ざわ、と動いた空気を肌に感じた。
 周囲の視線が自分たちに注がれているのが解る。視線という何の物理的な力のないはずのものが、紛れもない圧力をもって自分たちに突き刺さる。驚き、不審、怒り、蔑み――今まで向けられたことの無い視線。その視線を受けながら、ルキアは表面上は何も気付いていない体を装って、傍らを歩く恋次に目を向けることなく、真正面を向いて歩く。
 今ここで恋次に視線を向ければ、周囲の視線が更に刺々しいものに変わることは容易に想像できた。だからルキアは、ただ真直ぐと前を見据え、周囲には何も変わったことなどないように、歩く速度にも気を使い普通を自然を装って一番隊隊舎に向かって歩を進める。
 二人が進むたび、避けるようにさあっと人の列が割れていく。一番隊隊舎は最奥に在り、また今は出舎する隊員たちが一番多い時間帯だ。ひそひそと交わされる声に内心唇を噛み締めながら、前を向き歩いていたルキアの背後から「よう」と飄々とした声がかけられた。
「今日からか」
「はい、檜佐木副隊長」
 微かに安堵を響かせながら、ルキアは立ち止まり背後を振り返った。隣の恋次もそれに倣う。
「久しぶりだな、女の敵」
 周囲の囁く声と同じ言葉を恋次に投げかけた檜佐木に、ルキアは驚いて目を見張った。咎めるような、訴えるようなルキアの視線を無視して檜佐木は「もう身体は大丈夫なのか最低男」と恋次の肩を叩く。
「あんたがソレを言う資格ないでしょ、女の敵の最低男」
 艶のある声で呆れたように言いながら、ルキアの視界に豪奢な金色の髪が翻った。救いの手に今度ははっきりと安堵の表情を浮かべるルキアの前で、乱菊は「で、身体の調子はもういいの? 二股男」と真顔で恋次に声をかけ、一瞬でルキアの顔は泣きそうになる。
 対して恋次はただ苦笑を浮かべ、向けられた酷い言葉に反論する様子はない。「はい、ご心配とご迷惑をおかけしました」と頭を下げる。普段ならば先輩である檜佐木と乱菊にももう少し砕けた様子を見せる恋次だったが、今日は生真面目にそう言った。
「申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げる恋次は、彼らに自分がかけた心配と迷惑が、仕事を休んでいたことに対するものではなく、咲琉とルキアと自分の関係だったことを充分承知している。何度も忠告と助言を与えてくれたのは彼らだけだった。そしてそれを完全に無視していた恋次は、彼らに皮肉を言われても仕方がないと思っている。
「これでお前は瀞霊廷で『女を食い物にする極悪人』の称号を得た訳だ、やったな」
「仲間が出来て良かったわね、檜佐木」
「俺はそんな称号持ってないですよ乱菊さん」
「女ったらしの浮気者。それがあんたの世間の評価よ」
「それこそこいつの評価じゃないですか、俺じゃないです」
「あの!」
 居た堪れずに間に入ったルキアを、「ん?」と檜佐木と乱菊が見降ろした。恋次に向ける半目ではなく、目に笑みを湛えてルキアを見る。
「どうした、嬢ちゃん」
「なあに? 朽木」
 恋次へかける声とは違い子供をあやすような優しい声だと、恋次への謂れのない中傷を止めようとするルキアは気付かずに「誤解です」と必死に訴えた。
「恋次はそんなのではありません。誤解です、全部私が悪くて、恋次は――」
「悪いのは恋次よ、ヘタレだから」
「そうだな、悪いのは恋次だ。ヘタレだから」
「違……っ」
 一生懸命誤解を解こうとするルキアを、檜佐木と乱菊は笑いながら見ている。尚も恋次を擁護しようと唇を開いたルキアはふと気が付いた。
 周囲の視線が幾分とやわらかくなっている。
 咎めるような刺すような視線は消え、刺々しく発せられた恋次への聞えよがしの罵詈雑言も聞こえなくなっていた。
 それが、正面切って檜佐木と乱菊が恋次を責めたせいだと気が付いた。
 陰で非難する彼らが陰湿で卑怯だと、檜佐木と乱菊は伝えているのだ。
「……私が恋次を振り切って、なのに恋次が離れるのが許せなくて……」
 自分に嘘を吐いて、恋次に嘘を吐いて、咲琉に嘘を吐いて。結局すべての人を傷付けて。
 思い返しても胸が痛い。自分の勝手な自己満足で、恋次と咲琉を傷付けたのだ。しかも、結局恋次を咲琉から奪い取った。あまりにも自分勝手な――
 不意にぎゅっと抱きしめられてルキアは「わあ!」と思わず声を上げた。豊かな胸に包まれて窒息しそうだ。
「いいのよいいのよ! 他人の色恋なんて当事者にしかわからないの、他人が横から口を出すものじゃないのはわかってるから!」
「まあ、自分の気持ちに正直になるのは、何も見ないよりもいいことだと思うぞ俺は」
 乱菊の胸に埋もれているルキアを羨ましそうに横目で見ながら、檜佐木はルキアにそう言った。
「その上で、傷付けた相手に真摯に向き合うしかないんだろうな」
 ――二人は全て知っているのだ、とルキアは気付いた。
 ルキアの間違いも、恋次の間違いも。
 ルキアが咲琉を思い、咲琉が恋次を想い、恋次がルキアを想い、ルキアが恋次への想いに気付き、
 ルキアが恋次と咲琉を傷付け、咲琉がルキアを傷付け、恋次がルキアと咲琉を傷付けたことを。
 じゃあな、と手を上げそれぞれの隊舎に向かう二人を見送りながら、再び恋次とルキアは一番隊隊舎に向かい歩き出した。周囲の声は聞こえなくなったが、相変わらず二人は無遠慮な視線にさらされている。
 覚悟をしていなかった訳じゃない。
 それでも、実際に身に受ける敵意や蔑みの視線は想像以上の物だった。
「――すまない……」
 傍らの恋次に呟く。
 一方的な誹謗中傷。事実を知らない第三者の悪意ある囁き。ルキアと咲琉、二人ともに「朽木」の名を持つ所為だろうか、向けられる悪意は恋次への物が圧倒的だった。
 何も知らない貴族の少女を手玉に取った。
 分家の咲琉を捨て、本家のルキアを取った。
 出世のため。
 金のため。
 貴族になりたいがため。
 初心な少女を誑した。
 幼馴染を切り捨てた。
 少女二人を天秤に掛けた。
 恋次の悪評は、偏に「まだ少女の咲琉を誑かして捨てた」所に起因する。
 恋次と咲琉が二人連れだって歩く姿は、瀞霊廷のほとんどの者が見ている。人目のある中、二人が抱き合い口付けていたことも有名だ。
 全て咲琉が望み、恋次はその願いを叶えるため――咲琉と恋次の幸せを願うルキアのために、咲琉が望むままに全てを叶えていたことなど、周囲が知る由もない。
 その咲琉を捨て、恋次はルキアを選んだ。
 そう思われていることに、ルキアは居た堪れない。全ての原因が自分にあることを知っているからだ。
 俯き唇を噛むルキアに、恋次は「違う」と前を向いたまま言う。
「俺が傷付けたのは事実だ。咲琉も、――お前も」
 前を見据えた恋次の表情が酷く暗く見えてルキアは息を飲む。
 声に出さない恋次の言葉が、聞こえる。

 ――これは、罪だ。
 永遠に許されない俺の。


「れん――」
「着いたぞルキア」
 振り仰いだ恋次の表情に、たった今の暗い表情はない。
 すでにいつもの精悍な恋次の表情だ。復帰報告で一番隊隊長の元へ向かうに相応しい引き締まった顔。
 もう何度目になるかわからない胸をよぎる不安に、けれどどうすることも出来ずに――ルキアは「ああ」と頷き返す。
 日々は戻る。
 忙しい死神としての日々が。
 やはり一番隊の隊員たちの視線を集めながら、恋次とルキアは総隊長へ目通りを願うため、隊舎内へと足を進め入れた。







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