一月振りに見る重厚な水楢の木の扉を叩くと、すぐに応答があったので「失礼します」と声をかけてから扉を開ける。
 一歩入れば見慣れた光景――広い、部屋主の好みに沿った実用的でシンプルな、落ち着いた色合いの部屋だ。大きな窓を背に机があり、そこには美麗な青年が座っている。
「長い間、ご迷惑をおかけしました。本日から復帰します」
「卯ノ花から連絡は来ている」
 傍らの書類にちらりと目を向けて白哉は言った。報告書にはやわらかな文章で、要約すれば「人の言い付けも守らず私の目の届かないことをいいことに過度の鍛錬をして体力筋力を回復させたので仕方なく仕事復帰を認めます」としたためられていた。
「総隊長殿への挨拶は」
「はい、先程ルキアと一緒に」
「そうか」
 目の前に立ち報告をする恋次を見やり、白哉は頷く。元々言葉の数が少ない白哉の言いたいことを汲み取るのも恋次の仕事の一つだ。「例の件の指示も頂いてきました」と書類を渡す。
 恋次から総隊長の書類を受け取ると、ざっと目を通していく白哉に恋次は口頭でも総隊長の意志を伝える。
「調査・捜査に関しては朽木隊長と俺が引き続き行うこと、緊急時には総隊長の許可を待たず朽木隊長の判断で処置・行動をして良い事、必要な物資や人材は好きにしていいこと、背後関係の不明から、この件に関しては不用意に他人に漏らさないこと。書面で頂いてます」
「――総隊長殿は内通者がいると?」
「その可能性も捨てきれないと。――ただ恐らくは、情報の出所は四十六室からだろうとの見解でした」
「そちらの調査も?」
「総隊長の名を使用して良いと」
 無言で頷き、白哉は机の隅を叩いた。何度か違う場所を叩くとぽかりと空間が現れる。重要書類を保管するその空間へ書類をしまうと、同じように机の隅を白哉にしかわからない順番で叩くと、それは唯の机に戻る。
「調査はほとんど進んでいない」
「目撃者が少ないからですか」
「そうだ。実質、お前とルキアしかいない」
 あの日、霊王降臨の儀の――あの時に起きた事件。
 ルキアが拉致されそうになり、それを恋次が止め瀕死の重傷を負ったあの日。
「四人の賊の素性はいまだ不明だ」
「勿論、『御屋形様』もですね」
 それはルキアからも聞いていた。
「小早川」と名乗る男が口にしていた「御屋形様」。あの人数の、しかも手練れを手足のように使っているとなれば、相手はかなりの力を持っていると言っていい。
 この一連の事件――数か月前から続く、流魂街から発する事件の総元締めであるとしたら、尚更。
「――俺は、ルキアを復帰させるのは反対です」
 不意に口から零れた恋次の言葉に、白哉は机に座ったまま、目の前で直立している恋次を無言で見上げる。
 上司に意見する、という心持ちからか、幾分恋次の顔は強張って見えた。
「向こうはルキアを狙っていました。ルキアだと確認してから拉致しようとしたんです。目的はルキアだ。しかも相手の事は何もわからない。何時、誰に、何処で襲われるかわからない。こんな状況で復帰するのは危険すぎる」
 言い募る内に興奮したのか敬語を忘れて意見する恋次に、やはり白哉は無言だった。言いたいことを吐き出し恋次が落ち着くのを待って、白哉は「……屋敷に居たとして」と静かに諭す。
「屋敷の者では襲撃の際に阻止できぬ。護廷十三隊以上に安全な場所はないだろう」
「ですが、自宅と此処との行き来の間が」
「それはお前が居るだろう」
 ぐ、と詰まる恋次に白哉は初めて訝しげな表情を浮かべた。
「如何した? 周囲の言葉など気にするお前ではないだろう」
「……いえ、でも」
 言い淀む恋次に、白哉は「咲琉の事は心配しなくて良い」と静かに言った。
「おおよその事情は知っている。この件に関してはお前は巻き込まれただけだ。元凶はルキアだ、お前が気に病むことはない」
「いや、それは」
「決して譲ってはいけないものをルキアは譲った。己を殺せば他者が皆幸せになると。それはルキアの傲慢さだ。意識していなくとも」
「……………」
「ルキアが咲琉の為に己を殺した。それを知りつつ咲琉はお前を手に入れるために己を優先した。人の心が他者の思惑でどうにかなるなど出来る筈もないというのに」
 恋次の想いはずっと変わることがない。過去も現在も未来も。
 それを捻じ曲げようとしたのは、ルキアと咲琉だ。
「……けれど、隊長。俺は」
「出来れば暫く屋敷に居て欲しいと思っている。……公務ではなく私的な頼みだ。相手がルキアをこのまま諦めるとは思えぬ」

『じゃあ、またね』

 自分に深々と剣を突き立てながら、ルキアに笑いかけた男の声が甦る。
 それは再びルキアを攫いに来るという予告だ。
 他者を傷付けること、心も身体も――それに悦びを見出している、血に酔いしれた瞳。
「…………はい」
 逡巡した後、目を伏せながら恋次は頷いた。
 



 一月振りの仕事を終え――その殆どが方々への挨拶だったが――浮竹隊長に促されるままに定時で隊舎を出ると、そこに待っていた恋次に「え?」とルキアは声を上げた。
「どうしたのだ? 十三番隊に何か――」
「いや」
 一緒に歩き出す恋次に視線で疑問を投げかけると、恋次は何気なく視線を背けた。
「また暫く厄介になることになった」
「え?」
 ルキアは目を見張る。言葉を脳内に反芻して、ぱっと目を輝かせる。
「そうか、それじゃ――」
「――悪い」
 真直ぐに前を向いた恋次の瞳。
 紅いその瞳の色が、暗く――以前の輝く強い鮮やかさではなく、墨を滲ませたような濃い紅に、瞬間ルキアは息を飲む。
 ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように痛んだ。
「謝るのは私の方だ。兄様が無理を言ったのだろう? ――兄様は私に、少し過保護すぎる気がする」
 恋次の謝罪をルキアは何も気付かない振りをした。無邪気さを装って明るく答える。
「私ならば大丈夫なのに。しかも此処は瀞霊廷だ。死神でなければ入り込むことすらできない」
「その、死神と中央四十六室以外の者が入れないところにあいつらは入り込んだんだぞ」
 諭すように口にする恋次の瞳は明度を増していた。墨の色は消えている。それにほっとしながらルキアは「そうだな、すまなかった」と生真面目な顔で頷いて見せた。
「ではすまないが、よろしく頼む」
 何気ない顔で、何気ない声でルキアは恋次に笑いかける。
「……また一緒に居られて、私は嬉しい」
 喜びが伝わるようにと、ルキアは恋次の腕に手をかけた。そのまま身体を摺り寄せる。
 周囲の視線は気にならなかった。それよりももっと大事な、大切な、守らなければならないものがそばにある。
 寄り添う二人の姿は、心通わす恋人同士としか映らないだろう。
 それでいいとルキアは思った。
 大切なものは過去ではなく、今だと。
 本当なのは過去ではなく今だと。
 周囲の者よりも誰よりも、ルキアは恋次に伝えたかった。








 事前に白哉から連絡が行っていたのだろう、ルキアと恋次を出迎えた朽木家の従者たちは驚くことなく二人を屋敷内へと導いた。
 既に整えられていた恋次の部屋は以前と同じ部屋で、着替えなどもすべて整っている。
 恋次と別れ自室に戻ったルキアは、自分付の藤井が着替えを手伝いながら「お食事は阿散井さまとご一緒でよろしいですね?」と訪ねてきて頷いた。
「兄さまは?」
「今日はもう少し遅くなるようでございます。お二人に先にお食事を、と」
「わかった。ではよろしく頼む」
 黒一色の死履装から部屋着に着替える。少しだけ考えた後、ルキアは淡い紫の着物を手に取った。以前、恋次が褒めてくれた色だ。
 食事の用意が整ったと藤井が伝えに来、ルキアは恋次の部屋へと向かう。
 失礼する、と声をかけると「ああ」と返事が返る。数か月前にも交わしたこのやりとりに、数ヶ月前とは違う自分たちの関係を思う。
 あの時と今。二人の関係は進んだのだろうか。
 ルキアは小さく息を吸い込んだ。
 すらりと抵抗なく開いたふすまの向こうに、数か月前と同じように恋次が座っている。
 用意された部屋着に着替えていた恋次は、ルキアを見て眩しげに一瞬目を細めた。
「待たせたか?」
「いや」
 背後で閉めた襖が部屋を他から隔離する。静かな部屋にルキアは恋次と二人きりだ。
 恋次と向かい合わせに設えられた膳に座り、用意されていた徳利を持つ。
「いや、酒はいい」
「……そうか」
 今此処に居るのはルキアの警護のためだということだろう。いざというときに酒が入っていれば反応が遅れる。
 けれど、と思う。
 護廷十三隊の隊長、しかも瀞霊廷屈指の貴族である朽木の屋敷に押し入る賊がいるとも思えない。自分が狙われているというのは、理由は不明だが状況的には確かなようなので周囲には気を配っているが、どうして自分がと思わざるを得ない。
 自分を浚い、相手に何の益があるというのだろう。
「――何故私なんだろう?」
 二人向き合っての食事中に交わす話題としてルキアとしては不本意ではあったが、恋次に問いかける。
「心当たりは全くない。――いや、知らぬ間に人に恨まれたりはしているかもしれないが……」
 誰かに恨まれずに生きていくことはあり得ない。生きていれば必ず誰かしらに嫌われる。それは仕方のないことだけれど。
「流石にここまで恨まれるようなことはしていないとは思うのだが……」
 与り知らぬ恨みの理由の原因の一つとして考えられるのは、大貴族である朽木という姓を名乗っていることなのだが、ルキアが養女だということは周知の事実で、朽木の名前を継ぐことは100%ないと断言できる。
 いずれ誰かの――出来るならば恋次の――元に嫁ぐ身なのだ、朽木の姓はいつかは変わる。卑しい流魂街出の女が名乗る姓ではないということは養女になった当初散々言われたことだが、今になって自分を排除しようというのもおかしいだろう。
「俺が考えてるのは、藍染の件だ」
「藍染……」
 ああ、とルキアは頷く。
「崩玉か」
「そう、それならば『お前』しかいない」
 この身に埋められた崩玉――浦原の手で埋められ、藍染の手で抜き取られた崩玉。そんな体験をしたのは確かに自分だけだとルキアは複雑な笑みを浮かべる。
「確かに、奴らは私の身体に傷を付けることを禁じられていたようだ。……そうか、崩玉……」
「崩玉の何かしらの記録が欲しいのか……お前の身体を」
 調べて、と続けた恋次の言葉が途切れた。
 その後の言葉を待つルキアの耳に、恋次の声が聞こえない。無意識に顔を上げたルキアは目を見開いた。
 昏い紅。
 以前にはなかった瞳の影。
 怒りの焔が眩めいている。
 その対象は藍染か、今も何処かで息をしているルキアを攫おうとしたあの男たちか、全ての黒幕か、……
 それとも。
「……調べても何もないと思うがな」
 影を帯びた瞳に気付かぬ振りをして、ルキアは不自然なく、空気を乱さず、至極真面目な声音で呟いた。
「崩玉が取り出されて何年たったと思っているのか。何か異常があればとっくに出ている」
 事務的に、今この場で交わすのにふさわしい声音で。
 恋次の瞳が元の色に戻る。没頭しかけた思考から、ルキアの声に導かれ「此処」に戻る。
「念のため、四番隊で調べてもらった方がいいのかな?」
 問いかけるのは更に「此処」に引き留める為に。
「それとも十二番隊?」
「そっちはやめといた方がいいと思うぞ。逆に変な物を埋め込まれるかも知れねえし」
「確かに」
 肩をすくめるルキアに恋次が笑う。
 その笑顔に安堵して、ルキアは笑った。








 胸にざわめく不安は、確実にルキアを押し潰そうとしている。
 ――恋次のこの変化を、誰か気付いているだろうか。
 以前の変化は、皆が気付いた。心が虚ろな恋次を、恋次に近しいものは皆が気付いた。 
 けれど今の恋次の変化を気付いているのは――気付けるのは。
 変化の兆しは既にはっきりとしている。
 例えば――恋次は自分に触れない。恋次からは触れない。自分に触れようとした手は、届く前に下ろされる。
 何かに気付いたように。何かに怯えるように。
 ――触れる資格はない、と戒めるように。
 例えば――あの瞳の昏い影。
 不安定な心を映す影。
 誰も気付かない。
 あの七日間を知らない故に気付けない。
 あの七日間の記憶が、恋次を苦しめている。あの夜の、あの闇の――恋次と自分の、罪と罰を。

 
 



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