも恐らくたつきの為を思って。
 たつきの両手が織姫の肩からゆっくりと離れた。
 胸の痛みがたつきを襲う―――灼熱の熱さ。今まで感じたことの無いほど、熱く、強く、激しく、烈火のように、燃え上がるその感情の名は―――。
「―――一護は、元気?」
「黒崎君?うん、元気だよ。大丈夫、心配しないで。近い内に学校行くって言ってたよ」
「―――そう」
 自分の声が他人の声のように、たつきには聞こえた。―――乾いた声。感情のこもらない声。酷く冷たい―――その、声。
「たつきちゃん?」
「わかったわ。じゃあ」
 くるりと背中を向けて歩き出した自分の背中を、織姫が不思議そうに見つめているのがわかる。やがてその気配は動き、―――恐らくあの店に入ったのだろう、「こんにちは」という明るい織姫の声が小さく聞こえた。




 胸の焔は消えない。
 知らずに流れていた涙でも。


『一護は元気?』
『うん、元気だよ』


 それは、織姫は一護と会っているということ。 
 自分の知らない世界を、自分の知らない秘密を二人は共有している。
 この想いは―――疎外感。
 それ以外の名前があるはずは無い、あってはならない。
 けれど、その時初めてたつきは―――織姫に、怒りを感じていた。
 自分よりも一護を理解しているという、その想いが現れている織姫の言葉に。
 織姫に自覚は無いだろう、そんな負の感情は織姫には無い。
 天真爛漫な、優しい子。
 ―――その無神経な明るさが、嫌い。
「違う、違う―――あたしは、織姫が嫌いなんて、そんな筈」
 ―――あたしの気持ちなんて知ろうともしないで。
「違う―――あたしの気持ちなんて、あたしは一護をなんとも思ってない!」
 大好きな織姫。
 あたしが護ってきた大事な子。
 優しくて明るい、そして強い―――。
「あたしは―――……!」
 机に顔を伏せ、たつきは嗚咽を洩らした。
 あたしは独りでいい。
 呪文のように呟きながら、たつきは長い間、身動ぎもしなかった。
  
 




 ―――そしてたつきは自分の罪を知る。
 翌日、明け方まで寝付けなかったたつきが、重い身体を起こしたその世界。
 織姫の気配は―――消えていた。





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