窓の外の景色は変わらないのに、とたつきは人知れず溜息をつく。
午後の気だるい空気の中、耳に入る世界史の教師の声は単調で、ちらりと見渡した教室の中の同級生の顔は皆一様に眠そうだ。
外には明るい太陽の日差しが穏やかに地上に降り注ぎ、平和な日常のありふれた一日を彩っている。
そのいつもと変わらない日常の風景、それを眺めるたつきの心は重い。
教室には空席が4つ。
石田雨竜。
井上織姫。
茶渡泰寅。
―――黒崎一護。
ちらりと横目でその4つの空間を視界に入れて、再びたつきは溜息を吐く。
窓の外の景色は変わらないのに―――。
色々なことが随分変わってしまったと、たつきは思う。
その変化は少しずつ、何日もかけてゆっくりと、目に見えない僅かな変化で―――そして気付いた時には、もう手遅れだった。
何かが起きている。
何かが始まっている。
けれど自分には何も出来ない。何故なら、それは。
―――誰も、何も教えてくれないからだ。
織姫も―――一護、も。
つきんとたつきの胸は針で刺したような痛みを覚える。傷口は小さな、けれどそれは―――深い傷。
たつきは今まで、自分と一護、その関係を考えることは無かった。そんな必要は無かったし、そんな意味も無い。
幼馴染で喧嘩友達で仲間。
その関係に疑問を持つことなど無かった。それは当たり前のことで、一護が一護であること、それと全く同じくらいに当たり前のことだった。
けれど今はその関係に自信が持てない。
自分は一護にとってどんな存在なのか。
幼馴染で喧嘩友達で仲間。
本当に自分は一護にとってそうなのか。
大切な友人と、それ以外。
一護の中の、自分の立ち位置はどこなのだろう。
一護と織姫……二人は、共通の秘密を持っている。
それを知っていても、それが何かとたつきは聞くことは出来なかった。彼ら二人だけの秘密、その二人の間に自分が入ることなど出来る訳がない。
ずっと一護を想い続けていた織姫、その想いの成就は親友として喜ばなくてはいけない―――一護の親友として、自分は織姫という少女を一護に紹介したことを誇らなくてはいけない。
いけないのに。
自分の気持ちに整理が付かないのはどうしてだろう。
胸の痛みは治まらない。むしろ激しく強くなっていく。
―――自分の知らない世界を、一護は持っている。
例えば―――突然現れた転入生。
最初に1人、後に6人。
その誰もが一護を知っていたのはどうしてだろう。
昔からの知り合いのように、何もかもを知っているような顔で、どうしてあんな風に一護に話しかけるのか。
そして何故、一護もそれを受け入れているのか。
数ヶ月前とは明らかに違う、その雰囲気を身に纏って。
自分の知らない間に、一護に何があったのだろう。
―――そしてそれを、自分は決して知ることは出来ないのだ。
恐らく4人は共通の何かを持っている。誰も知らない、誰にも知られないように隠している何か。
そう考えた途端、抑えきれない衝動が込み上げて、たつきは拳を握り締める。
その感情、「変わってしまった何か」を考えるたびに込み上げるその灼熱に似た感情を、たつきはずっと「疎外感」だと思っていた。
今までずっと一緒に居た織姫、今までずっと出来事を共有してきた一護。
その二人が自分には何も言わず、二人で共有している秘密がある。
どうして何も言ってくれないのか。
そう考える度に、唇を噛み締めなくてはならない程、拳を握り締めなければならない程、たつきの感情は激しく昂ぶった。
これは、疎外感。
胸を熱く焦がすその痛みを感じる度に、たつきはそう考える。
それに付随する、淋しさと哀しさ、悔しさ。これは疎外感。そうでなくてはならない。他の感情なんて、ない。
ある筈がない―――あってはいけない。
『黒崎君!』
一護を見つめるその瞳―――優しい少女。
織姫と一護を会わせたことは、たつきにとって誇れる事実の筈―――だった。
『これ、黒崎一護。4歳からの幼馴染。今はこんな目付き悪い男だけど、昔はよくあたしが泣かせたもんよ』
『なんだその紹介の仕方は』
素になってしまった目付きの悪さで『よろしくな、井上』と言った一護と『よろしくね、黒崎君!』と物怖じせずに返した織姫を、たつきは横で見ていた。
自分の親友、一護と織姫を自分を介して会わせた事、それは極自然な成り行き。
そして……織姫が一護の姿を追うようになったのも、それは自然の成り行き……なのか。
『私、黒崎君好きだなあ』
たつきちゃんは、黒崎君のことどう思う?
織姫らしく、なんのてらいもなく素直に無邪気にそう口にされた言葉に、たつきは一瞬息を呑み―――『あんたあんなのがいいの?趣味悪いわねぇ』と。
笑って―――『喧嘩友達だよ、あたしと一護はさ』。
その日のことをたつきは今も思い出す。
胸が焼ける痛みと共に、必ずその言葉を思い出す。
4歳からの幼馴染。喧嘩友達。
―――他の感情なんて、ない。
教室の窓の外の景色を見ながら、たつきは心の内に呟いた。
「……あ」
何となく家に真直ぐ帰りたくなくて、行く当てもなく歩いていたたつきの目の前に一軒の店があった。
何の変哲もない、少し時代の入った個人商店。
店の前は綺麗に掃き清められて、硝子戸も磨き上げられている。それなのに何故か店内の様子は良く見えない。
―――この店をたつきは知っている。
自分は入ったことはないが、一度だけ、一護がこの店に入るのを見たことがある。
その時はさして気にも留めなかったが、今この店先に立ち、こんな場所に一体何の用だったんだろう、とたつきは首を傾げた。
まず、一体この店で何を売っているのかがわからない。
「浦原商店」と看板は出ているのだが文房具屋なのか駄菓子屋なのか雑貨屋なのか、どうにも良くわからない店の雰囲気だ。
一護の家は商店街に近いから、大抵の買い物はそっちで済むはず―――そこで手に入らず、ここで手に入るものはなんだろう、と興味を引かれ、たつきは店に近づいた。
(……あれ?)
奥の方に―――感じる気配。
たつきは足を止めてその感覚を吟味する。
一護と似ているような―――感覚。一護とは微妙に違う、それでも似た感覚。
たつきが一護から何か、不思議な感覚を受けるようになったのは最近の事だ。
具体的に言えば、夏の少し前……テレビの撮影を見に行った時、観音寺の番組の撮影を見に行ったあと辺りから、たつきは一護から不思議な感覚を感じるようになった。
他の誰にも感じたことがない、圧迫感とも微妙に違う……表現できない感覚。
「うちの店に何か御用っスか?」
気配を感じさせずに、突然背後から掛けられた声にたつきは驚いた。空手をやっている自分に、僅かの気配も感じさせずに背後に立つことが出来る者がそうそう居るはずもない……緊張し勢いよく振り返ったたつきは、目の前の帽子をかぶり扇子を広げた男を目にして小さく口を開けた。ここまで気配を殺す男はどんな男だと思っていたのに意表をつかれた。足元を見れば下駄まで履いている。
「あれ……アナタ、有沢サン、でしょう?」
男の様子に脱力した身体が、再び緊張する。どれほど鈍感な人間でもそのぴりぴりとした緊張感、警戒心は伝わるはずなのだが、目の前の男は気にする様子もなく飄々と笑っている。
「……どうしてあたしを知ってるんですか」
会った記憶は無い。どこかで会っていたら、この下駄と帽子の組み合わせだ、絶対に覚えているだろう。身構えるたつきに対し、目の前の男は「あ、すみません」と頭を下げ、扇子をパタパタと扇いだ。
「遅れましたが、アタシ、浦原喜助と申します。この浦原商店の店主をしております。それでアタシが有沢サンを知ってる理由ですが、黒崎サン絡みといえば警戒心を解いていただけますか?」
「一護の?」
警戒心は消えないが、この男には興味が出てきた。今まで、一護の交友関係で自分の知らない人間は居なかった。そう、今までは。
一護が変わってからの、一護の知人。
「一護と、どういう……」
「有沢サン、アナタ幽霊とか見えるでしょう」
たつきの話を無視して、そして無視してることを気にした様子もなく、へらへらと笑いながら浦原と名乗る男は全く関係ないことを言い出した。
「はあ?」
「ううーん、そうですね……これはちょっと心配かな……速い内に手を打たないと危ないかもしれないですね……黒崎サンも気付いていてもおかしくないんですが、あの人今煮詰まってますしねえ……」
「あの、何言ってるんですか?」
「いや、アナタがアタシの大好きな女性に似てるって話を」
「……全然そうは聞こえませんでしたけど」
「似てるんですよ、アタシの大好きな女性の若い頃に。そのきつい目とか、身に纏っている研ぎ澄まされた空気とか、強さとか。顔つきも似てますねえ、ちょっと好きになってしまいそうです」
これは駄目だ、と溜息を吐き、それでも一応礼儀として頭を下げ、くるりと背中を見せ歩き出した背中に「有沢サン」と声がかかった。
振り返ったたつきの視線の先に、先程とは違う、真面目な表情の浦原の顔があった。
「見えていることを、黒崎サンに言ってみてください。今、黒崎サンちょっと色々ありましてね……悩み事が多いんですよ。是非アナタの力を借りたいんです」
「……あたしなんて別に、……一護の助けには」
「黒崎サンの自覚のためにも必要なんですよ。何が原点なのか。小難しいことで理由付けるよりも、一番重要なことです」
頼みます、と頭を下げられ、たつきは戸惑ったように浦原を見つめた。その時には既に、浦原の表情は最初のつかみどころの無い笑顔へと戻っている。
「今度は黒崎サンと遊びに来てくださいねー。うちの店、面白いものたくさんありますから」
絶対ですよー、と続ける浦原に軽く礼をし、たつきはその場を後にした。
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