尋ねた家に、居なくてはいけないはずのその家の住人が居なかったことは想定の範囲内だったので、ルキアは一つ溜息を吐くとぐるりと敷地を回って庭へと出る。
十三番隊の副隊長という地位はかなりの高位なので、もらう給金の額も高く、また支給される官舎もある程度の広さを持つ。無論、大貴族である朽木白哉や大前田希千代などは広大な自宅があるため官舎には住んでいないが、大抵の独身の席官たちは与えられた官舎を住居としていることが多い。
予想していた通り、庭に回ってルキアが目にしたものは、一心に刀を振り下ろしている恋次の姿だった。動きやすさの為か熱さの為か、もしくはその両方の理由からか、上半身は裸でその肌に珠のような汗が噴き出ている。一月ほどの入院で削げ落ちた筋肉は、今では大分その量を取り戻していた。まだ本調子ではないだろうが、その動きには一月前に生死の境を彷徨っていたとは思えないほどの活力がある。
ルキアの来訪は勿論気付いているはずだ。それでも鍛錬をやめない恋次にもう一度小さく溜息を吐くと、縁側を上がり、大きく開いたままの窓から部屋の中に入り、勝手知ったる動きで冷たいお茶と濡れた手拭を用意する。
十分後、大きく息を吐き、恋次が縁側に腰を下ろした。半ば倒れ込むように座った恋次に、ルキアは用意したお茶と手拭を渡す。
「悪い」
短い一言と共に、恋次は一息で冷たいお茶を流し込んだ。ふー、と再び大きく息を吐き、濡れた手拭で汗ばんだ身体を拭っていく。
その間にルキアは空になった盃にお茶を満たし、恋次の傍に置く。
「そんなに無理をするな。卯ノ花隊長が見たらお怒りになるぞ」
実際、恋次はまだ安静にしているように卯ノ花に言われているのだ。長い間意識のなかった身体は恋次の身体を消耗させている。一時は死を宣告されるほどの衰弱だったというのに、恋次は退院をして卯ノ花の目が届かないことをいいことに、体力が戻るまで休養を言いつかったその日々をひたすら鍛錬に費やしている。
最初は心配から恋次を諌めていたルキアだったが、言っても聞かないこと、また鍛錬をしている方が恋次の精神的にも良いということが分かっていたので、余程の無理をしなければ黙認をしていた。その代わり、こうして毎日足繁く恋次の家へと通い、恋次が限度以上の鍛錬をしないか見張っている。
ルキアも現在は出廷を止められている。恋次ほどの重症ではなかったが、成分が不明の薬物を投与された故に、大事をとって休暇扱いになっていた。内密に白哉と浮竹から、恋次が無茶をしないかという監視役としての任を命じられていたが、二人の隊長の本心はまた別にあるのだろう。
一時、すれ違っていた恋次とルキアを、元のような関係に戻るための二人だけの時間。
その為の仮初の任だったが、真面目な、悪く言えば鈍いルキアには年長者たちの気遣いはわからない。それでも二人きりになれることは嬉しく、ルキアは毎日恋次の家へと通っていた。
退院後の恋次は、がむしゃらにひたすら細くなった腕の筋肉を取り戻そうと鍛錬し続けていた。ルキアが心配するほど、そして感心するほどの勢いで、恋次は元の身体を取り戻していく。
――その原因が、自分であるということをルキアは知っている。
恋次は口にはしないけれども。
「次の診察は一週間後だからな。それまでに元に戻さねえと」
卯ノ花の許可が下りなければ、仕事に復帰することができない。最速で復帰するには、退院して初めての診察で卯ノ花に許可をもらうしかない。恐らく一週間後には、恋次の身体は完全に元に戻っているだろう――そしてそのことで卯ノ花隊長に怒られることは目に見えているのだが。
「そんなに急いで戻らなくても――」
仕事に戻ればこうして二人で過ごす時間は減ってしまう。ルキアがそう口にしなくても、恋次には伝わってしまったようだ。苦笑して、けれど嬉しそうに、恋次はルキアを手招きする。
「ん」
やや頬を赤くして、ルキアは恋次の横に移動した。そのまま恋次を抱きしめる。
以前よりもやや薄くなった胸に顔を埋め、恋次の背中に腕を回す。鍛錬後のまだ火照っている恋次の肌に触れて、紅くなった頬を誤魔化した。
恋次の大きな手がルキアの頭を優しく撫でる。
「何も変わったことはないか?」
「ああ。大丈夫だ」
恋次が一秒でも早く元の身体に戻ろうとしている原因――それは。
ルキアを護るためだと、ルキアは気付いている。
恋次が重傷を負った折、ルキアは謎の一団に身柄を拘束されかけていた。「朽木ルキア」を狙った数人の男――「御屋形様」と彼らの呼ぶ、誰かの指示でルキアは浚われかけた。
生半な者は近付くことさえできない王族降臨のその真最中に現れたその一団。
賊の一人が口にした「四十六室の榊河」は、その後の調べで賊とは何の関係もないことが分かった。ルキアに見せた四十六室の発行した手形が本物だったかどうかも今はもうわからない。けれどあの場に入るための検査を潜り抜けあの場に居たことは間違いなく、四十六室と護廷十三隊の中でもその件はかなり問題視されている。
「それに、私ももう油断しない。――だから大丈夫だ」
その言葉だけでは納得できないのか、ルキアの身体を抱きしめる恋次の腕に力が籠る。その力はルキアが痛みを覚えるほどに。
微かに身動ぎしたルキアに、はっと恋次が腕を離した。何かを思い出したように、――否、間違いなく「あの時」を思い出して。
「恋次」
静かに恋次を引き留める。違う、そうじゃないから。思い出すな。今此処にいる私を信じろ。今この時を信じろ。
「恋次……」
名前を呼ぶ声が甘くかすれる。再び抱きしめられる腕の暖かさに、ルキアはそっと目を閉じる。
屋敷まで送る、という恋次に一人で大丈夫だと何度言っても、恋次は頑として首を縦に振らなかった。最後にはルキアが根負けして、屋敷までの道のりを恋次と共に歩くことになる。
「――本末転倒だ」
「何が」
「私はお前の見舞いに来たのに。お前の負担になってるではないか」
「この程度、全然負担になんかならねえよ」
いい運動になるしな、と恋次はルキアの横で笑う。
恋次の住む宿舎から、朽木家の屋敷までは結構な距離がある。勿論瞬歩で移動すれば一瞬なのだが、せっかくの二人でいる時間を一瞬で終わらせる必要を恋次とルキアのどちらも認めなかったので、二人はこうして夜道をゆっくりと歩いている。
「お前はいつから出廷するんだ?」
「私は、お前が隊に復帰するときに一緒に出てくるように言われている」
「――身体に異常はないのか? 本当に?」
「大丈夫だって何度も言っただろう? お前の方が重傷だったんだからな、人の心配より自分の心配をしろ、莫迦者」
夜の帳は下りて、辺りは暗く人の往来は殆どない。
他愛無い話を二人で交わしながら、屋敷の横にある雑木林の前に着いた時、ルキアはそこで足を止めた。数歩進んだところで、ルキアが動かないことに気付き恋次も足を止める。
「どうした? ルキア」
「もう屋敷だから」
「ああ」
「……だから」
仰向いて目を閉じる。
意図が通じたのか、一瞬の後に恋次が近付く気配がして――唇が重なる。
ルキアが恋次をかき抱く。恋次の腕がルキアの背中に回される。……そのまま、数秒……数十秒。
やがて離れた唇に、紅くなった顔を見られないようにルキアは俯いて一歩恋次から離れた。激しい動悸を抑えるように、数度呼吸を繰り返す。
「……じゃあ、また明日」
「門まで送る」
「もうすぐそこだから……」
大丈夫、という言葉に恋次は頷いた。それなのに、「じゃあ」と歩き出したルキアの後ろを恋次もついてくる。
「だから大丈夫だと……」
「お前が強いことはわかっている。だからこれは俺の勝手なんだ。俺が安心したいだけなんだ。悪い」
――その言葉に、その恋次の瞳に。
ルキアは「わかった」と答えるしかなく。
門までのあと数メートルを、再び二人で歩く。言葉はなく――安心させるようにルキアは恋次の手を取った。二人で手を繋いで歩く。
「じゃあ、明日」
「ああ」
名残惜しそうに手を離したルキアに、恋次は手を上げて挨拶をし、来た道を戻っていく。――その姿はすぐに夜に紛れて見えなくなった。
手に残るぬくもり、唇に残るぬくもり。
唇を指でそっと触れる。
「…………」
恋次が消えた闇を見つめるルキアの瞳は、何処か不安な色を帯びていた。
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