伝令神機を切るのと、ルキアが俯きながら部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。
何も言わないルキアに、恋次は「隊長にお前の無事を伝えたから」と通話の内容を伝えると、ルキアの目が伏せられる。
「兄様にも―――ご迷惑をかけてしまった」
ぽつりと呟かれるその言葉が痛々しい。
何度お前の所為ではないと告げても、ルキアはその言葉全てを受け止める事はできないようだった。
繰り返される「お前に触れてもらう資格は私にはない」という言葉に、何度も違うといい続けた。
お前は何も変わらない、と。
自分の心も何も変わっていない、と。
同じだけ繰り返して、ようやくルキアは言葉に出す事はなくなった。
けれど、恋次と視線を合わすことはない。
記憶が戻って、まだ数時間なのだ。気持ちの整理もつかないのだろう。
「少し待ってろ―――風呂から出たら、送って行くから」
その恋次の言葉に、ルキアは小さく首を横に振る。
「まだ―――あの家には帰りたくない。この後どうするか考えたい。結論を出すまで―――明日には出すから。今日はここに泊めてくれないか」
今後―――どうするか。
自分を襲った男を告発するのか。
それとも、何も言わずに普通の生活に戻るのか。
ルキアはずっとそれを考えているのだろう。
告発すれば、朽木家に迷惑が掛かる。
けれど、何事もなかったようには―――過ごせない。
同じ死神なのだ、顔を合わせることもあるだろう―――その時、自分が正気でいられるとはとても思えない。
どうしたらいいのか―――何が一番いい選択か。
疲れた身体と精神で、ルキアは考え続けていた。
「泊まるのは構わねえけどな―――今日はもう寝ろ。何も考えるな」
「……でも」
「そんな状態で考えたってまともな判断出来ねーよ。いいから今日は寝ろ。明日一日かけて考えればいいだろう」
こくりと小さく頷いて、ルキアは用意された布団へと身を滑り込ませた。
海で冷え切った身体は、熱い湯に浸かって充分暖まったようだ。
ただ、瞬歩でこの家まで運び込む為にルキアを抱きかかえて走った時、ルキアの身体は強張っていた。湯が溜まる間に髪を拭ってやった時も。
恋次が触れても―――ルキアは反射的に身体を強張らせる。
拒否―――理性ではあの男と違うとわかっていても、傷付いた身体と心は恋次さえも同じ「男」として反応してしまう。
恋次は気付いていたが―――如何しようも、ない。
ルキアと入れ違いに風呂に入り、湯船に背を預け身体を沈め、冬の海に冷え切った身体を暖めながら、恋次は目を閉じた。
何が最善か。
何が最良か。
結局何も―――自分には出来ないのか。
ルキアの為に何も出来ず―――護ることすら、出来ず。
重い心のまま、風呂から上がり夜着に着替え、ルキアの休む部屋の襖を細く開け中を眺める。規則正しい小さな吐息を確認して、恋次は襖を閉じた。
自分の寝室の寝台にひとり横になりながら、闇夜の中で恋次の目は空を見つめている。
腕の中のルキアの、強張った身体の感触。
震えていたのは、寒さの所為か―――恐怖の所為か。
どんなに言葉を紡いでも、どんなに態度で示しても、そう簡単には受け入れられないのだろう……そう、自分は間違いなく、「男」なのだ。
ルキアを襲った「男」と同じ。
その行為の源にある想いは180度違う、けれどルキアには―――同じことだと、そう言えるのではないだろうか。
「男」を「受け入れる」―――受動的な立場の「女」には。
暴力的なそれ。
愛しくて募る想い。
相反した感情、けれど行動は同じで―――「男」が「女」を組み敷いて、自分の欲を捻じ込み注ぎ込むのは―――結局、同じだ。
愛しくて、恋しくて……ルキアを想う気持ちは、純粋にルキアを「慾しい」という想いに繋がる。
心も、身体も……手に入れたい。
そばにいれば、触れたい。
髪に、手に、頬に、唇に。
愛しいから、触れたい。
けれどそれは―――今のルキアにとっては、恐怖、忌避すべき行為でしかない。
愛しいから触れたい。
愛しいならば触れない。
今、ルキアに触れたら―――自分もその男と同じ、自分の欲望のみを考えた、唾棄すべき存在に成り下がる。
今、触れたら―――否。
それは永劫、続くのかもしれない。
心の傷が癒えずに、精神的外傷を抱え、それでもルキアは自分を愛してくれるだろう―――か。
自分はルキアを傷つけずにいられるだろうか。
今はまだ、平気だろう。
明日もまだ。
一週間後も、まだ。
けれど―――その先は?
一ヵ月後。
半年後。
一年後。
自分はルキアに触れずにいられるだろうか?
これほど愛しく想い、これほど恋しく想い、それでも……自分は触れずにいることが出来るだろうか。
ルキアを想う気持ち。
それは今では―――諸刃の剣だ。
ルキアを想う故に―――傷つけてしまう。
宙を見据える目に映る、夜の闇は恋次の心の中に似ている。
先が―――見えない。
出口が見えない。
手探りで進むけれど、その道が正しいのかもわからない。
立ち止まればいいのだろうか。
このまま進めばいいのだろうか。
歩いてきた道を戻ればいいのか。
道を変えるのが正しい選択なのか。
暗くて何も―――……
不意に灯りが一筋、部屋を照らした。
寝台に身を起こす恋次の目に映るのは……やはり、俯いたままの小さな姿。
「……如何して……ここに居るんだ」
やはり、震えている。
「如何して……一緒に居てくれないんだ」
震えているのは……恐怖、ではなくて。
否……恐れていたのだろう、ルキアは。
「私にはもう……触れたく、ないのか。やはりもう……嫌いになったの、か?」
恋次だけに許すべき身体を、他の男に許してしまった。
自分の意思ではなかったけれど―――けれど、事実は事実。
絶望の深さは―――想いの深さ。
恋次への想いが深いほど―――自身の身を襲った現実に絶望した。
恋次への想いが深かった故に―――正気を手放した。
……自分は、恋次以外の男に抱かれてしまった。
だから、もう。
「お前は、もう……私に触れる気はないのか」
ぽろぽろとこぼれる涙が、とても綺麗だと……恋次は思う。
寝台を降りて、ルキアに近付く。
見えなかった道。
仲間たちが死んで、虚無に襲われたときも。
真央霊術院で、自分を見失いそうだったときも。
ルキアと離れ、護廷十三隊に入隊したときも。
ルキアが罪人として自分と相対したあのときも。
何が正しくて、どう行動すべきか迷い惑ったあのときも。
いつだって道を指し示すのは―――
ルキア。
自分にとってかけがえのない、唯一の、ただひとりの。
「……そんな訳ねえだろう、この莫迦」
抱きしめる―――想いを込めて、強く、強く。
「ずっと―――触れたかった」
髪に、手に、頬に、唇に。
全てに。
触れるだけの口づけを、唇に落とし、次いで頬に落とし、首筋に落とす。
ルキアの両手を握り締め、目の前にかしずくように跪く。
夜着の帯を解き、前が肌蹴たその隙間から手を差し入れ……肌に触れ。
びくりと竦んだルキアの身体を、抱え上げて寝台に下ろした。
白い肌は雪のようにやわらかく光を発して、夜の闇に浮かび上がる―――幻想的なまでに美しく。
もう一度、唇に。今度は舌を差し入れると、ルキアもぎこちなく自分の舌を絡ませる。
右手で―――ルキアの胸に触れた。
その瞬間、ルキアの身体が反応する―――快感に、ではなく、恐怖に。
「―――っ」
ルキアは両手で恋次の身体を突き放した。
ルキアの身体が震え出す……いまだ身体に残る、忌まわしい記憶に連動した感触。
「ぅ、ぁ、ぁ………っ」
頭ではわかっている。これはあの男の手ではなく、愛しい男の、恋次が与える刺激だと。
けれど……どうしても身体が震える。恐怖で身体が竦んでしまう。無意識に恋次を拒絶してしまう。
自分から恋次に触れようと、手を伸ばす―――伸ばそうとする。けれど、その手は震えるだけで恋次の元へは届かない。
身体が―――拒絶している。
この行為に。
「ど、して……!こんな、こんなのはいやだ……私は、恋次に抱かれたい、のに」
心から想う。自分は恋次を愛していると。
けれど身体は拒絶する―――恋次の手が、あの男のものと誤解し恐怖に強張る。
無理矢理押し広げられた身体の痛み、無理矢理捻じ伏せられた心の痛み―――それが瞬時にルキアの身体を硬直させる。
「どうしてこんな風になってしまうんだ……どうして!」
泣きじゃくるルキアの顔を隠した両手を、恋次は静かに掴んで引き離した。同じく静かに、恋次は言う。
「目を閉じるな。見てろ、お前に触れてるのが誰なのか」
寝台の上に落ちていたルキアの夜着の紐を恋次は拾い上げた。
その一端をルキアの右手首に結わい付け、そしてもう一端を自分の左手首に括り付ける。
ふたりを結び付けて。
離れないように、と。
まるで……入水し、互いの身体が離れぬようにと、結ぶように。
ぴたりと重なり合った手首を視界に入れ、恋次は言う。
「全て、触れる。お前の全てに。髪の先から、指の先まで―――全部」
そのルキアの記憶を上書きする。
全てに触れ、ルキアの中の、忌まわしい記憶を消去する。
「全部、見てろ。目を閉じるな―――お前に触れてるのは、俺だ」
恋次の指が、手が、舌が……ルキアに触れる。
丁寧に、慎重に、優しく……やわらかく。
ルキアの瞳に映るのは、ずっと焦がれた赤い色。
恋次の触れる箇所から、熱が伝わる。
ルキアの見つめる視線の先、恋次はルキアの全てに、丹念に触れていく。
恐怖に強張っていた身体は、徐々に力が抜けていき―――白い身体は、桜色に上気していく。
浅く速かった呼吸は、やがて甘い声と共に吐き出され。
熱い、激しい想いそのままに―――素直に、身体が受け入れる。
いつもならば羞恥で抵抗する箇所も、すすんで身体を開いて触れて欲しいと訴えた。
全て触れて欲しい。
何もかも、余すところなく。
ルキアの自由な左手は、恋次を求めるようにその背中をかき抱いた。
髪に触れる恋次の唇。
耳朶を咬む恋次の歯。
首筋を辿る恋次の舌。
胸に触れる恋次の手。
指に絡まる恋次の指。
その全てを、ルキアは目を閉じる事無く見詰めている。
優しく―――激しく―――恋次の愛撫は続く。
その刺激にルキアの身体は熱く火照り、透明な雫が薔薇の花弁を伝い落ちていく。
満たされていく―――全てが元に戻っていく。
何度も夜を重ね、何度も抱き合ったあの幸せな時へと。
「綺麗だぜ」
恋次がルキアの手を取り、その甲に口付ける。真摯に、心からそう呟く。
闇に光る仄かな白。
舞う雪に似た純白。
心も身体も何よりも綺麗だと、繰り返し恋次は言う。
「触れたら―――お前が溶けちまいそうだ」
「私が溶けたら―――お前が口にして」
そうしてお前の中で溶けて混ざって―――それは何て、至福。
「私が溶けて―――お前が溶けて―――一緒に、混ざり合って……天の高みと地の墜落、最後まで―――離れないで」
恋次はそのルキアの願いを聞き入れる。過たず、正確にその意図を汲み取って―――ゆっくりと這入り込む恋次の熱に、ルキアの身体は大きく弓なりに反り返り、歓喜の声を上げ、繋がれた右手の指を恋次の指に絡ませる。
「恋次……!」
自分の中の、恋次の熱。
逃さぬようにと、恋次を締め付けている自分の内部。
愛されている、と確信できる行為。
愛している、と確認できる行為。
恥じることはなく、忌避することはなく、羞恥することはなく、怯えることはなく、無心にただ―――愛すればいいのだ。
声で。
吐息で。
仕草で。
視線で。
「愛して―――もっと」
本能のままに、理性を捨てて、相手を慾して、全てを与えて、全てを感じて。
恋次の動きに合わせて、ルキアも動く。深く恋次を感じるように。深く自分を感じてもらうために。
「あ、ん……っ、ぁ、ぁっ!」
感じる歓喜、それを躊躇わずに口にする。
繋がれた手首と、繋がれたもうひとつの場所。
一瞬毎に気が遠くなる。
「もう、あ、恋次……もう、私……っ!」
視線を合わせて懇願する……連れて行って、と。
一緒に―――同時に。
激しくなった恋次の動きにルキアは回した恋次の肩に爪を立て、絶頂の瞬間に名前を呼んで硬直した身体の中に、熱いものが満たされて―――見上げれば、見下ろす恋次の顔に、同時に高みへ達したのだと、今更ながらに恥ずかしく……ルキアはようやく瞳を閉じた。
自分の身体を抱きしめる暖かい腕。
触れる体温に、身体が強張る事はもうなかった。
目を閉じるルキアの耳元で囁かれる恋次の言葉に、ルキアの顔に微笑が浮かび、小さく頷き―――目を開ける。
両手で恋次の頬を挟みこみ、唇を重ねた。
恋次への言葉の代わりに。
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